人的資本経営実現のためのアジャイルな進め方
1.はじめに
こんにちは。TIS株式会社の稲葉涼太です。ESGと人的資本経営のエキスパートです。
第1回目コラムでは人的資本経営が求められる背景と意義について記載しました。
第2回目コラムでは人的資本経営で向上させる「価値」の定義と可視化について、ESGとの関連も踏まえ記載しました。
第3回コラムでは従業員に視点を当てて自律的キャリアについて記載しました。
前回の第4回コラムでは中動態のキャリアから、自律的で能動的なキャリアを構築し企業と従業員が双方とも自身の戦略を実現するために、人事制度にフォーカスしてジョブ型でもメンバーシップ型でもない「スキルベース型人事」について記載しました。
いよいよ今回でこの連載も第5回で完結します。
今回は、スキルベース型人事の実現のために素早く試行錯誤しながら進めるアジャイルな考え方について記載します。
2.「スキル」についてのおさらい
スキルベース型の必要性の提唱については前回のコラム「企業価値向上と自律的キャリアのための「スキルベース型人事」」をご参照ください。
スキルベース型の組織では、従業員が持つ人的資本である「スキル」が通貨のような意味を持ち、スキルを媒介にして組織と従業員の「意思」「スキル」による、可視化されて透明性あるマーケットプレイスが形成されます。
スキルベース型の実現により、組織と従業員はフェアで対等な関係になり、従業員としては中動態から自律的で能動的なキャリアの実現が見込まれ、キャリアプラン実現のための自律的なリスキリング・学び直しを行えることが見込まれます。
ここで言う「スキル」とは何かについてもおさらいします。
・一般的には「スキル」とはハードスキルまたはテクニカルスキル(コーディング、データ分析、簿記・会計知識など)と認識されますが、それだけではありません。
・ヒューマンケイパビリティまたはヒューマンスキル(クリティカル ・シンキングや EQなど) やポテンシャル(潜在的な資質や能力、また将来の成功につながるような隣接スキル)今までの人生で歩んできた経験などもスキルです。
スキルベース型人事の実現には、その会社の従業員の持つスキルつまり人的資本の現状の可視化と、その会社が今後事業を行う上で必要なスキルの言語化が必要です。
現状と将来が可視化されることで従業員個人は自律的キャリアの戦略が立てられ企業は将来の人材ポートフォリオを描き人材ポートフォリオ実現に向けた施策が打てます。
スキルの可視化が人材版伊藤ポートフォリオ2.0で言う「AS IS TO BEギャップの定量把握」の大事な要素です。
3.自社のスキル定義に王道なし~守破離の「守」を活かしながら、自社独自のこだわりの探索は地道に行う~
自社が必要とするスキルの定義には王道(安易で楽な道)は無いと思います。
ハードスキル・テクニカルスキルに関しては例えばIPA(情報処理推進機構)が公開するITSS(ITスキルスタンダード)やiCD協会のiコンピテンシ・ディクショナリなどがあります。
他にも業界ごとにスキル標準を定義する業界はあると思います。
しかしそれらは一般的・汎用的なスキル定義であり、自社が使うには「項目の過不足」、「内容の解像度や具体性の低さ」、「スキル項目に対してなどのレベルの定義(例・何ができたら5段階で5なのか)」などを自社用に補う必要があります。
ヒューマンスキルに関しては業界ごとのスキル標準すらほとんどなく、一般論レベルの解像度の低い項目一覧しかないのが現状だと思います。
つまり自社でスキル定義を行うにあたり、世に出回るスキル標準やカタログをそのまま使う「王道」は現時点では存在しません。
もちろん、世に出回るスキル標準やカタログの中には参考になるものもありますが、あくまで参考です。
いわば「守破離」の「守」であり、型から入るのも大事ですが、型を破るからこそ型破り、つまり自社独自のスキル定義が行えます。
以下にスキル定義作成の進め方の案を記載します。
まず現状のスキルを可視化するのが大事ですが、自社独自のスキル定義を行うのは地道な活動になります。
スキル定義を行う順番は「職務」(何をするか)「職責」(何を果たすべき責任があるか)を定義したうえで、職責を果たすためにどのようなスキルが必要かを書き出すことをお勧めします。
(1)従業員を起点として従業員に以下を詳細に記載していただくことからはじめることを提案します。
・自分の職務(何をするか)を定義する
・職務に対する職責(果たすべき責任)を可能な限り書き出す
・職責に対して必要だと考えるスキルを可能な限り書き出す
(2)組織側で想定する必要な職務とスキルも洗い出します
・各組織で必要とする職務を洗い出す
・職務に対する職責を可能な限り書き出す
・職責に対して必要だと考えるスキルを可能な限り書き出す
書き出した(1)従業員視点(2)組織視点は記載者ごとに表記ゆれがあるので表記ゆれの調整が必要です。
ほとんどの場合(1)従業員視点(2)組織視点の間には大きなギャップがあります。
