俳人
1句17文字の「原稿料」では生計を立てられない。
昭和俳壇の巨星・石田波郷も「選句料」で稼いだ。
「詩人」「歌人」「俳人」といった肩書きに、世間ではどんなイメージを持つでしょうか。浮世離れした趣味人、それとも病気がちなロマンチスト? 俳人といえば、いまだに宗匠頭巾をかぶり、短冊と筆を手に梅の木の下に立っているような図柄で表されることが少なくありません。しかし、詩や歌や俳句をつくりながら、彼らもまた食べていかなくてはならない。いったい何で収入を得ているのか? 今もほとんど知られていない「俳人」の生活の糧について見てみましょう。 コラムニスト・石田修大
3800人の俳人がいて、822誌の結社・俳誌がある
ここ10年、20年、俳句ブームと言われ、たしかに定年を控えた会社員や高齢のご婦人方の間での俳句熱はかなりのものだが、彼らを教えている専門の俳人となると、一般にはほとんど知られていない。俳人の名前を挙げろと言われたら、まず江戸時代の芭蕉、一茶、明治以降で正岡子規、種田山頭火あたりだろうか。現存の俳人の名を挙げられる人は、ほとんどいないのではないか。
それだけ俳人という仕事が一般に知られていない証拠だが、現実には『俳句年間2005年版』の住所録に名を連ねる俳人は3800人にも及んでいる。もちろん趣味で俳句をつくっているだけの人たちではない。それぞれに一派をなし、句集の何冊かも出し、選者として人に教えようかという人たちである。そして彼ら、彼女らが所属する全国の結社・俳誌は822誌を数える。
今どき「結社」と言われても小説やマンガに登場する秘密結社か、憲法21条の結社の自由くらいしか思い浮かばない。ところが俳人の多くは主宰者として結社と称する組織をつくり、同人とともに結社誌(俳誌)を発行、会員を集めて活動を展開しているのだ。
収入源は「会費」「指導料」「選句料」など
ウェブサイト「秋尾敏の俳句世界」の4年前の調査によれば、調査対象の134結社の会員数は、50~100人未満が25%でトップ、100~200人未満が17%で続き、会員数200人未満の結社が5割以上を占めるという。会員の平均年齢は60歳代が群を抜いており、次いで50歳代、70歳代の順。
最大かつ最も古い俳句結社は明治30年創刊の「ホトトギス」で、翌31年から高浜虚子が主宰し、昭和26年、虚子の長男・年尾が引き継ぎ、さらに昭和54年には年尾の娘・稲畑汀子が主宰となって現在に至っている。虚子の次女・星野立子は「玉藻」を創刊・主宰し、彼女の死後は娘・星野椿が引き継いでいる。「ホトトギス」同様、俳句結社には世襲で引き継がれているケースが目立つ。
そうした結社の主宰者が発行する月刊、隔月刊、あるいは季刊の俳誌には、主宰者や同人の句や文章、会員が投句し主宰者らが選んだ句、毎月開かれる句会の報告などが掲載されている。会員は月平均1000円ほどの会費を払って5句ほどを投句し、主宰者に選ばれた自分の句が載る俳誌を手に入れるのだ。
主宰者は俳誌発行のほかに、定期的に句会を開いて会員を教える。大組織になれば全国各地に支部があり、支部ごとの句会のほかに全国大会なども開かれる。会費と句会での指導料、さらに会員が句集をまとめる際の選句料、序文・跋文に対する謝礼などが、主宰者の収入になる。
宿帳の職業欄に「会社員」と書いた石田波郷
したがって200人足らずの会員では、結社からの収入で生計を潤すわけにもいかず、圧倒的多数の俳人が別に職業を持っており、その意味ではプロの俳人は数えるほどということになる。戦前、戦後を通じて中村草田男、加藤楸邨とともに人生探究派と呼ばれた「鶴」主宰の俳人・石田波郷は俳句だけで生計を立てた数少ない1人だが、彼の随筆に「職業」と題する一編がある。
全国紙、地方紙から労働組合の機関誌まで十数件、読売新聞の2件2万円を別格として、あとは1件3000~5000円ほど。それでもサラリーマン世帯の平均月収が35000円弱の時代に、月ごとの波は大きいが5万から15万円の月収を得ている。それも数多くの新聞、雑誌の俳句欄選者だったからで、波郷クラスにならないと、これほどの注文は集まらない。俳句人口300万人と言われた当時、俳句で飯を食っているのは10人か20人だろうと、波郷は言っている。
伊豆の温泉旅館に泊まった折、宿帳に住所、氏名を書いて、職業欄でハテと考え込む。新聞や雑誌に載る肩書きは俳人だが、改めて職業と問われると、俳人は職業と言えるのか。「正直にいえば選句業なんだけどね。著述業じゃ選挙の候補者みたいだし……会社員がいいだろう、無難で」と、波郷は会社員になりすます。
読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞も受賞し、教科書にも必ずといっていいほど紹介されている俳人なのだが、その生計を支えたのは自らつくる俳句ではなかった。作家なら400字の原稿用紙1枚いくらで結構な原稿料が入るが、五七五1句でたった17文字。小説の原稿料とは別の計算をするにしてもたかが知れている。しかも小説ほどの依頼はなく、句集をまとめても間違ってもベストセラーにはならず、ほとんどが自費出版に近いのが実体である。
結社からの収入は微々たるもの、俳句でも大した金にならない波郷の主な収入源は、新聞、雑誌の俳句欄の選者として得る選句料だった。読売文学賞を受賞して3年後、昭和33年のある月、波郷が選句を引き受けていたのは読売新聞江東版・城南版、愛媛新聞、新潟日報、図書新聞、オール読物、小学館、創元社、全逓文化、かまいし、東芝などなど。
俳句人口1000万人のおかげで新たな稼ぎ口
それから半世紀近くたった現在では、俳句人口は俗に1000万人とまで言われる。昭和40~50年代にあちこちでカルチャーセンターができ、俳句教室で学んだ多くの女性たちが俳句をつくり始めたためだ。おかげで俳人たちはカルチャーセンターの講師や俳句コンクールの選者、テレビ出演など新たな稼ぎ場所を得たが、そんな機会を得、俳句だけで生計を立てられるのは、相変わらず朝日新聞など全国紙の選者になっているような俳人が中心になる。
全国紙の選句料が地方紙や他の媒体に比べて高いことは事実だが、それだけではない。全国紙の選者になることで名前が売れ、他の媒体や団体からの選者や指導、講演、出版などの依頼が増えるからである。俳人は短冊を片手に花の下に立っていたのでは生きていけない。次々に舞い込む新聞や雑誌の何千通、何万通の投句葉書に○をつけ、短評をまとめ……フーッとため息をつき、「……それにつけても金のほしさよ」。
(数字や記録などは2005年2月現在のものです)
あまり実情が知られていない仕事をピックアップし、やりがいや収入、その仕事に就く方法などを、エピソードとともに紹介します。