邂逅がキャリアを拓く【第21回】
老いは消えるのか
生命科学が示す「老化」と組織の時間、そしてAI時代の人間

時代の変化とともに人事に関する課題が増えるなか、自身の学びやキャリアについて想いを巡らせる人事パーソンも多いのではないでしょうか。長年にわたり人事の要職を務めてきた西田政之氏は、これまでにさまざまな「邂逅」があり、それらが今の自分をつくってきたと言います。偶然のめぐり逢いや思いがけない出逢いから何を学び、どう行動すべきなのか……。西田氏が人事パーソンに必要な学びについて語ります。
最近、吉森保先生(大阪大学名誉教授)の著書『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』(日経BP)を読みました。タイトルは刺激的ですが、内容はむしろ慎重で、現在の老化研究でどこまでわかっていて、どこが未知なのかを丁寧に整理した本です。
この本を読みながら、私はあることを強く感じました。生命の仕組みを深く知るほど、組織の問題が見えてくる。単なる比喩ではありません。身体と組織は、同じ問いに直面しています。部分の自律性と全体の統合をどう両立させるか。老いと再生をどう扱うか。その問いは、細胞の次元でも、人の集まりである組織の次元でも、本質的に同じ構造を持っています。
老化とは何か
この本がまず強調するのは、個体老化と細胞老化は別の現象だという点です。個体老化(aging)は人間という個体が年齢を重ねる現象であり、細胞老化(senescence)は細胞が分裂を停止した状態を指します。日本語ではどちらも「老化」と訳されますが、英語では明確に異なる言葉で表現される、別の現象です。
人間の体は約37兆個の細胞からできています。細胞は常に入れ替わりながら体を維持していますが、年齢とともに分裂を止めた細胞が蓄積していきます。重要なのは、細胞老化は単なる劣化ではない、という点です。大阪大学 微生物病研究所の原英二先生は、細胞老化を「人間が自らの細胞をがん化させないために、進化の過程で備えられた安全装置」と述べています。がん化を防ぐために、細胞はあえて分裂を止める。老いることには、生命としての合理性がある。
吉森先生はオートファジー研究の第一人者です。オートファジーとは、細胞が内部の古くなったタンパク質や壊れた小器官を分解し、再利用する仕組みです。「自ら(Auto)」「食べる(Phagy)」という語源の通り、細胞が自分自身の一部を食べて再生する、常時稼働している代謝回転システムです。これが正常に機能することで細胞内のゴミが蓄積せず、逆に機能が低下すると老廃物が溜まり続け、老化や疾患の温床になります。目には見えないほど小さな世界で、細胞一つひとつが常に「入れ替え」を繰り返している。生命の維持とは、この絶えざる自己更新のプロセスに他なりません。
老化細胞とSASP――そして組織への問い
老化細胞には、厄介な側面もあります。老化細胞はSASP(Senescence Associated Secretory Phenotype=細胞老化随伴分泌現象)と呼ばれる炎症物質を分泌し、これが慢性炎症の原因となり、周囲の正常な細胞にもダメージを与えます。
しかしSASPは単純な悪役ではなく、傷の修復や組織再生、がん抑制に関与することも知られています。問題は、老化細胞が過剰に蓄積した状態が続くことです。免疫による掃除が追いつかなくなると、老化細胞は炎症物質を出し続けます。慢性炎症とはまさにその状態です。
老化細胞を除去する研究(セノリティクス)も注目されていますが、吉森先生は慎重です。老化細胞をすべて取り除けばよいわけではない。老化細胞は安全装置でもあるからです。過剰な蓄積が問題なのであって、存在そのものを否定することはかえって別のリスクを生みます。
ここに組織論への深い示唆があります。職場における「老害」問題(変化への抵抗、権威主義的な振る舞い、若手の成長阻害など)は、SASPに似た「炎症」として組織に作用します。しかし一般的な処方箋である定年制・配置転換・役職定年は、老化細胞を機械的に除去しようとするセノリティクスの発想に近い。老化細胞が「安全装置」として機能する条件と、「炎症源」に転じる条件を問わずに、制度だけで解決しようとすれば、組織の安全装置を壊すリスクを孕みます。
組織が問うべきことは三点に整理できます。第一に、経験豊富なシニア人材が「自ら拡大する」役割から「次世代を安定させ、継承を支える」役割へと切り替えられているか。この転換は自然には起きません。設計が必要です。第二に、組織として古くなった知識・慣行・行動様式を定期的に棚卸しし、更新するサイクルを持てているか。これは個人の問題ではなく、仕組みの問題です。年齢に関係なく、更新の機会を与えられなければ人は老化します。第三に、誰かが炎症物質を分泌し始めているとき、それを個人の資質に帰するのではなく、「その人がその状態に置かれた構造的な原因」を問えているか。承認のなさ、役割の喪失感、居場所のなさが、SASP化のトリガーになります。
