新卒一括採用から中途採用へのシフト、人材市場の流動化、AIなどの技術革新に伴う従業員へのスキルアップ要請など、企業が直面する人事課題が多様化している。こうした人事課題に対応するための取り組みとして、注目される指標が「従業員体験(エンプロイー・エクスペリエンス:EX)」だ。
なぜ今、従業員体験の向上が叫ばれているのか。従業員体験が重視される背景や日本企業における従業員体験の現状を確認しつつ、従業員体験設計のポイントや従業員体験改善のソリューション、従業員体験の今後について解説。さらに、8月2日に開催された日本の人事部「HRカンファレンス2024-夏-」での議論と合わせて、従業員体験の現場での課題や可能性についても掘り下げる。
従業員体験とは
「従業員体験(エンプロイー・エクスペリエンス:EX)」とは、「従業員が企業や組織の中で体験する経験価値」を指す。「顧客体験(カスタマーエクスペリエンス:CX)」から派生した考え方で、企業における従業員のすべての経験が対象となる。
企業は従来、従業員エンゲージメントや組織文化、評価制度、教育やキャリア開発などの課題に対して、それぞれ独立した個別の施策で対応してきた。しかし、従業員は各施策の価値ではなく、それらの施策を含めた「勤務中の経験全体」から企業を評価する傾向がある。そのため、包括的な「従業員体験」の設計・提供が必要と考えられるようになった。
従業員が企業や組織の中でポジティブな経験を重ねることは、働きがいやエンゲージメントの向上につながる。その結果、企業全体の生産性や業務効率の改善に寄与するだけでなく、優秀な人材の獲得・定着、業績や企業イメージの向上といった効果も期待できる。従業員体験の改善は企業の利益に直結する重要な経営課題と言える。
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従業員体験が重視される背景
「従業員体験」は、世界最大級の人事調査レポート「グローバル・ヒューマン・キャピタル・トレンド2017」において、2017年度の人事トレンドトップ10の中でも重要なテーマとして取り上げられたことから国内外で注目されるようになった。
従業員体験が重視されるようになった背景として、人事施策を企業中心から従業員中心へと転換する流れがある。従来の「従業員のやる気を引き出す」「成長させる」といった発想は企業の理論を優先したアプローチだが、近年では従業員のポテンシャルを最大限に引き出すには、従業員がオーナーシップを感じられるボトムアップ型のアプローチが必要と考えられるようになってきた。加えて、仕事に対してワークライフバランスを含む総合的な幸福感を求めるミレニアル世代の人材を獲得・定着させるためにも、「従業員体験」の視点が欠かせないという。
従業員体験を向上させるためのソリューションを提供する株式会社PeopleXの橘大地氏(代表取締役CEO)は、従業員体験向上の必要性は、人材獲得手法が新卒一括採用から中途採用へシフトしていることとも関係があると話す。
「日本は戦後、長らく終身雇用を前提とした新卒一括採用が主流でした。ここにきて急速に中途採用へのシフトが進んでいます。経団連所属企業の中途採用比率は過去10年で約10%から40%まで高まっており、さらに向こう3年で70%程度まで上昇する見込みです。日本は今まさに、新卒採用重視の社会から中途採用重視の社会への転換期を迎えているのです。
問題は、中途採用シフトが進む一方で、中途社員に対する有効なオンボーディングや人材育成がほとんど行われていないことです。入社後にスキルを発揮する場面や人的交流の機会がないまま孤立してしまうと、力を発揮するのが難しくなり、離職につながります。
人に投資して従業員体験を向上させていかなければ、離職が多く、採用もままならない『選ばれない企業』になってしまうのです。経営者は『企業が従業員を選ぶ』という発想から、『従業員が企業を選ぶ』という発想に変えていかなければなりません。その上で、選ばれる企業になるために何をするかを考えることが大切です」
従業員体験の先にあるものとしてPeopleXが大切にしているのが、「エンプロイーサクセス」の考え方だ。
