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【前編】人事専門職と「中立」の再考

【エッセンシャル版】「一般的教示義務」という専門職倫理の再定義

 

はじめに(想定読者と本稿の射程)

本稿は、人事部門での実務経験がおおむね5年以上あり、「それは経営判断だから」という言葉の前で思考を止めざるを得なかった経験を持ちながらも、心のどこかに拭いきれない違和感を抱き続けてきた方々を主な想定読者としています。

 

あわせて、これまで拙稿に触れる機会のなかった方々にも、本論の問題意識と要点が過不足なく伝わるよう、議論の核心部分に焦点を当てて整理しました。

 

「経営判断だから」――その一言で、あなたは何度、違和感を飲み込んできたでしょうか。


本来立ち止まるべき場面で、人事が「中立」の名のもとに選んできた沈黙。しかし、それは公正さの表れなのか、それとも判断からの逃避なのでしょうか。

 

本稿は、人事が陥る「中立の罠」を解き明かし、専門職として引き受けるべき責任を、「一般的教示義務」という概念を軸に再定義する試みです。

 

1.「中立の罠」――沈黙は専門職性の自死である

人事は「中立であるべきだ」と、長らく言われてきました。労使の間に立ち、特定の立場に与しないこと――それが専門性の表れだと理解されてきたからです。

しかし、現場で起きている現実はどうでしょうか。

 

たとえば、育児中の社員に突きつけられる、生活基盤を根底から揺るがすような転勤命令。人事として、そこに明らかな無理があると感じ、強い違和感を覚える。しかし、「最終的な経営判断だから」と自分を納得させ、口を閉ざす。

 

この背景には、日本の雇用関係が持つ構造的特徴があります。労働者が契約内容について異議を述べることが、契約当事者としての正当な権利行使ではなく、「組織への反抗」「忠誠心の欠如」として受け止められやすい風土です。人事がリスクを指摘すれば、それは「経営の足を引っ張る行為」と映りかねません。

 

しかし、契約自由の原則は、社会的妥当性を失わない限度でのみ許容される――これは労働法のみならず契約法理の基本原則です。人事が守るべきは経営判断それ自体ではなく、その判断が依拠すべき法原則であり、そして手続的公正という制度です。沈黙は、この「原則と制度の番人」としての役割を放棄することに等しいのです。

 

思うに、ここで問うべきは、その「中立」という態度そのものが人事の専門職性を真に支えているのか、という点です。実態として、その「中立」は、単なる「判断の保留」や「思考の停止」と同義になってはいないでしょうか。

 

本来、専門職とは判断を回避する存在ではありません。一定の知識と経験、そして倫理に基づいて「判断を引き受ける」存在であるはずです。

 

沈黙は、短期的には波風を立てない選択に見えます。しかしそれは、「専門職的価値の自死」にほかなりません。


進言なき人事は、経営から「判断の役に立たない存在」と断じられ、単なる手続き屋へと格下げされます。紛争時に「なぜ止めなかったのか」と問われるのは、沈黙を選んだ人事自身の消極性なのです。

 

2.判断の「代行」ではなく「前提条件の整備」

「判断を引き受ける」とは、経営や当事者に代わって最終結論を下すことではありません。


そうではなく、判断が恣意や誤解に基づいて行われないよう、その前提条件――法的枠組み、制度趣旨、想定される帰結――について、専門職として評価し、異議を唱え、可視化する責任を引き受けることなのです。

 

たとえば、重度の障がいのある子を養育する労働者や、認知症の親を介護する労働者など、切実な家庭事情を抱える者に対し、経営合理性のみを優先した配置転換が検討される局面を想像してみてください。

 

ここで想起すべきは、『滋賀県社会福祉事業団事件(最二小判 令和6年4月26日)』です。この事案では、重度の障がいがある子を養育しているという個別事情がある中で、配転が生活に与える影響を深刻に捉え、最高裁は配転命令を無効と判断しました。

 

人事が「自分は中立の立場だから」「決定権は経営にあるから」として沈黙を守ることは、一見、職域を守っているように見えます。

 

しかし、その沈黙は決して真空状態ではありません

 

