社員一人ひとりの健康づくりを支援することによって、医療費の適正化と生産性の向上を図り、業績の改善を実現する「健康経営」。その主役は、決して企業や経営トップだけではありません。健康経営の実効性を高めるために欠かせないもうひとりのプレーヤー、それが健康保険組合です。企業と健保との協働――「コラボヘルス」という新たな考え方にも注目が集まり、2014年4月には産学連携の研究機関「コラボヘルス研究会」が立ち上げられました。その会員団体であるグラクソ・スミスクライン健康保険組合常務理事の鵜飼雅信さんと同事務長の住田規行さんに、企業と健保の連携はなぜ必要なのか、コラボヘルスとはどういう仕組みなのか、企業の人事はどう関わっていくべきなのかなどのポイントについてうかがいました。
- 鵜飼 雅信氏
- グラクソ・スミスクライン健康保険組合 常務理事
うかい・まさのぶ/大学研究室で抗生物質を開発していたことから、設立2年目の製薬会社である日本グラクソ株式会社に入社。医薬情報担当者(現在のMR)から始まり、2001年グラクソ・スミスクライン設立時に営業本部担当人事として人財本部に異動。採用業務を経て、2011年11月よりグラクソ・スミスクライン健康保険組合 常務理事。サッカー、テニス、酒と孫をこよなく愛する。
- 住田 規行氏
- グラクソ・スミスクライン健康保険組合 事務長
すみだ・のりゆき/1986年日本グラクソ(現GSK)に入社。営業MRからラインマネージャーを経験し、40歳代にトレーニング部に異動。以後、新入社員からマネージャークラスまでの各種営業職研修に携わる。「心身とも健康」をモットーに、社員の健康のお手本になるべく、昨年より健康保険組合事務長職。
健康が大切――わかっていても動かないトップの心理
「社員の健康づくりに関する費用は、コストではなく、代替のきかない“人材”への投資」と捉えるのが「健康経営」の大前提です。その意義やメリット、手法などをどのようにお考えですか。
鵜飼:「健康経営」とは、「社員の健康を経営の基盤として位置付ける経営」のことです。事業主にはもともと、労働安全衛生法により、従業員に対する安全配慮義務が定められていますが、それはあくまで企業側の一方的な義務にすぎません。健康経営では、経営者が働く人の健康づくりを促すことで、従業員はより充実した職業人生をより長く維持でき、企業側も生産性・収益性の向上が期待できる。両者に、Win-Winのメリットをもたらします。そもそもこうした議論が高まってきたのは、2013年6月に閣議決定された政府の成長戦略「日本再興戦略※」が発端でした。戦略市場創造プランの第一のテーマに「国民の『健康寿命』の延伸」が掲げられ、これに基づくアクションプランの一つとして、「健康経営の推進」が位置付けられたわけです。
住田:企業が「健康経営」に取り組むと、社員の健康増進によって短期的に利益が高まるだけでなく、組織に活力が生まれ、企業の長期的な存続・発展、ひいては社会全体のサステナビリティの確保にも資すると考えられています。だからこそ国も、保険者と連携して健康経営を実践する企業を「健康経営銘柄」に選定し、インセンティブを付与するなど、政策面から「健康経営」の推進に力を入れているのですが、なかなか難しいのが実状です。
各企業の実践面でいうと、やはり経営層のコミットメントとリーダーシップは欠かせません。トップをどう動かすか、が問題ですね。
住田:トップ自らが健康経営の重要性を理解して、それに取り組む旨の「健康宣言」を行った上で実践するのが理想で、実際、取り組みがうまく行っている企業の多くはそのようにしています。しかし経営者からすると、健康に対する投資が大切だとわかっていても、それなりのエビデンス(根拠)がないと、やはり動けません。何にどう投資すれば、どんなリターンがあるのか。どれだけ生産性が上がり、医療費も抑えられるのか。そうした数値をエビデンスとして、トップにはっきりと示しきれないところもネックのひとつです。
