邂逅がキャリアを拓く【第18回】
脳は受信機であり、世界は私たちに触れている
YKK AP株式会社 専務執行役員CHRO
西田 政之氏

時代の変化とともに人事に関する課題が増えるなか、自身の学びやキャリアについて想いを巡らせる人事パーソンも多いのではないでしょうか。長年にわたり人事の要職を務めてきた西田政之氏は、これまでにさまざまな「邂逅」があり、それらが今の自分をつくってきたと言います。偶然のめぐり逢いや思いがけない出逢いから何を学び、どう行動すべきなのか……。西田氏が人事パーソンに必要な学びについて語ります。
最近、偶然手に取った三冊の本。その内容が互いに呼応しながら、静かにひとつの線につながっていくのを感じました。
- ダン・ブラウン『シークレット・オブ・シークレット』
- ジャッキー・ビギンズ『人間には12の感覚がある』
- 舩橋真俊『拡張生態系』
一見するとまったく別々の世界の本です。エンタメ小説、人智学の教養書、そして生態哲学。ところが、私の中ではこの三冊が一本の“太い幹”につながっていくのです。まるでバラバラの根が、地中深くでひとつの根系に合流していた……そんな感覚です。
脳は“小さな箱”ではない。生命は境界を持たない
まず驚いたのは、ダン・ブラウンが暗示する「脳=高性能の受信機」という発想です。私たちは当然のように「記憶は脳の中に保存されている」と信じていますが、本当にそうでしょうか。最近の認知科学や哲学では「脳は“倉庫”ではなく、必要な情報を外界とやり取りする“ハブ”だ」という説が議論されています。さらに近年は「意識そのものが脳という物理的境界を越え、身体の外側へゆるやかに広がる“場”として捉えられるべきだ」という議論さえ出てきています。まるで情報が“内部”に蓄積されるのではなく、世界との接触の中で生成されるように。
ビギンズが語る「12の感覚」も、その視点から見ると見事に噛み合います。私たちが普段使っている五感はほんの入口で、身体感覚(触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚)、思考感覚(嗅覚、味覚、視覚、聴覚)、関係性の感覚(言語感覚、思考感覚、他者感覚、自己感覚)など、実は人間には多重の“受信チャンネル”があります。これらは脳が外界にアクセスするための窓口で、五感はせいぜいその一部でしかありません。つまり人間とは、世界の情報と共振しながら生きる存在なのです。
舩橋さんの『拡張生態系』が描く世界観は、さらに深いものです。彼は、人間や植物や動物を“個体”として扱う従来の生物学的前提を疑います。生命とは、個体の内部で閉じた仕組みではなく、環境との循環・流動の中で立ち上がる現象だというのです。
知性は道具や空間と共に構築され、
生態系は相互依存のネットワークとして生成し続ける。
こうした視点は、北海道 十勝浦幌町で展開している人材開発プログラムの「うらほろアカデメイア」で体験した不耕起栽培や、森林の中で菌根菌が織りなす地下ネットワークの存在と強く呼応します。耕さない土は“混沌”ではありません。むしろそこには、無数の生き物が情報を交換する調和のシステムがあります。
舩橋さんの言う“シネコカルチャー”はまさに、生命が環境に拡張しながら自らを再生産する構造を示しています。そこに立っていると、「人間だけが主体で、世界は対象」という従来の二項対立はもはや成立しないことに気づきます。人間は世界の外側に立つ存在ではなく、世界の流れの中に沈み込んだ一つの波にすぎません。
ここで、三冊のつながりをあらためて整理すると、ダン・ブラウンが揺さぶったのは「脳の外側に広がる世界との接続」です。ビギンズの12感覚は、その接続面の“増幅装置”です。そして、舩橋さんが描く生態系は、その接続が“個体の外側へ無限に拡張する”ことを示しています。
AI時代に消えるのは“仕事”であって“能力”ではない
こうした本を読みながら、AI時代の議論にも思いが及びます。世の中では「ホワイトカラーはAIで消滅する」という話がよく語られます。確かに情報処理・分析・書類作成といった“頭脳労働”の大部分はAIのほうが速く、正確にこなすようになるでしょう。
しかし私は、もっと大きな変化が起きるのではないかと感じています。AIが代替するのは“脳の中で閉じていた仕事”でしかありません。人間の認知が“外界との受信”によって成り立つのだとすれば、本当に価値が生まれるのは、むしろ以下のような人間固有の“受信能力”が覚醒していく方向ではないでしょうか。
- 多感覚的に世界を読み取る力
- 生態系の中で流れをつかむ力
- 他者と共鳴し、新しい関係性を創り出す力
- 感性として走る直観
- 予測不能な状況と“共に生成する”力
ホワイトカラーの消滅とは、単に“仕事の終わり”ではなく、“脳中心の人間観の終焉(しゅうえん)”を意味しているのかもしれません。AIが得意なのは“計算する世界”ですが、私たち人間が立つのは、“触れ合う世界” “呼応する世界”です。AIが進化すればするほど、逆説的に人間の潜在的機能は解放されていくはずです。オリンピック競技において世界記録が少しずつ更新され続けているように、「そこまでできる」という認識が広まることで、全体のステージが一気に上がっていきます。昔はタブー視されていた大谷翔平選手の二刀流もしかりです。人間の可能性が内から外へ広がったとき、予想していなかった変化、進化が起きるのではないでしょうか。
