邂逅がキャリアを拓く【第19回】
終わりから始まる人生――映画 “The Life of Chuck”が教えてくれたこと
YKK AP株式会社 専務執行役員CHRO
西田 政之氏

時代の変化とともに人事に関する課題が増えるなか、自身の学びやキャリアについて想いを巡らせる人事パーソンも多いのではないでしょうか。長年にわたり人事の要職を務めてきた西田政之氏は、これまでにさまざまな「邂逅」があり、それらが今の自分をつくってきたと言います。偶然のめぐり逢いや思いがけない出逢いから何を学び、どう行動すべきなのか……。西田氏が人事パーソンに必要な学びについて語ります。
※本記事には、5月公開映画の一部物語の内容を含みます。
世界の終わりから始まる物語との出会い
機内の灯りが落ち、食事のトレイが片づけられた頃でした。スクリーンに浮かんだタイトルは“The Life of Chuck”。スティーヴン・キング原作の映画で、日本では2026年5月から「サンキュー、チャック」というタイトルで公開されます。ホラー作家の作品とは思えぬほど静かで、哲学的な匂いのする冒頭にひかれ、何気なく再生ボタンを押しました。
物語は奇妙な順序で始まります。世界が崩壊しつつあるシーンからです。街の電気が消え、人々は空を見上げます。インターネットは途絶え、自然は狂い出し、誰もが終末を悟ります。その中で、画面には見覚えのない男の顔と文字が映ります。“Thank you, Chuck. For 39 great years.”まるで広告のように、ビルの屋上スクリーンや街角のポスターにこの言葉が次々と現れます。誰だ、Chuckとは? 彼の死とともに、世界が終わるのか? そんな謎めいた導入から物語は展開していきます 。
やがて映画は時をさかのぼり、チャックの中年期、そして少年時代へと逆行していきます。彼はかつて銀行員として働き、平凡な日常を送りながら、あるとき街角で踊り出します。音楽に身を任せ、通りすがりの女性と笑顔でステップを踏むその姿には、人生の喜びが凝縮されていました。
さらに時間はさかのぼり、孤独な少年時代へ。両親を早くに失い、祖父母に育てられたチャックは、立ち入りを禁じられていた屋根裏部屋に何かが“いる”と信じていました。恐れながらもその扉を開けたとき、彼はそこで自分自身の最期の姿を目にします。しかし彼は、その運命を拒絶するのではなく、静かに受け入れ、「それでも生きてみよう」と決意します。映画は、そこから再び“始まる”ように幕を閉じます。
この作品を観ながら、私は飛行機の揺れにも増して、自分の内面に静かな揺らぎを感じました。チャックという男は、特別な英雄ではありません。どこにでもいる、少し内気で、少し不器用で、そして誰よりも人間らしい男です。けれど、彼の“終わりから始まる人生”を見つめているうちに、「人は死を想うときにこそ、生の純度を取り戻すのではないか」と思ったのです。
人生の逆再生が教える――存在は役割より先にある
私たちは、日々の仕事の中で、自分を“機能”として定義してしまうことが多いように思います。「部長として」「CHROとして」「親として」の役割が先にあり、存在が後に続きます。しかしながら、この映画が語るのはその逆です。人はまず“存在”し、そしてあとから“意味”を見つけます。まさにサルトルの言う「存在が本質に先立つ」という実存主義の再演だと感じました。
チャックは、人生の終わりに近づくほど、自分を偽らなくなります。悲しみも喜びも、恐れも愛も、全部がひとつの糸のように絡み合っていきます。
彼が踊るシーンが象徴的です。一瞬のリズムに身を委ね、彼は“誰かになる”のではなく、“誰でもない自分”に戻っていきます。そこには、内面の吐露と同時に、魂が透き通っていくような感覚がありました。そんな彼を通じて、人間の矛盾の中に宿る神聖さを見たような気がしました。
組織で働く私たちは、しばしば“内面を見せること”を恐れます。感情を吐露することは弱さだと教えられ、感情を抑えるほど成熟だと思い込みます。でも、チャックが示したのはその逆でした。内面を見せる勇気こそが、人間を純化させる。彼が涙を流しながら笑う瞬間に私が気づいたことは、不完全であること、矛盾していること、それこそが“生きている”証なのだということでした。
私自身、人事責任者として新しい組織に入るたび、最初にやってきたことがあります。それは制度を語ることでも、戦略を示すことでもありません。自分自身を、できる限り言葉にしてさらけ出すことでした。
