《論談時評》第1回 増えてる? 増えてない? 「ニート」を読み解く
「ニート」をめぐる論争がにわかに活性化しています。ところが、この論争、非常に幅広い領域が対象となり、教育、労働、経済、経営、社会論など、多様なバックボーン、立場を持つ論者が参入した結果、争点がきわめてわかりにくくなっています。「ニート」について、どんな人が、どんな主張をしているのか。「ニート」を正しく理解するためには、どの論考に注目したらいいでしょうか?
(text by 松田尚之=ライター)
「ニート」を放っておくなという声
そもそも「ニート」は、英国社会で用いられてきた「NEET」(not in education, employment, or training=学生でもなく、働いてもいない若者)という区分概念にルーツを持つ。日本では「15~34歳非労働力(仕事をしていないし、また、失業者として求職活動をしていない)のうち、主に通学でも、主に家事でもない者」と定義される。
耳慣れない「ニート」という言葉が広く社会に知られるようになったきっかけは、2004年7月の玄田有史・曲沼美恵『ニート』(幻冬舎)の刊行だった。同書は、従来型のフリーターでも、失業者でもない「ニート」にカテゴライズされる若者が、バブル崩壊後の1990年代半ばから急速に増えていると指摘。これが異色の現代社会論としてベストセラーになるにつれ、新聞、雑誌、書籍、テレビなどで社会問題としての「ニート」論がかまびすしく語られるようになっていく。「ニート」を放っておくなという声が高まり、現在では行政機関などが「ニート」を支援する(「ニート」問題を解決する)政策も一部実現化するに至っている。たとえば、2005年度からスタートした「若者自立支援塾」などだ。
一方で2005年後半ごろから、こうした「ニート」論への疑念、異論の声も高まってきた。その代表的なものが、本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書)だ。同書は、政府、マスメディアを巻き込んだ「ニートキャンペーン」は問題の捏造であり、本来解決すべき困難を隠蔽するものと批判する。その根拠は、働く意欲や希望を持たない若者は過去に比べて増えていないという調査統計資料の読み込みにある。「ニート」論の多くは、こうした事実に反し、一部の犯罪事件やひきこもりなどの耳目を集めやすい現象から安易に導かれる俗流若者批判と結びついて、「困った若者」「病んだ若者」が増えているというバッシングに利用されているというわけだ。著者たちは、働きたくても働く場がない若者の内面に問題を押しつけるな、と主張する。
「ニート」は若年雇用の問題の一つにすぎない
相対的な力点の置き方として、若年無業者の「自立支援」介入に軸足を置く玄田氏らと、そうしたありようを当事者に問題、責任を押し付けるものとして批判する本田氏らの対立の構図がクローズアップされているのが現在の「ニート」をめぐる「論壇的」状況だ。
しかし、個別現実の問題に即して考えると、両者の主張はどちらか一方が正しい、事態の改善に有効だ、とは言い切れない。何より相互の言説批判が現実社会の問題を離れ、研究者などの専門家間で自己目的的に消費されつつあるのは残念な傾向だ。より本質的で大きな問題が一般世間に伝わりづらくなっている感は否めない。
では、一連の「ニート」論争の背景にある、注目すべき本質的な大テーマとは何か。それは「現代日本における若年雇用(就業)問題」であり、さらに焦点を絞れば「学校から職業への移行(が困難になっているという)問題」である。皮肉にも、前記した玄田氏、本田氏は、ともにこうした関心から「ニート」問題へ接近していったという共通点を持つ。玄田『ジョブ・クリエイション』(日本経済新聞社)は、データ分析をもとに、1990年代の日本企業社会から多くの雇用機会が失われた経緯と原因を分析する。また本田『若者と仕事』(東京大学出版会)は、戦後日本の経済成長を支えた学校経由の就職システムがここに来て機能不全を起こしていることを指摘する。
世界史的には異例の経済成長が90年代のバブル崩壊まで続いた日本では、欧米諸国で1970年代からすでに見られた若者(の失業)問題が顕在化することがなかった。高校、大学などを経由し、新卒正社員として企業に就職することが若者の標準的な進路選択として成立する条件が、たまたまの偶然が多数重なって整っていたのである。