従業員側が必要と考えるスキルが組織側で認識されていない、逆に組織として求めている職務に対するスキルを従業員が認識していない場合の両方があります。
それら調整後(1)従業員視点(2)組織視点のスキルを整理すると組織としてのスキルカタログ(初版)ができます。
この整理の段階でも表記ゆれや類似表現の統一などの調整が必要です。
しかしまだ、スキルの項目が整理されただけで、スキルに対するレベル定義が必要です。
レベル定義とは例えば5段階にわけたとして「5」とは何ができることという定義です。
スキルごとにレベル定義を行いスキルカタログ(2版)ができます。
このスキルカタログを基に従業員がカタログから自分のスキルとレベルを定義するともに、組織として職務・職責および従業員のランクに求めるスキルを定義します。
さらに従業員が申告するスキルへの評価方法の定義が必要です。
世に出回るスキル標準やカタログを参考にしつつも、自社固有のスキル定義を行うには王道(楽な道)はなく、地道で骨が折れる活動であり徹底したこだわりが必要です。
2024年流行りのドラマのフレーズを使えば「フィジカルでプリミティブでフェティッシュな活動」と言えるかもしれません。
しかし、さすがにこれらを全部人力でやるのは大変ですのでAIの有効な活用が必要です。
4.AIの活用~ユートピアのようなディストピアとしての「AI人的資本経営」ではなく効率的なAI活用~
「AIを活用した人的資本経営」というとAIがあらゆる情報を収集し判断する未来図を予想する方もいると思います。
正式な人事評価文書や職務経歴だけでなく、各種成果物や会議カレンダー履歴や社内チャット履歴などテキスト収集をしたり、PCや貸与スマホなど各種デバイスにもセンサーをつけ健康状態から離籍状況から情報収集をして人物評価をする世界です。
もちろん将来どうなるかはわかりません。
しかし、筆者は今時点では2つの観点で難しいと考えます。
まず技術的にもまだ途上段階ですし、それ以上に文化や社会通念や倫理あるいは法律の観点の懸念が大きいです。
あらゆるデータを収集しあらゆることをAIが判断するのは技術観点ではユートピアかもしれませんが、社会的にはまだジョージ・オーウェルの「1984」のようなディストピアをイメージされる方も多いと思います。
少し前ですがAmazonが人材採用にAIを活用したところ意図せぬ女性差別をAIが行い運用を取りやめました。
これは、『Amazonで評価の高いエンジニアの履歴書の傾向』をAIに学習させたところ、過去の評価の高いエンジニアのパターンに男性が多かったためAIは「男性を優秀」と学習してしまい、応募の段階で『女性』の時点でAIが不採用にしたという事例です。
応募者や従業員の人生に大きく影響する判断をAIに任せるのはまだまだ慎重になる状況だと思います。
しかし、こと情報処理に関して、AIは大いに活用すべきだと思います。
先ほどの章のスキル定義で難儀するのは、多くの人が個別に書いたスキルに関する自由記述の表記ゆれや粒度のばらつきの調整です。
言語処理とアウトプット生成はAIが得意とするところです。
AI等、技術を活用できるは活用してスキル定義作成を効率的に進めることをお勧めします。
5.スキルベース型人事の立ち上げはアジャイルに~パイロット・プロジェクトからスキル定義の作成~
スキルベース型人事への道は試行錯誤の道です。
まず、自社に合うスキル定義も試行錯誤をしながら練度を上げていきます。
さらに、スキル定義を活用して、前回のコラムで書いた「スキル・マーケットプレイス」をどのように効果的に開始して運用を行うのかも試行錯誤です。
このような、いきなり正解がわからない試行錯誤を行う場合は全社一斉に行うと手戻りコストや軌道修正に必要なパーが膨大になりスピード感ある軌道修正が難しくなります。
そこで「アジャイル」のアプローチをお勧めします。
アジャイルはシステム開発などで聞くことが多いと思いますが、環境変化の大きさや不確実性が多い状況に対応するマネジメントの在り方で、Non-ITの活動でも活用できます。
アジャイルとは直訳すると「素早い」「迅速な」という意味ですが、ここで言う速さは作業速度の速さではありません。
計画の見立て違いややり方の違いなど、失敗や軌道修正すべき点、改善すべき点に「速く気づける」ことが大事です。
速く気づけるためには、少しずつでも速く検証して気づくためのアウトプットを速く出し、速くフィードバックを得て気づいたならば方向の軌道修正や、やり方の改善点を速く言語化して次のアクションを行うことこれを短いサイクルで繰り返し精度を高めることが大事です。
変化の激しさや不確実性が見込まれる活動において、手戻りの時間と費用コストが少なく結果的に速く改善し状況に適応しながら進められるのがアジャイルの利点です。
なお、組織がアジャイルであるためには、失敗や違いを気づきとして歓迎できる心理的安全性、忖度や誤魔化しなく透明をもって正しく事実を可視化できること、そして想定と現実が違った時に適切に改善や軌道修正を自律的に行える適応力が必要です。
