人的資本経営と人事の仕事―日本の人事が忘れていること―
経産省の「人材版伊藤レポート」が出されてから、「人的資本経営」という言葉が脚光を浴びています。世界的な流れとしても統合報告書の中で触れるべき人的資本情報が注目されており、人事の役割の重要性が高まっていると言えます。そのような情勢の中で人事が考えるべきこととして、昨年下記のコラムを発表しました。人事の役割の根幹に関わることなのでご一読ください。
人的資本経営と人事の仕事 ―日本の人事が忘れていること―
【1】人材の流動化と「Healthy Turnover(健全な退職率)」
2022年7月13日に開催された日本経済新聞社主催のHuman Capital 2022のセミナー、「人的資本経営の本質を問う」と「新しい資本主義を実現する未来人材」に参加した。大変興味深い議論があったのでそれに触れつつ、今の日本の人事の対応で問題にすべき点を指摘したい。
「人的資本経営」に関しては、経済産業省から2022年5月「人材版伊藤レポート2.0」が公表されて以来その重要性が強調されている。人を中心に経営してきた日本企業にとっては「何を今さら」という感があるが、多くの企業ではその対応に大慌てのようである。「経営戦略と人材戦略の連動がカギとなる」という指摘があったが、これも当たり前の話でこんなことを言われて企業側からの反発はないのであろうか?「当社はこういう形で人材戦略を経営戦略と連動させている」と人事部が説明すれば事足りるはずである。そうなっていないとしたら何が問題なのだろうか?
「未来人材」をテーマとするセミナーでは、大学で博士号を取得した方の経験談が紹介された。就職のために日本の企業を訪問したが、「博士はオーバースペックで使い切れない」と断られ最終的に外資の金融関係に就職されたということでした。最近はどんな会社でも「高度な専門性を有する人材の採用・育成に注力する」というような飾り文句が多く見受けられるが、人事がそれを具現化していないのが実態である。
二つのセミナーを通じて「これからの日本は人材が流動化する」というのが一致した見解であった。対外的な飾り文句と実態が異なるような会社から、人材が流出するのは自然な流れであろう。世界の人事には「Healthy Turnover(健全な退職率)」という考え方がある。30%を超える社員が毎年退職するような会社に問題があるのは当然として、逆に100%近い社員が同じ会社に定年まで居続けることも不自然なのである。個性豊かな企業があり、同時に個性豊かな個人がいれば、その相性が一様でないのは明らかであり、相性が合わず退職することを自然なこととして認めるのが「Healthy Turnover」の考え方である。人材が流動化することを前提とした企業経営、人事のあり方があるのである。幸か不幸か日本の高度経済成長期は企業も拡大基調で、低い退職率が当たり前となっていた。日本の人事もそれを前提とした運用が慣行化していたが、そこから様々な歪みが生じていたことも確かである。長期的に見れば不自然な状態は長続きしない。これから起こる人材流動化は自然な流れで、その中で企業経営を支える人事が何をなすべきか考える時が来ている。
「高度な専門性を有する人材を採用する」と標榜する以上それが具体的に何を意味するか定義づけし、採用活動を通じて実践して行くのが人事の本来の仕事であろう。
【2】人事本来の仕事
人材が流動化すれば、退職した社員の仕事を担う社員がその仕事を的確に行えるよう、仕事の定義を明確に伝えることが求められる。後任の社員に「自分で考えてやれ」というのは、企業の継続性の観点から人事の仕事としては失格である。人事がまずやるべき仕事は社員が担うべき仕事を的確に伝えることであり、これを人事制度の基盤とすることである。
企業経営の原点はその企業の使命・理念(Mission, Vision)を実現することであり、そのために経営戦略があり、それを支えるための人事戦略がある。【1】で触れたように二つの戦略が連動することは当然のことである。
しかしその連動を具現化するためには、人事が経営戦略をそれぞれの仕事のレベルまで落とし込み、社員の「職務記述書ジョブディスクリプション(JD)」として定義づけることが必要なのである。「連動することが重要だ」と言って、あとは社員が自分でやれというのは、人事としての基本的な機能を放棄していると言わざるを得ない。この一番基本の仕事が、日本の人事では忘れられていると言える。
「人的資本経営」の本質は、「伊藤レポート2.0」にあるように「今や企業価値決定因子は有形資産から無形資産に移行した。その無形資産の中核がまぎれもなく人材である。したがって人材の価値を高めれば,無形資産の価値が高まりそれが企業価値を持続的に押し上げる」ことである。人事が戦略的な機能を果たすことが求められているのは「企業価値を持続的に押し上げること」が求められているからであり、観念的な戦略論を述べることではない。経営戦略を人事制度の基盤である社員一人一人の「職務・ジョブ」に落とし込み、人財の価値を高める方向性を明示することが求められているのである。過去の日本においては戦後の高度経済成長のおかげで拡大基調にあった多くの企業は、そんな面倒なことをしなくても社員が動機づけられ頑張ってくれて業績も向上して来た。
しかし今日本は普通の状態(経営陣が人材の価値を高め、企業価値を持続的に押し上げる必要がある状態)に戻ったのである。
つまり、人事は本来あるべき人事の仕事をすべき時が来たのである。
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秋山 健一郎(アキヤマ ケンイチロウ) 株式会社みのり経営研究所 代表取締役
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