鵜飼:いま言ったように、トップが「健康宣言」を出す際にも、本来は健保組合が持っているデータを活用して“健康白書”のようなものをまとめると良いのだと思います。たとえば生活習慣病について、いますぐ手を打たないといけない人は全社員の何%で、予備軍は何%、いまは大丈夫でも将来かかりそうな人は何%だから、それぞれについてこういう施策を打つべきだ、と。事業主である企業と保険者である健保組合との適切な連携、つまり「コラボヘルス」によって進めていくのが、いま求められている「健康経営」のあり方です。人事のみなさんなら、「プレゼンティーイズム」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。欠勤するほどではないものの、何らかの不調を抱えたまま働いている状態のことで、米国での研究によると、この「プレゼンティーイズム」による労働生産性の損失は、病気休業による損失よりはるかに大きいことが分かっています。日本の実態については、当社・当組合も参加している「コラボヘルス研究会」で分析を進めているところですが、これだけ生産性が低下し損失が出ているという実態を数字で可視化することができれば、病気の社員が何人いるかといったデータ以上に、経営者には強く響くはずです。
企業と健保の連携で重要な役割を果たす「人事」
住田:2015年度から厚生労働省の下で「データヘルス計画」が始まり、1400以上の健保組合すべてに計画(加入者の健康・医療情報のデータ分析に基づき、健康課題を特定した上で保健事業を企画)の策定が義務づけられました。同計画でも、コラボヘルスによって事業の実効性を高めることが強く求められており、各健保はいま、企業経営陣を説得するエビデンスとしてのデータ分析を進めているところです。しかし、コラボヘルス研究会などで他の組合の方たちがおっしゃるのは、データを作成したとしても経営陣へ届けるコミュニケーションが難しいとの声が多く聞かれます。
健保としては経営陣へ伝えるコミュニケーションの過程において、人事のサポートがあると嬉しいということですか?
住田:そうですね。たとえば、経営会議がどのタイミングで開かれるのか、そこに健康経営やデータヘルスに関する案件を、誰が、どういう形で持っていけば効果的なのか、細かい社内事情は健保では把握できないことが多々あります。これらの情報を持つ人事部が間に入ってくださると、健保の持つ情報も経営の視点により役に立つことができますね。
鵜飼:最初に述べたように、企業にとって健康経営はまぎれもなく一つの経営戦略であり、経営陣リードのもと行われるべき事業です。ただ、そこにつながるためには、トップと人材や経営について話せる立場にある、人事部の方が適任だと考えています。人事部の方には、健康に関する情報を経営陣に届けることに加え、経営の視点を持って人を動かしていくことを期待しています。
互いの強みを活かして人事部との協働を進めるためにも健康経営における「コラボヘルス」とはどういう仕組みなのか、あらためてご説明ください。
鵜飼:コラボヘルスとは、企業と健康保険組合が連携し、双方の資源や保健事業における強みを共有・相互活用することによって、健康投資の無駄を抑え、かつ従業員の健康度を効果的に増進する取り組みです。保険者である健保がもっている強みとしては、加入者のレセプトデータや特定健診の結果など、誰も見ることのできない個人の健康・医療情報を利用できることが挙げられます。つまり、どの従業員が何の病気にかかり、どんな治療を受け、どういう薬を使っているかが全部わかる。検査結果も持っていますから、たとえば結果が悪いのに、適切な治療を受けていない人がいたら、それもピックアップできるわけです。しかし、われわれ健保側から本人に直接働きかけて、病院に行くように指示することは困難です。そこは、企業が持っているライン機能を利用して、本人にアプローチしてもらうことになります。もちろん個人情報保護の観点から、具体的な病名などは明かせませんが、企業側との連携が取れていれば、上司や産業保健スタッフを通じて必要な治療を促すことも出来ます。
費用対効果の高い保健事業は“身の丈”に応じた計画から
健保側は健診データに基づくエビデンスを持っているのに対して、企業側は上司・部下のライン機能や産業保健スタッフといった人的資源を持っており、互いに連携・協働することが重要なのですね。
鵜飼:そのとおりです。一般的に、大企業と、その母体企業の従業員と家族が加入している単一型健康保険組合とは、従業員と健保の距離感が近く、お互いの顔が見えやすいので、連携には都合がいい。特に当社のように従業員が約3000人強で、その家族が5000人弱ぐらいの規模だとすごくやりやすいんですよ。一方で、同業・同種の事業所によって組織された総合型健康保険組合や中小企業の加入が多い協会けんぽの場合は、どうしても母体企業との関係が薄くなり、連携・協働の範囲は限定されがちです。企業側も、各社が同じ健保に対して「うちはこういうルールでやっているので、健保もそれに合わせてください」と、個別に要請するわけにはいきませんからね。
