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人事専門職の「一般的教示義務」とは何か

――判断を代行しないが、判断から逃げないために

 

※本稿は人事経験5年以上で、「経営判断だから」という言葉に沈黙しながらも、心のどこかで違和感を抱き続けている方々を想定読者としています。

 

2026/02/03付「人事は『中立』という幻想を捨てられるか(前編・後編)」では、人事専門職が真に果たすべき役割として、「一般的教示義務」という概念を提示しました。

 

しかし、この義務の具体的な内容――「何を」「どこまで」「どのように」開示し、助言すべきなのか――については、実務に即した基準が必要です。

 

 「聞かれなかったから答えなかった」――その沈黙が、専門職としての責任放棄になっていないでしょうか。改めて問い直します。

 

はじめに――

多くの人事担当者は、一度はこう思ったことがあるはずです。
「違和感はある。しかし、経営判断だから――ここは黙るしかない」と。

 

「判断を引き受ける」とは、何を意味するのでしょうか。前記『前後編』において私は、「人事は中立であるべきだ」という通念に疑義を呈し、「判断を引き受ける専門職性」への転換を提起しました。その議論の核心として提示したのが、「(人事専門職の)一般的教示義務」です。

 

しかし、ここで一つ、整理しておくべき点があります。それは、「判断を引き受ける」とは、誰の、どの判断を引き受けることなのかという問題です。人事が、経営や当事者に代わって最終結論を下すべきだと主張しているわけではないからです。

 

そうではなく、判断が恣意や誤解に基づいて行われないよう、その前提条件――法的枠組み、制度趣旨、想定される帰結――について、専門職として評価し、異議を唱え、可視化する責任を引き受けよ、という意味です。

 

本稿では、この責任を「(人事専門職の)一般的教示義務」と位置づけ、その内容と限界を判断基準として明確化します。具体的には、キャリア面談、配置転換の起案、人事制度の設計といった局面において、人事専門職がいかに判断責任を引き受けるべきか、その実務上の基準を明らかにします。

 

1.「一般的教示義務」は誰に向けられた義務か

一般的教示義務は、しばしばキャリア面談や個別相談の場面で語られるため、「労働者本人に対する義務」だと理解されがちです。確かに、直接の行為対象は当事者であることが多いでしょう。

 

しかし、その射程は個人にとどまりません。人事が制度や権利、手続について必要な情報を開示しなかった結果、当事者が不利益を被る。その不利益が紛争に発展し、訴訟や社会的批判を招き、組織全体の信頼を損なう――この連鎖は、決して例外的なものではありません。

 

つまり、人事の教示行為(あるいは不作為)は、「当事者 → 経営 → 組織 → 社会的評価」へと波及します。この意味で、一般的教示義務とは、「目の前の相手に向けられながら、組織全体に責任を負う義務」なのです。

 

 2.教示と越権を分ける一本の線

「そこまで説明するのは越権ではないか」「判断の代行にならないか」という懸念は、常に付きまといます。

 

しかし、この懸念は「判断」と「判断の代行」を混同しています。 人事が担うべきではないのは、当事者や経営に代わって結論を下すことです。しかし、当事者や経営が自ら判断するために不可欠な前提条件を整える責任はあります。

 

教示とは、正解を押し付けることではありません。
判断の責任を、相手に返すための準備です。

 

具体的に、現場で交わされるべき言葉は以下のようなものです。

 

経営層に対して: 「この配転は経営権の範囲内ですが、近年の最高裁の判例(滋賀県社会福祉事業団事件、その他育児事情配慮に関する下級審での裁判例等)に照らせば、育児事情への配慮不足として無効とされるリスクが一定程度存在します。事後に争点化するコストを考慮し、代替案を検討すべきです。」

 

労働者に対して:「あなたがこの異動を拒否した場合、就業規則上は懲戒の対象になり得ます。一方で、育児介護休業法に基づく『配慮義務』を会社が十分に果たしていないと判断されれば、命令の効力を争う余地もあります。双方のリスクを理解した上で、ご自身の意思を選択してください。」

 

これらを説明することは、判断の代行ではありません。専門家として最低限引き受けるべき「情報の公正な提供」です。

 

3.なぜ人事だけが沈黙を許されないのか

人事は、労使双方の制度情報と運用実態が集積する、情報非対称性の結節点に位置しています。労働者は制度の全体像を知らず、経営は個別の生活実態を十分に把握していません。 その両方を知り得る立場にある者の沈黙は、中立ではなく、結果としてもっとも強い影響力を行使してしまう「行為」です。

