両利きの経営
両利きの経営とは?
両利きの経営とは、既存事業を磨く「知の深化」と新規事業を開拓する「知の探索」を、同時に追求する経営戦略のことです。米国の経営学者チャールズ・A・オライリー氏とマイケル・L・タッシュマン氏が提唱しました。変化の激しい時代に成熟企業がイノベーションを起こし、持続的に成長するために不可欠な経営手法として注目を集めています。本記事では、両利きの経営の定義・歴史的背景・注目される理由・実践のための要件・人事に求められる役割・企業事例まで、体系的に解説します。
両利きの経営とは
両利きの経営は、単なる新規事業開発の手法ではなく、企業が長期的に変化へ適応し、イノベーションを生み出し続けるための経営手法です。世界の経営学において、イノベーション研究の最重要理論の一つに位置づけられています。
両利きの経営の定義と概要
両利きの経営とは、既存事業を継続的に改善・強化していく「知の深化(Exploitation)」と、自社の認知の範囲を超えて新たな事業機会を探索していく「知の探索(Exploration)」を、組織内で同時に高い水準で両立させる経営のあり方です。「右手も左手も利き手のように使いこなす」という比喩から、「両利き(Ambidexterity)」と呼ばれています。
人間は、慣れ親しんだ作業(深化)と新しい挑戦(探索)の両方を遂行するのが難しいとされています。組織も同様で、既存事業の効率化と、不確実な新規事業の探索は本質的に矛盾します。両利きの経営は、この矛盾を組織的に乗り越えることを目指す考え方です。人事領域においては、評価制度・人材配置・組織開発・リーダーシップなど、あらゆる人事機能の前提を問い直す重要な概念といえます。
提唱者と歴史的背景
両利きの経営は、米スタンフォード大学経営大学院教授のチャールズ・A・オライリー氏と、米ハーバード・ビジネス・スクール教授のマイケル・L・タッシュマン氏によって体系化されました。両氏は1990年代から共同研究を進め、2016年に共著書『Lead and Disrupt』(邦題:『両利きの経営』)を出版しました。日本では2019年に翻訳版が刊行され、早稲田大学の入山章栄氏が監訳・解説を務めたことで一気に注目が高まりました。
両利きの経営が注目される背景
両利きの経営が世界的に注目を集めている背景には、企業を取り巻く環境の急激な変化と、成熟企業が直面する構造的なジレンマがあります。
デジタル化と環境変化の加速(VUCA時代)
現代の経営環境は、変動性(Volatility)・不確実性(Uncertainty)・複雑性(Complexity)・曖昧性(Ambiguity)の頭文字を取って「VUCA」と表現されます。AIの急速な進化、グローバル競争の激化、サステナビリティ要請の高まりなど、ビジネスを取り巻く前提条件は短期間で大きく変化します。
かつては10年、20年と安定していた事業モデルが、わずか数年で陳腐化することも珍しくありません。スマートフォンの登場で携帯電話メーカーの勢力図が一変したり、配信サービスの普及がDVDレンタル業界を消滅させたりしたように、変化に適応できない企業は淘汰されます。既存事業だけに依存していると、市場の変化や破壊的イノベーションに対して脆弱になるため、企業には未来への種まきとなる「探索」の活動が不可欠なのです。
イノベーションのジレンマと日本企業の課題
ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン氏は、書籍『イノベーションのジレンマ』の中で、優良企業ほど既存顧客の声に耳を傾け、既存事業の改善に注力するために、結果として破壊的イノベーションへの対応が遅れて衰退する現象を指摘しました。両利きの経営は、このジレンマに対する一つの解決策と位置づけられています。
特に日本企業では、長らく続いた「ものづくり」の成功体験や、メンバーシップ型雇用に代表される均質性の高い組織運営が、新しいアイデアの創出を阻害している側面があります。
「知の探索」と「知の深化」
両利きの経営を理解するうえで欠かせないのが、「知の探索」と「知の深化」という二つの活動です。
知の探索(Exploration)とは
知の探索とは、自社や自身が持つ既存の認知の範囲を超えて認知を広げようとする行為を指します。新規事業の開拓、新しい技術や市場の調査、外部とのオープンイノベーション、未知の顧客ニーズの発見などが該当します。
知の探索の特徴は、成果が出るまでに時間がかかり、結果が不確実な点にあります。一方で、知の探索を怠ると、企業は新しい事業の芽を持てず、長期的な競争力を失います。
知の深化(Exploitation)とは
知の深化とは、企業が既に持っている特定分野の知識・技術・ノウハウを継続的に深掘りし、磨き込んでいく行為を指します。既存製品の品質改善、コスト削減、業務プロセスの効率化、オペレーションの標準化など、現在のビジネスを強化する活動が該当します。