人事が、現場の不利益や判例法理との乖離を認識しながら経営に適切なフィードバックを行わないことは、「法的に無効となる可能性の高い業務命令」を追認することに等しいものです。結果として、組織をかえって重大なリスクに晒す行為なのです。

 

3.「人事専門職の一般的教示義務」という概念

私は、人事専門職が果たすべき役割を、広義の「一般的教示義務」と呼びます。

 

ここでいう「一般的教示義務」とは、行政手続法上の教示義務のような法的強制力を持つものではありません。法が明示的に命じていなくとも、判断の前提条件を整える責任を引き受けるという、専門職の本質から導かれる倫理的要請を指します。

 

この一般的教示義務は、次の三つの要素に分析できます。

 

第一に、情報の非対称性を是正する義務。

相談者が知らないがゆえに不利益を被る可能性のある制度・権利・手続について、専門家として積極的に開示することです。「聞かれなかったから答えなかった」は、専門職の態度ではありません

第二に、予見可能性を担保する義務。
人事施策が当事者に及ぼす影響、とりわけ不利益を事前に可視化し、当事者が自律的な意思決定を行えるよう支援することです。

第三に、手続的公正性を擁護する義務。
経営判断の結論ではなく、その判断に至るプロセスが衡平・公正であったかを検証し、瑕疵があれば指摘することは、人事の専門的責務です。

 

これらはいずれも法的強制力を持ちません。しかし、専門職として自らに課すべき倫理的要請です。


それゆえ、もし教示を怠った場合、あるいは誤った教示を行った場合には、当事者に不利益とならないような救済が講じられるべきです。

 

これらの義務を引き受けることこそが、人事を「中立という名の傍観者」から、「判断責任を引き受ける専門職」へと転換させるのです。

 

4.現場のジレンマへの処方箋

「経営陣に逆らえば、人事としての居場所を失うのではないか?」

経営への異議は、居場所を失う行為ではありません。むしろ、意思決定の精度を高める貢献です。後に裁判で否定されたり、社会的批判を浴びたりした場合、最終的に責任を負うのは経営者自身だからです。

 

「この判断は、現行法理に照らすと敗訴リスクが3割あります。代案として、この条件を検討してはどうでしょうか」


このように、リスクを数値化・言語化し、経営が適切なリスクテイクを行えるよう支えること。沈黙するYESマンよりも、異論を唱えるパートナーこそが、長期的には最も信頼される存在となります。

 

「判例をフォローする時間がない」という声も耳にします。しかし、判例をフォローしないことのマイナスは決して小さくありません。「知りませんでした」は、専門職の弁明として通用しないことを覚悟しましょう。

 

自社に関わる可能性の高い領域に絞り、信頼できる解説を活用し、疑義が生じたときに立ち止まる。この習慣こそが、専門職と事務担当者とを分かつ分水嶺です。

 

 

結びに――Whose Side Are We On?

人事専門職は、誰の味方でもなく、誰の敵でもありません。しかし同時に、経営にも、労働者にも、そして自らの専門職性にも責任を負っています。

 

「中立」という言葉に隠れて沈黙することは、専門職としての自殺行為です。たしかに、声を上げることには勇気が要ります。しかし、専門職とは、緊張関係の中でこそ価値を発揮する存在です。

 

Whose Side Are We On?


その答えは、「法と倫理、そして組織の持続可能性の側に立つ」ことです。

事務屋として一生を終えるか、判断の責任を背負うプロフェッショナルとして生きるか。
 

その選択は、今日、この瞬間から始まっています。

 

【前編 完】

 

 

このコラムを書いたプロフェッショナル

及川 勝洋

及川 勝洋
一般社団法人地域連携プラットフォーム シニアリサーチャー

制度や理論を現場で機能させることを一貫して追究。学術研究と実務の知見を架橋し、人材育成・キャリア形成を横断的に探究。人事施策を実装可能な形に翻訳し、個人の納得感と組織の持続的成長を支える伴走者。

制度や理論を現場で機能させることを一貫して追究。学術研究と実務の知見を架橋し、人材育成・キャリア形成を横断的に探究。人事施策を実装可能な形に翻訳し、個人の納得感と組織の持続的成長を支える伴走者。

得意分野 法改正対策・助成金、労務・賃金、キャリア開発、資格取得、法務・品質管理・ISO
対応エリア 全国
所在地 志木市
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