現職の会社では、着任直後に13,000字を超えるブログを書きました。生まれてから今に至るまでの赤裸々な歩み。特に、なぜ人事を志したのか、どこで迷い、何に失敗し、それでもなお人と組織に向き合おうとしているのか。それは説明ではなく、覚悟の提示だったのだと思います。そのうえで、時間をかけて、一人ひとりの社員と向き合う。役職も評価もいったん脇に置き、「あなたは、いま何を感じていますか」と問い続ける。
不思議なことに、そうした回り道のような時間を経るからこそ、組織の言葉が、少しずつ動き始めるのを感じてきました。人は、正しい人についていくのではなく、覚悟のある人の前で、ようやく自分の言葉を探し始めるのかもしれません。
限界状況と“個人の宇宙”――死を見つめて生が立ち上がる
哲学者ヤスパースは「限界状況」という言葉を残しました。死、苦悩、罪、偶然――それらは避けられません。しかし、人は、その限界に触れたとき初めて、自らの本質に気づきます。チャックにとっての“限界”は死であり、同時に再生でもありました。彼は死の瞬間に、世界の終わりを迎えますが、それは同時に世界の始まりでもありました。なぜなら、彼の世界は“彼自身の意識”の中に存在していたからです。つまり、宇宙とは個人の心の比喩なのです。
映画の終盤、チャックの人生が静かに閉じていく中で、スクリーンに再び“Thank you, Chuck.”の文字が浮かびます。それはまるで、世界そのものが彼に感謝を告げているように見えました。
「あなたが生きてくれたから、世界が存在したのです」
そのメッセージを受け取ったとき、私は不意に胸が熱くなりました。日常の中で忘れかけていた、「生まれてきたこと、生きること自体が奇跡である」という感覚が、身体の奥底から蘇ってきたのです。
ホイットマンの詩に、こんな一節があります。
“I am large, I contain multitudes.”(私は広大です。私は多様性を内に含んでいます)
人間は、ひとりの中に無限の世界を抱えています。怒りも、愛も、羞恥も、誇りも、そのすべてを内包して生きています。チャックの物語は、まさにこの“multitudes”の具現化のようでした。一人の普通の男の人生が、宇宙のように広がり、やがてその宇宙が静かに消えていく。その消滅の美しさに、私は「有限性の詩学」を見ました。
終わりを想うことで、私たちは“今”を生きはじめる
飛行機が着陸態勢に入り、窓の外に夜明けの光が見えました。画面は暗転し、機内アナウンスが流れます。それでも私はまだチャックの世界から抜け出せずにいました。“終わりから始まる人生”というパラドックスが、頭の中でぐるぐると回っていました。
仕事においても、人生においても、私たちはしばしば“始まり”を焦ります。新しい制度、新しい戦略、新しい挑戦。しかし、本当の「始まり」は、終わりを見つめ、そこから“何を受け取るか”を考える瞬間にあるのではないでしょうか。組織改革でも、キャリアの転機でも、古い枠組みを手放すことなしに新しい創造は生まれません。チャックが屋根裏部屋で自分の最期を見つめ、それでも生を選んだように、私たちもまた、自分の「終わり」を想うことで、「今」を真に生き始めるのだと思います。
“The Life of Chuck”は、単なる物語ではありません。それは、“死を通じて生を描く”という、最も人間的な問いを静かに投げかけています。内面が吐露される瞬間と、純度が増していく瞬間。その間にこそ、人間の尊厳が宿っているのだと思います。
私たちは誰もが、チャックのように世界を内包しています。そしてその世界が、いつか終わることを知っています。だからこそ、いま隣にいる誰かと笑い、語り、踊る。その瞬間が、すでに永遠なのです。
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- 西田 政之氏
- YKK AP株式会社 専務執行役員CHRO
にしだ・まさゆき/1987年に金融分野からキャリアをスタート。1993年米国社費留学を経て、内外の投資会社でファンドマネージャー、金融法人営業、事業開発担当ディレクターなどを経験。2004年に人事コンサルティング会社マーサーへ転じたのを機に、人事・経営分野へキャリアを転換。2006年に同社取締役クライアントサービス代表を経て、2013年同社取締役COOに就任。その後、2015年にライフネット生命保険株式会社へ移籍し、同社取締役副社長兼CHROに就任。2021年6月に株式会社カインズ執行役員CHRO(最高人事責任者)兼 CAINZアカデミア学長に就任。2023年7月に株式会社ブレインパッド 常務執行役員CHROに就任。2025年6月より現職。日本証券アナリスト協会検定会員、MBTI認定ユーザー、幕別町森林組合員も務める。
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