世界は“関係”として立ち上がる
この予感は、量子の世界観とも響き合います。量子の振る舞いは、観察者がどう関わるかで揺らぎます。粒子そのものに“本質”があるのではなく、相互作用そのものが“状態”をつくります。この世界観は、「脳=受信機説」「12感覚論」「拡張生態系」そして「AI時代の新しい人間像」と、奇妙なほど連続しています。
科学的に確定しているわけではありませんが、著名な科学者の中には、脳の働きが素粒子レベルの現象に影響されている可能性を唱える人たちがいます。代表的なのは、ノーベル賞物理学者 ロジャー・ペンローズと麻酔科医 スチュアート・ハメロフが提唱した「Orch-OR理論(Orchestrated Objective Reduction)」です。
この仮説では、脳内の微小管(マイクロチューブル)が量子的状態を持ち、意識の生成に関わっている可能性が示されています。まだ議論段階ですが、専門家による“真剣な理論仮説”です。
これは、舩橋さんの生態系に関する議論を“さらに外側へ押し広げる”方向性を示しています。つまり、生命は生態系として環境とつながり、さらに外側で、素粒子レベルの世界の“関係”の一部でもある可能性があります。これが部分的にでも真実なら、人間の脳が世界とつながる仕組みは、私たちの想像をはるかに超えて奥深いと言えるでしょう。
私たちはまだ、人間という存在のごく一部しか理解していないのかもしれません。三冊を読んで私がワクワクしたのは、「宇宙の仕組みそのものへの理解が深まれば、人間観も、社会観も、仕事観も、もっと大きく変わっていくのではないか」という予感でした。そしてそれは、“キャリア”と呼ばれる一本の線の概念を根本から揺らすことになるでしょう。
この“相互浸透の世界観”を、最も美しく語った哲学者がメルロ・ポンティです。彼は、世界は“そこに置かれた対象”ではなく、身体を通して触れあう相手だと言いました。
(Merleau Ponty, The Visible and the Invisible)
私が世界を感じているのではありません。世界が私に触れている。その“あわい”の中で認識は生成する。
12感覚はその“あわい”を広げる窓ですし、拡張生態系はその“あわい”を生態学的に説明してくれます。脳中心主義の終わりは、“あわい”の復権でもあります。
キャリアとは、世界との“接続の仕方”を変える旅
では、こうした思想とキャリアはどうつながるのでしょう。私はこれまで、「邂逅がキャリアを拓く」というシリーズで繰り返し書いてきました。キャリアとは、何かを計画し、積み重ね、一本の道をつくっていく営みではありません。キャリアとは、“世界との接続の仕方を変える旅”です。
- 出会う人
- 触れる思想
- 身体で経験する風景
- 予想を超える出来事
- 直観が走る瞬間
これらが脳という受信機の周波数を変え、私たちの生き方そのものを更新してしまう。AIが進化してホワイトカラーの多くが代替されても、人間の“邂逅能力”だけは消えません。むしろ、価値を持ちはじめます。不耕起栽培の大地で感じた、あの「土の呼吸」のようなものが、これからのキャリアの鍵になるかもしれません。世界の複雑性に触れ、身体の感覚が開き、新しい関係性を受信しはじめる……その瞬間、キャリアは静かに拓けていくのです。
三冊の本が私にもたらしたのは、“学び”というより、「世界は思っているより開いている」という気づきでした。そして、「私自身もまた、もっと開ける」という予感です。脳は受信機で、感覚は窓で、世界は呼びかけでできている。そう思うだけで、キャリアも人生も、少し軽やかに見えてきます。そして、“次の邂逅”が楽しみになります。
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- 西田 政之氏
- YKK AP株式会社 専務執行役員CHRO
にしだ・まさゆき/1987年に金融分野からキャリアをスタート。1993年米国社費留学を経て、内外の投資会社でファンドマネージャー、金融法人営業、事業開発担当ディレクターなどを経験。2004年に人事コンサルティング会社マーサーへ転じたのを機に、人事・経営分野へキャリアを転換。2006年に同社取締役クライアントサービス代表を経て、2013年同社取締役COOに就任。その後、2015年にライフネット生命保険株式会社へ移籍し、同社取締役副社長兼CHROに就任。2021年6月に株式会社カインズ執行役員CHRO(最高人事責任者)兼 CAINZアカデミア学長に就任。2023年7月に株式会社ブレインパッド 常務執行役員CHROに就任。2025年6月より現職。日本証券アナリスト協会検定会員、MBTI認定ユーザー、幕別町森林組合員も務める。
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