ところがバブル崩壊後の大不況で様相は一変した。多くの企業が新卒採用者数を極端に絞り込み、また正規雇用社員を減らし非正規雇用社員を増やす人事政策を採用したことにより、大量の(みずから望まない)若年失業者、フリーターに代表される不安定雇用労働者が生み出され、正規雇用社員との分断が進んだ。「ニート」問題は、こうした若年雇用(就業)問題全体の困難の一分肢としてとらえかえされなくてはならない。
このように考えたとき、現在から未来に向けて、社会の何をどう変革することが真の問題解決につながるのか、政策論的なポイントは主に2点考えられる。第一が「学校教育(公教育)における広義の職業教育の展開」。第二が「企業の人事・人材育成政策の展開」である。前者に関しては、小杉礼子・掘有喜衣編『キャリア教育と就業支援』(勁草書房)が、イギリス、アメリカ、ドイツ、スウェーデンなどの状況を紹介しており参考になる。後者に関しては、白川一郎『日本のニート・世界のフリーター』(中公新書ラクレ)が、やはりイギリス、フランス、ドイツなどの若年雇用政策を概観する資料として役に立つ。
今の若者が身につけるべき職業能力
ところで、マクロ経済的視点から見たとき、景気が回復すれば若年雇用も回復し、「ニート」問題も自然消滅的に解決するのではないかという論議がある(『諸君!』2006年3月号座談会「ニート『85万人』の大嘘」など)。この点については議論が分かれるが、延長線上に視野を広げたとき、もうひとつ、重要なテーマが浮上する。前記した「学校教育(公教育)における広義の職業教育」と「企業の人事・人材育成政策」という2つのポイントにまたがり、両者をつなぐ問題でもある。
それは、「ポスト近代社会、ポスト産業資本主義時代に働く人々が求められる能力の変質」をどう見るかということだ。現代企業がどのような人材を求め、育成しようとしているのか、それに対応する職業能力を社会が若者にどう保障していくかという問題、すなわち「現代的な能力論」の視点である。
大久保幸夫『仕事のための12の基礎力』(日経BP社)は、知識経済社会の進展を前提に、働く人の能力のベースには「相手に対する反応力」「愛嬌力」などが必須だと指摘する。すなわちワーカーには、狭義の職業能力以前に、セルフマネジメント力やコミュニケーション力など、いわゆる「人間力」が要求されるのが現代の特徴なのだ。こうした能力は、従来の知識詰め込み型教育、体制順応型教育で養われる能力と異なる。「ニート」論争につながる現代の若者の就業困難の問題は、この「人間力」的能力を持つものと持たざるものの格差が広がっていることと切り分けて考えることができない。仮に景気が回復し、雇用が回復しても、「人間力」なき若者が自立的主体的なキャリア形成をすることは難しいと予想されるからである。
この点について、本田氏は「人間力」的な能力観から距離を置き、それよりもむしろ、『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)の中にあるように、職業的な専門領域に関する基礎的な教育を行うことで、若者にキャリアを切りひらくポスト近代型能力を保障する道を示唆している。また苅谷剛彦『なぜ教育論争は不毛なのか』(中公新書)、『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社)は、一連の「学力低下論」「階層社会論」と本テーマとの接点を提示する。
もっと「当事者」の声が聞きたい
今後、この「ニート」論争を現実社会に対する実効性を持つものに鍛え上げるためには、当事者である若年無業者、企業の人事政策の最前線で苦闘しているビジネスマン、進路指導に頭を悩ませている学校教員などの声をていねいに拾い上げる必要がある(もっともこの点に関して、インターネット上での意見交換はかなり活発になされるようになってきた。たとえば本田氏の個人ブログコメント欄における論議など)。
そんな中で、「ニート」支援の現場で多数のケースに真摯に取り組んできた二神能基『希望のニート』(東洋経済新報社)、みずからも長期的安定、保障のない働き方を続ける杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院)などの存在は貴重だ。杉田は、「不安定労働者たちは、絶対に今後も増え続ける」としたうえで、「『能力のない人間は遺棄されて死んでも仕方がない』のすべてを絶対に拒絶したい!」と述べる。今後は、こうした当事者の声を繰り込み、実存的な重みのある言葉で論争が展開されることが期待される。