住田:確かに、単一型健保は母体企業との距離が近く、何かと連携しやすいというメリットがありますが、コラボヘルスにおける企業と健保との距離感は、遠くてもよくないし、逆にあまり近すぎてもよくないと言われます。その背景としては、企業と健保とでは、健康に関する立場に少し違いがあることが影響しているのかもしれません。健保側は社員とその家族への視点が強いのではないでしょうか。
鵜飼:確かにそうですね。健保は健康の維持・増進を目的とし、それに特化している組織ですが、人事部の方は労務管理やその他幅広いテーマを業務で扱っています。そこはお互い背景を理解しあって議論を進めていかなければならないと思います。健保にはこんなデータがあって、分析の結果、こういうことがわかりましたという情報を、人事部の労務担当者に伝えて活用を促すのはいいのですが、なるべく相手にとって“重く”なりすぎないよう、適切な形で提供する配慮が求められます。企業と健保の距離感というのは、そういうことだと思います。
産業医をはじめ、産業保健スタッフの役割についてはいかがですか。
鵜飼:安衛法によって、従業員50人以上の事業所には産業医を設置することが義務付けられていますが、“義務だから置いている”というだけでは、「健康経営」に取り組む体制・機能として十分ではありません。各地の事業所の産業医や産業保健スタッフを統括する司令塔的なポジションとして、本社に「統括産業医」を設置することが必要だと、私たちは考えています。「統括産業医」に求められるのは、健康経営に関する意思決定者、つまり経営陣との緊密なコミュニケーションや、企業の健康管理方針・ルール策定への参画、全社産業保健スタッフの採用・育成・意思疎通を主導するなどの機能です。メリットの一つとして、全国各地に散らばる有所見者への産業医面談がとてもやりやすくなり、健保から統括産業医を通じて、各地の産業医にアプローチする手法ができるわけです。
住田:このことも「コラボヘルス」の一つのあり方でしょうね。とはいえ、こうした専門職スタッフの整備においても、あるいはデータの分析・活用においても、企業や健保の規模によって、取り組みの差が生じることはやむをえません。政府も、費用対効果の高い保健事業を実施するためには、各企業、各健保が「身の丈」にあわせた計画を策定することが大切だとしています。健保においてはデータヘルス計画の“松・竹・梅”のどこを目指すのか。さまざまなモデル事業なども紹介されており、各社健保が適切な目標を設定する事になります。
健康な社員こそが健全な会社や社会をつくる
グラクソ・スミスクライン健康保険組合では、具体的にどのような取り組みを行われているのでしょうか。
鵜飼:2013年から「ヘルスケアポイント」(健康ポイント)制度を導入しました。これは従業員のセルフケアを促し、支援する仕組みで、(1)成果に応じたポイント(健診結果が良かった人、健診結果が改善された人)を付与するプログラムと、(2)努力に応じたポイント(春と秋に実施するキャンペーンで課題となる生活習慣を改善できた人など)を付与するプログラムの、二つのコースからなる取り組みです。ポイントは1ポイント=1円とし、健康グッズやさまざまなレジャー用品などと交換できるようにしています。
住田:現在、積極的に利用している社員は全体の4分の1ぐらいです。利用する人はものすごく利用するけれど、利用しない人はまったく利用していません。そのような方にどのようにアプローチするかが課題であり、人事部の方とも一緒に取り組んでいきたいと考えています。
企業が健保と連携して「健康経営」を取り組むうえで、人事はどのようなことに留意すべきでしょうか。アドバイスをお願いいたします。
鵜飼:健保が持っているデータを、もっともっと活用していただきたい。それに尽きますね。健保がどういう情報を持っているのか、あまり知られていないのかもしれません。もちろん一人ひとりの健康・医療情報は個人情報ですから、そのまま提供することはできませんが、たとえばある社員が病気で休んだときは健保の情報を何らかの形で共有し、復帰後の受け入れ体制や就業面の配慮に活かしてほしいと思います。
住田:人材に関わる重要なデータは、人事にもたくさんあると思います。健保が持っているデータと、会社や人事が持っているデータをつきあわせて分析してみると、プレゼンティーイズムによる損失の実態が明らかになったように、いままでは見えなかったことが次々と“見える化”していきます。企業と健保、人事と健保、お互いのもつ資源や強みを社員の健康のために「コラボヘルス」することで、組織はもっと強くなれるはずです。
鵜飼:健康な社員こそが健全な会社や社会をつくります。企業と健康保険組合が連携・協働することで、健全な社会を実現していきましょう。