知の深化は、短期的に成果が見えやすく、収益にも直結しやすいことが特徴です。安定した収益基盤を作るうえで欠かせませんが、深化に偏りすぎると、市場や技術が変化したときに対応できなくなるリスクを抱えます。
サクセストラップ(成功の罠)
オライリー氏とタッシュマン氏は、企業は放っておくと「知の深化」に偏ると指摘します。これを「サクセストラップ(成功の罠)」あるいは「コンピテンシー・トラップ」と呼びます。
成功している事業ほど、その事業で蓄積したノウハウや顧客基盤を活用するほうが、コストもリスクも低く、短期的な成果につながります。経営者は株主から四半期ごとに利益を求められ、現場でも目に見える成果が評価されるため、不確実な探索よりも確実な深化に資源が流れやすいのです。結果として変化への対応力を失い、長期的な衰退を招くのが、日本企業の多くが直面しているジレンマです。
両利きの経営を実現する三つのアプローチと四つの要件
両利きの経営の実装については、大きく分けて三つのアプローチと四つの要件が提唱されています。
構造的アプローチ(Structural Ambidexterity)
最も主流とされるのが、「深化」を担う組織と「探索」を担う組織を物理的に分け、それぞれに異なる目標・評価指標・組織文化を持たせる方法です。新規事業のための独立した部門を設け、本体とは異なるルールで運営します。
ただし、単に組織を分けるだけでは「新しい子会社をつくった」だけにとどまります。重要なのは、本社の経営資源(技術・人材・販路・ブランドなど)を新規事業側が活用できる仕組みを同時に整えることです。経営トップが両者の橋渡しを担い、対立を調整するリーダーシップが不可欠とされています。
連続的アプローチ(Sequential Ambidexterity)
時期によって組織のモードを切り替え、ある期間は深化に集中し、別の期間は探索に重心を移す方法です。比較的小規模な組織や、市場の変化が緩やかな業界で取り入れられることがあります。
文脈的アプローチ(Contextual Ambidexterity)
ギブソンとバーキンショウが2004年に提唱したアプローチで、組織を分けるのではなく、一人ひとりの社員が日々の業務の中で「探索」と「深化」のバランスを取れるように、組織の制度や文化を設計する方法です。社員の自律性を重視するスタートアップや、専門性の高い職種で機能しやすいとされます。
両利きの経営を成功させる四つの要件
オライリー氏は、両利きの経営を実現するために、四つの要件が必要だと主張しています。
第一に、明確な戦略的意図です。なぜ自社が探索に取り組むのか、その正当性をトップが言語化し、組織全体に共有する必要があります。第二に、経営陣の関与とサポートです。両利きの経営は経営トップがコミットしなければ機能しません。第三に、両利きを支える組織構造です。深化と探索のそれぞれに最適化された組織・評価制度・人材を配置します。そして第四に、組織を貫く共通のアイデンティティ・ビジョン・価値観です。深化と探索が対立しないよう、より高次の目的の下に統合する必要があります。
さらにオライリー氏は、戦略を実行に落とし込むためには「KSF(重要成功要因)・人材・カルチャー・公式の組織」の4要素を強固に結びつけることが重要であると述べています。これらの結合度が高いほど業績が向上し、その結合の鍵となるのが組織カルチャー、すなわち「組織特有の行動パターン」だとされています。
両利きの経営のメリット
両利きの経営を実践することで、企業はさまざまなメリットを享受できます。
イノベーション創出と長期的な競争力強化
両利きの経営が機能している企業ほど、イノベーションが起き、業績が高くなる傾向は、多くの実証研究で示されています。既存事業で稼ぎながら次の柱となる事業を育てられるため、市場や技術が変化しても、別の事業で生き残ることができます。長期にわたって持続する企業の多くが、結果として両利きの経営を実践しています。
既存事業と新規事業の相互作用
両者を組織内に併存させることで、既存事業のリソース(技術・販路・人材)を新規事業に活用でき、新規事業で得た知見を既存事業にフィードバックすることも可能になります。両者がうまく作用し合えば、それぞれの事業の質も高まります。
従業員のエンゲージメント向上
成長機会と挑戦の場が組織内に用意されることで、従業員のモチベーションやエンゲージメントの向上につながります。既存事業の社員には、自部門を「安定して収益を上げる組織」として再定義することで新たな役割意識が生まれ、優秀な人材は探索領域でチャレンジの機会を得られます。
両利きの経営における人事・組織の役割
両利きの経営の実現において、人事部門には深化と探索が共存できる仕組みを設計することが求められます。