本件からは話がそれますがアジャイルはシステム開発の方法だけではなく、組織開発としても効果的な考え方ですのでご興味がある方はぜひご相談ください。
話を戻しまして、スキルベース型人事を進めるにはいきなり全社で活動をするのではなくパイロット・プロジェクトで小さく早く試しながら行うことをお勧めします。
※図:アジャイルのフレームワーク「スクラム」をベースにした仮説検証サイクルのイメージ
スキルベース型人事をアジャイルで行う観点は2つです。
(1) スキル定義の作成。
まずパイロット・プロジェクトを選定しそのプロジェクトの中で必要な職務とスキルを言語化します。
元々プロジェクトは期間と目的があり、期間内に目的を実現するために集まるメンバーに役割がありスキルを発揮する活動ですので職務・職責とスキル定義はしやすいと思います。
最初のプロジェクトで作成したスキルカタログを次のプロジェクトでも活用し、少しずつ自社としてのスキル定義を充実させていくことをお勧めします。
(2) スキル定義を活用したマーケットプレイスの開始と運用
次に、いくつかマーケットプレイス対象の公募型プロジェクトを立ち上げ、そこで従業員とプロジェクトの間でスキルを通貨のように介在させたスキルマッチングを行います。
このマッチング自体の選定の仕方やマッチングした後のマッチ度の精度、さらにプロジェクトの成果は本当に想定したアウトカムを実現でき、マーケットプレイスの実現によって人的資本経営の観点から意図したアウトカムが実現できたかを検証する必要があります。
少しずつマーケットプレイスの精度を高め徐々に組織展開することをお勧めします。
6.スキルベース型人事の発展形~評価と処遇への反映~
最終的にはスキルベース型人事はスキルが報酬評価と処遇につながることが望ましいと思います。
ただ、報酬評価と処遇はスキルだけではなく仕事のプロセスや成果なども対象になると思います。
そして、スキルベース型人事の導入当初は報酬評価や処遇とは結び付けず、純粋にスキル定義の精度やマーケットプレイスの精度を評価することに限定したほうが良いと思います。
なぜなら、報酬評価や処遇と絡めるとどうしても「あの人の評価を上げよう」「あの人を昇格させたい」などの都合が入り、いわゆる「鉛筆なめ」の調整が入りスキルが正しく評価できません。
また、本コラムの中には人事評価の難しさにお悩みの方も多いと思います。
評価は評価者トレーニングを受けたとしても無意識のうちに「ハロー効果」「中央化傾向」「寛大化傾向」「酷評化傾向」「期末誤差」「論理誤差」「対比誤差」などのバイアスに流されがちです。
まして試行錯誤しながら新しい仕組を構築する中で報酬評価と処遇まで考えなければいけないのは難易度を上げます。
まずは仕組みの精度を上げて全社的に展開してから報酬評価と処遇をスキルベースで考えることをお勧めします。
7.まとめ
これで全5回のコラムの最終回となります。
ここまで、従業員の皆様と経営層・人事部向けに人的資本経営をテーマにコラムをお届けしました。
■従業員向けのメッセージとしてはプロティアン・キャリアをベースに以下のことをお伝えしました
・自分と見つめあい自分の心理的成功をイメージする
・3つの資本(ビジネス資本、社会関係資本、経済資本)の蓄積を行う
・キャリア戦略を立て自分のマネジメント計画を立てる
■経営層・人事部向けには以下のメッセージをお伝えしました
・人的資本経営はサステナビリティを実現する上でESGのS(Social)としても重要テーマ
・人的資本経営を開示だけではなく、企業価値を向上させるために行う
・中動態のビジネスパーソンに人を育ててしまう異動配置から、意志を伴うスキルベース型マーケットプレイスの実現
・人的資本の充足と自律的キャリアの実現のためにアジャイル型の「スキルベース型人事」を提唱
人的資本経営の効果的な実現は、まだ多くの企業が試行錯誤の段階で「正解」と言い切れる事例もなく今なお改善の最中だと思います。
本コラムをご覧になられた方で、一緒に人的資本経営についてディスカッションをして試行錯誤の精度を上げたいと思われる方がいましたら是非お気軽にご連絡ください。
皆様のサステナビリティと人的資本経営実現、そして心理的成功を実現する自律的キャリアを実現する上で、本コラムが少しでも皆様のお役に立てば幸いです。
- 経営戦略・経営管理
- モチベーション・組織活性化
- キャリア開発
- マネジメント
- 情報システム・IT関連
社会と企業と従業員のサステナブルな成長を実現するための人的資本経営とIT利活用を支援します
人事業務改革、人事システム導入、キャリア支援、SDGs/ESGなど多くのコンサルティング実績を有するとともに、プロジェクトマネジメントやアジャイル型アプローチに深い知見とSDGs/ESG、人的資本などの講演経験を多数有します。
稲葉 涼太(イナバ リョウタ) エンタープライズサービス事業部 経営管理サービス第2部 エキスパート
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