「企業の持続的な成長のためには、従業員の中長期的な成長が欠かせません。企業が成長し続けるために従業員が能力発揮できるよう支援すること、それがエンプロイーサクセスです」
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従業員体験向上に取り組む上での課題
従業員体験の重要性が認識され始めている一方で、実際に取り組んでいる日本企業は多いとは言えないのが現状だ。橘氏は、日本が急速に新卒採用社会から中途採用社会にシフトする中で、さまざまなひずみが生まれていると指摘する。
「戦後の日本では、長らく新卒社員を中心に、終身雇用を前提としたジョブローテーション型の人材育成が行われてきました。新卒社員に限れば、世界一と言っても過言ではないくらい手厚いオンボーディングがなされてきたのです。ところが、中途社員を対象としたオンボーディングは、まだ有効なプロセスが存在しません。ほとんどの企業で理想的なオンボーディングや人材育成が行われておらず、言葉を選ばずに言えば『放置』に近い状態です。
その要因として、日本企業は『従業員は管理するもの』という発想が根強く、『人に投資する』視点が欠けていることが挙げられます。本来、従業員への投資は、企業の持続的な成長につながる投資のなかでも最も資本効率の良いものです。経営者はまず、このことを認識しなければなりません」
アメリカの調査会社・ギャラップの調査によると、日本ではエンゲージメントの高い従業員の割合はわずか5%で、129の調査対象国のうち128位(2022年)と非常に低い水準になっている。
橘氏は、日本の従業員エンゲージメントの低さは、新卒一括採用とジョブローテーションがもたらした弊害だと語る。
「新卒社員の従業員体験として、入社直後は極めて手厚いオンボーディングが行われており、充実しています。一方、配属と評価には課題があります。配属は企業が一方的に決めることが多く、従業員本人の意向は反映されにくい。配属に不満がある従業員は、次の異動まで我慢するか、退職する選択を取りがちです。また評価においては、多くの日本企業がいまだに年功序列型の給与体系を残しており、成果や努力に見合ったポジションや報酬を得ることが難しいのです」
従来の日本企業では新卒社員が定年まで働き続けることが多く、転職する人を「裏切り者」のように捉える風潮もあった。退職者への態度は、企業が従業員をどう思っているかという本音を透けさせる。だからこそ、オンボーディングだけでなくオフボーディング(退職時のプロセス)の体験向上にも意識して取り組む必要があるだろう。
従業員体験をどのように向上させるのか
従業員体験向上の必要性を認識していても、「何から手をつけていいかわからない」「どのような状態を目指せばいいかわからない」と悩む人事担当者は多い。従業員体験を設計するときは、特定のフェーズや体験を「点」で捉えるのではなく、各フェーズが「線」としてつながっていることが重要だ。
従業員体験をどのように向上させるのか
従業員体験の向上に取り組む際は、入社から退職までの一連の体験を可視化した「エンプロイー・ジャーニーマップ」で現状を整理しつつ、どのような目的で誰の経験価値を高めるのか、ゴールを設定すると効果的だ。
石山恒貴氏(法政大学大学院 政策創造研究科 教授)らが提唱する「EX・ジャーニーマップ」では、従業員体験を「(入社前の)日常接点」から「退職後リレーション」に至るまでの13のプロセスに分けている。従業員体験を設計する際は、各プロセスを「点」で考えるのではなく、13のプロセスを連動させて、一連の体験が「線」として流れるようにするのがポイントだ。
各プロセスにおける打ち手(施策)を考える際は、エンプロイーサクセスを成功に導くためのフレームワークが活用できる。施策の目的・役割が次の三つのいずれかに当てはまっているか、あるいは特定の領域に偏っていないか検討しながら、施策の立案・実行を進めていきたい。
橘氏は、日本企業がまず取り組まなければならないのは中途社員のオンボーディングだと言う。
「入社当初にスキル発揮や人的交流の機会が与えられない場合、中途社員が孤立してしまい、その後の活躍が難しくなります。入社から3〜6ヵ月間かけてオンボーディングを行い、中途社員を即戦力化することが肝になります。