評価制度と目標管理の再設計
最も注意すべきは、深化と探索の評価基準を同一にしないことです。深化を求める部門には売上・利益・効率性などの財務指標、探索を求める部門には学習・実験回数・仮説検証の進捗などのプロセス指標を設定するのが基本です。失敗を許容し、挑戦のプロセスを評価する仕組みを整えることで、心理的安全性を担保し、社員が探索行動に踏み出せる環境を作ります。
人材配置と育成
探索領域には、既存の枠組みにとらわれず新しい価値を生み出せる人材が必要です。社内公募制度、社内副業、出向などの仕組みで、社員が自律的にキャリアを切り拓ける選択肢を用意します。同時に、深化部門で培われた専門性も組織の財産として尊重し、両領域を行き来できる人材育成パスを整えることが望ましいでしょう。
組織文化と心理的安全性の醸成
両利きの経営を支えるのは組織文化です。失敗を非難せず、多様な意見を歓迎し、部門を超えた対話を促す文化が必要です。心理的安全性が高い職場は、新しいアイデアの提案や、既存の慣習への建設的な異議申し立てを可能にし、探索活動の土壌となります。
リーダーシップ開発
両利きの経営を担うリーダーには、矛盾を抱えながら意思決定を下す能力、長期的視点、組織カルチャーを変革する力が求められます。次世代経営人材の育成プログラムにおいて、こうした能力を意識的に育てることは、人的資本経営の観点からも重要なテーマです。
【事例1】富士フイルム(既存事業の構造転換と新規事業領域への展開)
両利きの経営の代表的な成功事例として、世界的に知られているのが富士フイルムの変革です。デジタルカメラの普及により写真フイルム市場が急速に縮小する中、同社は早期から事業ポートフォリオの大胆な転換を進めました。
写真フイルムで培ってきたコア技術(化学・光学・分析技術)を起点に、医療機器・医薬品・化粧品・高機能材料といった新規事業領域への進出を進め、現在ではこれらの新規領域が業績を支える主要事業へと成長しています。一方で、写真フイルムを含む既存事業についても、業界再編やオペレーション改善を通じて磨き込みを続け、インスタントカメラ「チェキ」は世界的なヒット商品となっています。
新規事業の探索は、既存事業で培った経営資源を再解釈し、新しい価値領域へと展開することで実現されます。同じフィルム事業を主軸としていた米コダック社が経営破綻に至ったのと対照的に、富士フイルムが両利きの経営を実現できた違いは、経営トップのリーダーシップと変革への意思にあったとオライリー氏らは分析しています。
【事例2】AGC(コア事業と戦略事業の分離)
オライリー氏がスタンフォード大学のケーススタディとして取り上げた、日本企業の代表事例がAGC株式会社(旧・旭硝子)の取り組みです。100年以上の歴史を持つ板ガラスメーカーである同社は、コア事業の成熟化に直面し、長期的成長のために両利きの経営に着手しました。
同社の特徴的な取り組みは、組織を「コア事業」と「戦略事業」に分離した点にあります。コア事業の使命を「キャッシュを生み出すこと」と再定義し、無理な成長を求めるのではなく、安定した収益源としての役割を与えました。一方、戦略事業は別組織のBDD(事業開拓部門)を中心に推進し、ライフサイエンスやエレクトロニクスなどの新領域でビジネスを育てる体制を整えました。
組織アラインメントを実現するために、同社では社長から従業員へのダイレクトメール、ミドル層が長期戦略を策定するタスクフォース、若手や各拠点社員との対話集会などを継続的に実施。トップのコミットメントとボトムアップの参加を両輪で機能させ、企業文化の変革を推進してきました。結果として、戦略事業の営業利益は計画を上回る成果を上げ、コロナ禍にあっても全社の業績を支える事業へと成長しました。
現在では、全社レベルの両利きから事業部レベル、さらには個人レベルの両利きへと段階的にギアチェンジを進めており、両利きの経営を組織能力として根づかせる事例となっています。
関連する主要な人事用語
イノベーション
新たな仕組みや習慣を取り入れ、革新的な価値を創造することを指します。経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが「新結合」として概念化しました。両利きの経営は、企業が持続的にイノベーションを生み出すための組織能力を論じる理論として位置づけられます。
コンピテンシー・トラップ(サクセストラップ)
企業が既存の主力事業や過去の成功体験にとらわれて、従来のビジネスモデルに固執し、新たな可能性を視野に入れなくなる現象を指します。両利きの経営は、まさにこの罠から企業を救う処方箋として提示されている考え方です。
両利きの経営は「語らずとも実現する」時代へ
〈 プロフェッショナルに聞く 〉
- 屬 健太郎さん
- フィールド&ストーリー株式会社 代表取締役