 

だからこそ、人事には「語らなかったことの結果に対する責任」が生じます。
その結果責任は、抽象的な規範の問題にとどまりません。

 

さらに深刻なのは、その沈黙の積み重ねが、人事部門そのものへの不信として可視化されている点です。

 

現場では、「人事部のメンバーに対して本音を話すことに抵抗がある」「面談での発言や態度、様子が上司や周囲に伝わるのではないか」といった声が少なからず聞かれます。これは、個々の人事担当者の人格評価の問題ではありません。

 

判断の前提条件を語らず、「経営判断だから」と沈黙してきた結果、人事が何を知っていて、何を語らない存在なのか分からない組織になってしまった。その帰結として、施策を提供する組織への信頼が、労働者側に十分に浸透していないのです。

 

一般的教示義務とは、この信頼の断絶を前提に免除されるものではありません。むしろ、信頼が失われているからこそ、沈黙ではなく可視化を選び続ける専門職責任が、いっそう強く要請されるのです。

 

4.判例・実務・倫理という三層構造

一般的教示義務を「三層構造」で整理したいと思います。

 

第一層:判例・法令(外せば違法・敗訴に直結する)

 

第二層:実務慣行・ガイドライン(軽視すれば紛争や炎上を招く)

 

第三層:専門職倫理
――「この判断は誠実か」「長期的に社会からの信頼を損なわないか」と自らに問い返す視点です。

 

一般的教示義務は、この第三層に位置づけられます。たとえ法令が明示的に義務づけていなくとも、専門職である以上、みずからに課すべき内在的な自律規範だからです。そこに求められるのは、社会から託された信頼に即したふるまいであり、言い換えれば、専門職としての良心に基づく職業遂行にほかなりません。

 

5.教示義務を果たさなかった世界

もし、人事が「経営判断だから関与しなかった」と言い続けた結果、深刻な紛争が生じたとき、裁判所や世論はこう問うでしょう。「そのとき、人事は何をしていたのか」と。法的責任を免れたとしても、専門職としての信頼は回復しません。

 

おわりに――判断を代行しないが、判断から逃げない

人事専門職は、経営の代弁者でも、労働者の代理人でもありません。しかし、「中立」という言葉の陰に隠れて沈黙する存在でもありません。「中立」という幻想を捨て、教示義務を果たすことは、一時的に組織内に摩擦を生むかもしれません。しかし、その摩擦こそが行き過ぎた経営(使用者)による労働法上の権利濫用や公序違反への健全なブレーキとなります。

 

実際、勇気を持ってリスクを可視化し、当事者双方に誠実な情報開示を続けた人事担当者は、後にこう語ります。「あの時、反対意見を言ったことで、最初は経営陣から煙たがられた。しかし、数年後に同様のトラブルで他社が炎上した際、社長から『あの時止めてくれて助かった。君の言うことは信頼できる』と言われた」と。

 

判断を代行しないことと、判断から逃げないことは両立します。その緊張関係の中にこそ、人事専門職の真の価値があります。沈黙しないことを要請される職責を引き受けるか否か。それが、事務屋で終わるか、プロフェッショナルとして生きるかの分水嶺なのです。

 

また、そうした「人徳ある人間」から「社徳ある企業」が生まれ、「徳のある国家」(有徳国家)が誕生します。なぜなら、企業の意思決定は個々人の価値判断の積み重ねによって形づくられ、その判断の質が、組織の姿勢として社会に表れるからです。

 

次に「経営判断だから」と言いそうになったとき、その前提条件は、本当にすべて共有されたのか。それを問い返すことから、今日の仕事は始まります。

 

その選択は、今日、この瞬間から始まっているのです。

 

【完】

このコラムを書いたプロフェッショナル

及川 勝洋

及川 勝洋
一般社団法人地域連携プラットフォーム シニアリサーチャー

制度や理論を現場で機能させることを一貫して追究。学術研究と実務の知見を架橋し、人材育成・キャリア形成を横断的に探究。人事施策を実装可能な形に翻訳し、個人の納得感と組織の持続的成長を支える伴走者。

制度や理論を現場で機能させることを一貫して追究。学術研究と実務の知見を架橋し、人材育成・キャリア形成を横断的に探究。人事施策を実装可能な形に翻訳し、個人の納得感と組織の持続的成長を支える伴走者。

得意分野 法改正対策・助成金、労務・賃金、キャリア開発、資格取得、法務・品質管理・ISO
対応エリア 全国
所在地 志木市
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