その上では、学びや交流の機会を設けるなど、中長期的に従業員体験を向上させる仕組みが大切です。中途社員のオンボーディングは、『選ばれる企業』になるための第一歩と言えるでしょう」
従業員体験の向上、ひいてはエンプロイーサクセスを実現するには評価制度や配置の見直しも欠かせない。優秀な人材に本来の実力を発揮してもらうためには、終身雇用を前提とした給与体系、年齢や入社年次による制約にもメスを入れる必要がある。
すでに従業員体験の改善に取り組んでいる企業は、どのような施策を行っているのだろうか。『日本の人事部』が2023年に行った調査では、エンプロイー・エクスペリエンスに関する施策を「行っている」と回答した企業に対して具体的な内容を確認したところ、以下の結果となった。
- 【出典】
- 人事白書2023|日本の人事部
このことからも、従業員体験の改善には多角的かつ中長期的な取り組みが必要であることがうかがえる。
従業員体験設計を支援する株式会社PeopleX
株式会社PeopleXでは、クラウドサービスやコンサルティングサービスを通じて企業のエンプロイーサクセス実現に向けた支援をしている。「PeopleWork」は、社員のスキルや人となりを可視化しコミュニケーションを円滑にする「人のインフラ」と、オンボーディングを最適化して進捗を可視化する「学びのインフラ」からなる全く新しいHRプラットフォームだと橘氏は話す。従業員のプロフィールやスキル、学習履歴といった人材データベースに従業員の誰もがアクセスできるほか、社員同士の相互理解を深め、各社固有のスキル獲得を支援するオンボーディング機能を兼ね備えている。
「人のインフラ」の機能の一つに、プロフィールに共通点がある従業員同士が自動でグルーピングされる仕組みがある。自らの出身校や職歴、スキル、趣味などを入力すると、自然とネットワークが構築されて社内交流が生まれる。
また、「学びのインフラ」では「マネジメント」「WEBデザイン」「営業」などのテーマでオンボーディングプログラムを作成することができる。新入社員の職種や経歴にあわせて対象となるオンボーディングプログラムを登録すれば、学ぶべきタスクが見える化され、その進捗(しんちょく)を社内の誰もが確認できるようになる。スキル獲得の視点でも、効果的に支援を進められる。
サービスの開発にあたっては、橘氏が過去に事業責任者として約250人を採用・育成する中で、1年かけて有効なオンボーディングプログラムを作成したことが原体験になっている。
「オンボーディング先進国のアメリカでは、多くの企業がオンボーディング向けのクラウドサービスを導入しています。アメリカのサービスをベンチマークしつつ、異動が多い日本特有の事情を考慮し、社内勉強のメニューを充実させ、異動時のオンボーディングやリスキリングにも対応できるようにしました」
開発にあたって大切にしたのは、従業員に寄り添った、従業員のためのツールであることだ。オンボーディングコンテンツがまだ整っていない企業に対しては、人が育つオンボーディングコンテンツやラーニングコンテンツを設計するコンサルティングサービスも提供している。
社内では最先端の生成AIを活用する実験も行っている。今後もエンプロイーサクセスの三つの支援(成長環境を作る、賞賛機会を増やす、仲間意識を高める)の観点から、サービスを拡充させていく予定だ。
従業員体験に関する人事責任者の取り組み
従業員体験について、日本企業の人事責任者たちはどのような問題意識を持ち、どのように取り組んでいるのだろうか。
2024年8月2日に行われた、日本の人事部 「HRカンファレンス2024-夏-」では、日本を代表する企業の人事責任者が集まり、従業員体験について議論した。従業員体験の改善に取り組む上での問題意識、現状の課題などについて、ディスカッションで交わされた意見の一部を紹介する。
問題意識 |
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解決に向けて |
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「HRカンファレンス2024-夏-」では、人事責任者たちによる活発な意見交換が行われた。当日の詳細レポートは、以下の記事で確認できる。