「両利きの経営」の必要性を認識しながら、なぜ多くの日本企業は実装に踏み出せないのか。その停滞の真因は、経営戦略として「探索と深化の両立」を掲げながら、人材育成だけが旧来のコマンド&コントロール型にとどまっている「構造」そのものにあると、株式会社フィールド&ストーリーの屬健太郎さんは指摘します。AIが仕事の前提を一変させるいま、「企業統治のOS」そのものを入れ替え、両利きの経営を“語らずとも実現する”組織へと転換するにはどうすればいいのか。そのアプローチについて屬さんに伺いました。
「両利きの経営が重要だ」と言われ始めてから、すでに10年が経ちます。それでも多くの日本企業で実装が進まない理由は、経営戦略として「探索と深化の両立」を掲げているのに、人材育成だけは旧来のままだからです。従順さ・勤勉さ・専門性を備えた人材を採用し、コマンド&コントロール型の組織を動かしてきました。
本業も新規事業も担える人材を求めながら、その人材が育つ仕組みは持たない。両利きの経営が「言葉」で終わる最大の原因は、ここにあります。
一方で、現在は社会の前提そのものが大きく変化しつつあります。AIの進化によって、「問い」と「答え」の距離が急速に縮まっているのです。これまで、価値を生み出す仕事は、「こんなものがあればいい」という問いが1割、それを実現する答えを出す作業が9割でした。AIは、この9割を一気に圧縮します。
結果として、人に残る仕事の中心は「問い」の発見へと移りました。かつて問いと答えが1対9だった比率は、9対1へと反転し始めているのです。AIエージェントを駆使して一人で複数の事業を担う「ソロプレナー」も、もはや未来の話ではありません。それでも私たちの多くは旧来の働き方に過剰に適応しているため、この変化に気づくことができません。
現在は、両利きの経営を個別の「実装手法」として導入するのではなく、その手前にある「企業統治のOS」そのものを入れ替える段階に来ています。組織はコマンド&コントロール型から自律分散型へ。人材に求められる資質は、従順さ・勤勉さから、内発的動機へ。このOSが移行できた企業では、両利きの経営は「語らずとも実現する」ものになります。
実際に、ある企業で次世代経営層の候補となる部長層を対象に、内発的動機を主眼においた年間プログラムを実施したところ、参加者の語る言葉が明らかに変わりました。主体性と責任感が生まれ、発言に具体性が備わり、その語りが未来に向けた行動へとつながったのです。
人に言われたことをこなすだけの働き方は、心を確実にすり減らします。しかし、自らの世界観から仕事に意味づけができたとき、人は内側から大きなエネルギーを取り戻すのです。先進企業では、そうした変化を経た人材が登用されはじめています。
組織の姿も変わるでしょう。100人で1つの事業を担う構造から、10人のリーダーと90人の仲間が、それぞれのミッションを持つ構造へ。1つの巨大なピラミッド組織から、10の自律的なプロジェクトチームの集合体へと変化するのです。ここでのメンバーは、指示を待つ存在ではありません。リーダーの意図に共鳴し、自ら重要な仕事を主体的に作っていける人材です。
一人ひとりが仕事を自ら生み出して自走できれば、人を管理するためのマネジメントコストは限りなく小さくなっていきます。その上で人事に問われるのは、メンバーがそれぞれの内発的動機に基づき、互いに信頼し合い、同じ方向を目指して進めているかです。
日本企業は、この変化に使える「余力」があるうちに動くべきでしょう。大企業の経営層も、この現実に気づきはじめています。
その第一歩が、大がかりな制度改革である必要はありません。一人の社員が、AIを使って自分の手の内で新しい仕事をつくってみる——その小さな実践の積み重ねが、組織を内側から変えていきます。出発点は、いつも個人の「内省」です。
自身の源泉に触れ、内発的な動機を取り戻した人は、同じ仕事の中にも自らの生きる意味働く意味を見いだし、強いエネルギーを発揮します。自らの内発的動機で動く人材は、既存事業のブラッシュアップ(深化)にとどまらず、新しい可能性の種まき(探索)を止めない。一人ひとりの心の中に『両利き』が宿るからこそ、組織として語らずとも実現するのです。
- 参考になった
- 共感できる
- 実践したい
- 考えさせられる
- 理解しやすい
用語の基本的な意味、具体的な業務に関する解説や事例などが豊富に掲載されています。掲載用語数は1,500以上、毎月新しい用語を掲載。基礎知識の習得に、課題解決のヒントに、すべてのビジネスパーソンをサポートする人事用語辞典です。
会員登録をすると、
最新の記事をまとめたメルマガを毎週お届けします!
無料会員登録
コメント投稿には『日本の人事部』への会員登録が必要です。(リアクションは登録なしで利用できます)
無料会員登録
『日本の人事部』への会員登録が必要です。