大阪大学 微生物病研究所の石谷太教授は「老化のカギは臓器間のネットワークにある」と言います。老化は全身が連動する現象であり、局所の問題としてではなく、ネットワーク全体の問題として見るべきだ、と。これは組織にも直接当てはまります。特定の部署や特定の人材の問題として切り離すのでは不十分であり、情報が組織全体をどう循環しているか、どこに老化シグナルが滞留しているかを全体として見る必要があります。部分を個別に最適化しても、全体の連動が崩れれば意味がない。生命が孤立した部品の集まりではなく、部品同士の関係性によって成立しているように、組織もまた一つの生命体として捉える必要があります。
AI時代の人間の役割
生命現象の多くはタンパク質によって決まります。タンパク質の構造がわかれば機能がわかり、機能がわかれば生命現象が理解できる。この分野を劇的に変えたのがAIです。AlphaFold2は、以前なら何年もかかっていた構造予測を数分で可能にし、精度も飛躍的に向上しました。東京大学大学院 理学系研究科の濡木理教授は「いまやAIがあれば構造生物学者はいらないのでは」と語ります。むろんAIが予測できるのはデータとして登録されているタンパク質に限られ、未知の領域は相当残っています。それでもその問いかけは鋭い。構造を読む能力において、AIはすでに人間の速度と精度を超えています。
さらに、CRISPR-Cas9というゲノム編集技術も生命科学を大きく変えました。DNAの特定箇所を狙って切断・改変できるこの技術は2020年にノーベル化学賞を受賞し、その後、研究者たちはDNAを切断せずに遺伝子の働きを調節するCRISPR技術へと発展させています。眠っている遺伝子を目覚めさせたり、過剰に働いている遺伝子を抑制したりする――かつて不可能だった介入が、現実の選択肢になりつつあります。
AIは構造を予測し、データを解析し、パターンを見つけることにおいて、すでに人間を超えつつあります。しかし生命は、単なる構造ではありません。
ハンナ・アーレントは『人間の条件』で、人間の本質を「行為(action)」に見いだしました。人間は単に生きるのではなく、世界に働きかけ、意味を生み出す存在です。なぜこの構造であるべきか。老化を制御できるようになった先に、人間はどんな時間を生きるのか。それを問い続けるのは、AIではなく人間の仕事です。
老いをどう組み込むか
生命研究が進むほど、問いは鮮明になります。古い細胞をすべて除去しようとすれば全体のバランスが崩れる。問うべきは「どう老いを消すか」ではなく、「老いをどう組み込むか」ではないか。
メルロ=ポンティは、人間を「世界に開かれた身体」と呼びました。その関係を閉じてしまえば、身体が若くても精神は老いていく。邂逅がキャリアを拓く、というのが私の変わらぬ信念です。予期しない出会い、想定外の問いとの衝突、自分の外にある知の世界への扉が開く瞬間――それこそが、人間の「新陳代謝」を起こすものです。
生命科学が示しているのは、老化と向き合うための選択肢が確実に広がっている、ということです。どう生きるか、どう老いるか、どんな関係の中に自分を置くか。それは今も変わらず、人間が自分で選ぶことのできる問いです。そして組織人事もまた、その問いを設計する側に立つことが求められています。生命の研究は私たちに、未来の医療だけでなく、組織の設計そのものについての問いを投げかけているのです。
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- 西田 政之氏
- YKK AP株式会社 専務執行役員CHRO
にしだ・まさゆき/1987年に金融分野からキャリアをスタート。1993年米国社費留学を経て、内外の投資会社でファンドマネージャー、金融法人営業、事業開発担当ディレクターなどを経験。2004年に人事コンサルティング会社マーサーへ転じたのを機に、人事・経営分野へキャリアを転換。2006年に同社取締役クライアントサービス代表を経て、2013年同社取締役COOに就任。その後、2015年にライフネット生命保険株式会社へ移籍し、同社取締役副社長兼CHROに就任。2021年6月に株式会社カインズ執行役員CHRO(最高人事責任者)兼 CAINZアカデミア学長に就任。2023年7月に株式会社ブレインパッド 常務執行役員CHROに就任。2025年6月より現職。日本証券アナリスト協会検定会員、MBTI認定ユーザー、幕別町森林組合員も務める。
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