人事リーダーの視点からさらに学ぶ
エンゲージメント向上に欠かせない「従業員体験」の視点。
必要なのはデザイン思考と徹底した対話
「従業員体験」の今後
従業員体験の向上は、人的資本経営の文脈からも今後ますます重要性が高まっていくと考えられる。
経済産業省は、人的資本経営の実践に関する先進事例の共有、企業間協力に向けた議論、効果的な情報開示の検討を行うため、2022年に「人的資本経営コンソーシアム」を設立。
また、橘氏は「人的資本経営は世界的な要請だ。人的資本が厚い企業でないと利益が上がらないと考えられるようになってきている」と語る。人的資本経営は、従業員はもちろん、株主から「選ばれる企業」になるために欠かせない経営姿勢と言えるだろう。
人的資本経営コンソーシアムは、2023年発行の「人的資本経営コンソーシアム好事例」において、人的資本経営のフレームワークとして「三つの視点」と「五つの共通要素」を提唱している。
三つの視点 |
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五つの共通要素 |
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従業員体験の向上、そして人的資本経営を実現するためには、テクノロジーの力を最大限に活用すべきだと橘氏は説明する。
「適材適所の配置や、社内公募制度を通して自ら手を挙げて新規事業やリスキリングに取り組める環境を作るなど、動的、意欲的な人材異動を社内で実現することが重要です。
また、選ばれる企業になるにはハイブリッドワークなど柔軟な働き方を採り入れることが重要ですが、出社している従業員と在宅勤務をしている従業員との間に情報格差が生まれないようにしなければなりません。スキルアップやスキルシェア、人的交流をいかにオンラインで実現できるかが求められています。
そのためには『従業員に選ばれる企業になるにはどうすべきか』という視点で、テクノロジーの力を活用しながらさまざまな制度を変革していく必要があります。従業員体験の向上、その先にあるエンプロイーサクセスは一朝一夕にはいきませんが、人を引きつけられる企業になることは、企業の利益体質を強化する重要な取り組みです」
『The Employee Experience Advantage』などの著書があるベストセラー作家 ジェイコブ・モーガン氏の2017年の調査によると、実際に従業員体験の向上に投資している企業は、投資していない企業に比べて4倍もの利益を生み出していると結果が出ている。
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まとめ:従業員体験の向上の取り組みが、企業の持続的成長につながる
企業を取り巻くビジネス環境が大きく変化する中、人的資本経営への世界的な要請も含めて「従業員体験」がクローズアップされている。
従業員体験の向上は、単なる「従業員満足度の向上」にとどまらない。従業員がポジティブな体験を重ねることで働きがいやエンゲージメントの強化につながるだけでなく、生産性や業績の向上、優秀な人材の獲得・定着、企業イメージの向上といった効果が期待できることから、企業経営全般に大きなインパクトを与える、重要な経営戦略の一つと言える。
従業員体験は「(入社前の)日常接点」から「退職後リレーション」に至るまでの13のプロセスからなっており、体験全体が一つの線として流れていくように設計することが肝要だ。
急激な中途採用シフトで中途社員に対するオンボーディングがおざなりになっているなど、日本企業の従業員体験には課題も多いが、中途社員のオンボーディングの充実をはじめとして、従業員体験の向上に本腰を入れて取り組んでいくことが、企業の持続的な成長につながると考えられる。
PeopleXは、社員のスキルアップ、エンゲージメント向上に特化し、企業の人的資本経営を実現する総合型HRカンパニーです。ベースとしたHRプラットフォーム「PeopleWork」をはじめとしたソリューションを提供し、「社員の即戦力化」を支援します。
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