人事に活かす脳科学
- 枝川 義邦氏(早稲田大学 研究戦略センター 教授)
近年は「ニューロ・マーケティング」など、マーケティング分野での活用が進んでいる「脳科学」。この脳科学を人事にも応用していこうという動きが活発化している。本セッションでは、社員のモチベーションを高める方法や、ストレス・マネジメントに効果的なレジリエンスの概念、さらにはそれらを生かしたサステナビリティ・マネジメントの考え方などを、脳神経科学と経営学をクロスさせた研究で知られる早稲田大学・枝川義邦教授が詳しく解説。参加者によるワークショップやディスカッションなどもあわせて行い、脳科学を人事にどう活かすかを立体的に考える場となった。
(えだがわ よしくに)東京大学大学院薬学系研究科博士課程を修了して薬学の博士号、早稲田大学ビジネススクールを修了してMBAを取得。早稲田大学スーパーテクノロジーオフィサー(STO)の初代認定を受ける。研究分野は、脳神経科学、経営学、研究マネジメント。早稲田大学ビジネススクールでは、経営学と脳科学とのクロストークの視点から『経営と脳科学』を開講。一般向けの主な著書には、『「脳が若い人」と「脳が老ける人」の習慣』(アスカビジネス)、『記憶のスイッチ、はいってますか~気ままな脳の生存戦略』(技術評論社)、『「覚えられる」が習慣になる! 記憶力ドリル』(総合法令出版)など。
第一部:脳科学を「モチベーション」に活かす
「脳科学」をテーマにしたこの日のセッション。枝川氏が最初に切り出したのは、脳科学と心理学の違いからだった。
「心理学はざっくりいうと、心の学問。基本手法は観察です。人間というブラックボックスに対して、どういうインプットがどんなアウトプットになるかを見ていきます。それを繰り返すことで、心の働きがわかってくるわけです。一方、脳科学は、脳の内部でどういう情報処理が行われているのかを調べる学問。心理学ではブラックボックスだった部分が少し透けて見えてきます。最近は、この両分野をオーバーラップさせて研究することも増えてきました。今日も、心理学の話と脳の内部がどうなっているのかという話を交えて進めます」
こう前置きした枝川氏が、まず取り上げたのが「モチベーション」だ。人事にとっても、従業員のモチベーションアップは日常的に取り組んでいるテーマの一つだろう。モチベーションの高い人と低い人の違いとは何なのか。枝川氏は「新入社員を対象にした調査事例」のスライドを用いながら、その違いを詳しく説明した。
「モチベーションの高い人と低い人では、考え方のサイクルがまったく異なります。これを応用すれば、人事としてモチベーションが上がるような仕組みを社内に作っていくことも可能でしょう」
たとえば、不満につながるような環境要因をなるべく解消する。また、成長感や適職感を覚えられるようにコミュニケーションをとる。自らを客観的に見られる機会を人事施策としてつくっていく……。そのような取り組みにより、モチベーションが高まるサイクルへと意識的に変えていくことは可能だという。
「働くモチベーションに関して、おもしろいデータがあります。一般社員から部長くらいまでは、やはり『給与』が一番大きなモチベーションです。ところが、役員や経営者になると給与はもはやモチベーションを上げる要因ではなくなります。すでに高給をもらっているからでしょうか。一般的に年収がある一定のラインに達すると、それ以上給与が増えても満足感はあまり変わらないことが知られています。給与に替わってモチベーションの原動力になるのは、自身の成長実感などです」
ここまでの話で、「モチベーション」と「欲求」には深い関係があることがわかった。
「それはモチベーションという言葉の成り立ちからも明らかです。モチベーションの英語を分解すると『モチーブ(動機、目的)』と『アクション(行動)』になります。結果が欲しいという欲求があるから行動を起こす。その行動を起こすときのスイッチがモチベーションなのです」
これまで、人事にとってもなじみ深いハーズバーグ、マズローといった著名な心理学者たちが、モチベーションと欲求の関係を研究している。いくつかの理論をわかりやすく説明した後、枝川氏はこう語った。
「こうして見ていくと、どの理論も非常に似ていると思いませんか。いずれもモチベーションの原動力となる欲求をいくつかの『段階』にわけて説明しています。実はこれらは、脳科学の観点からも証明されていることなのです。
脳科学では、脳の構造に基づいて『本能』『感情』『理性』を司る領域があり、それぞれの段階に応じた欲求を持っているという説があります。お腹が空いたといった本能的な欲求から、自己実現や承認欲求といった高度な欲求まで。これが理解できると、一人ひとりがどの段階の欲求をモチベーションにしているのかがある程度わかってきます」
人間の欲求にさまざまな「段階」があるのは、脳の構造に起因している。本能的な欲求が満たされていないときは、まずそれが不満要因になる。しかし不満要因がなくなれば、今度はより高度な欲求を満たしたい、というモチベーションが高まってくる。
「どの段階の欲求がモチベーションになっているかがわかれば、対策がとれます。モチベーションアップのターゲティングです。こうした考え方をマーケティングに応用したものが『ニューロ・マーケティング』なのです」
しかし、この考え方だけに頼ってインセンティブ設計を的確に行うのはそう簡単ではない、と枝川氏は言う。それがよくわかるのが、アメリカの心理学者・デシが行った実験だ。
実験は、ボランティア作業をやってもらい、途中から報酬(インセンティブ)を与えるというものだった。最初は自発的にボランティアに取り組んでいても、報酬をもらうようになってからは、ボランティアが「仕事化」したことで急速にモチベーションを下げていったという。
「この実験を理論的に説明すると、内発的モチベーションで行っていた作業を、インセンティブを出すことによって外発的モチベーションへとデモチベーションしてしまった、ということ。このように的確なインセンティブを設定することはなかなか難しい。やる気のスイッチは、人それぞれで多様です。その人がどっちを向いているのかを正しく知らないと、モチベーションアップは不可能です」
続いてモチベーションとコミュニケーションについてのグループワークが行われ、各自がワークシートでチェックした後にグループでのディスカッションを通じて、日常は意識に上りにくいコミュニケーションを見なおす貴重な体験をしていた。
第二部:脳科学を「ストレス・マネジメント」に活かす
続く「ストレス・マネジメント」の説明に入る前に、枝川氏は「ストレスとは何か」について語った。一般的には気持ちの負担になるようなネガティブな情報や状況をさすことが多いが、脳科学では「脳への入力」はすべてストレスなのだという。
ここで、脳での情報処理とストレスの関係に関する、興味深い研究結果が紹介された。その一つが「マインドセットに依存した脳活動の変化」だ。
「脳と心の関係は、今も解明されていません。科学的には、脳の働きがあってそれが心の動きになる、という考え方が一般的。一方、心や気の持ちようによって、逆に脳の働きが変わってくることも実験で示されています」
有名な二大ブランドのコーラの銘柄を隠して試飲させたときと、銘柄を見せながら試飲させたときでは、感じるおいしさが違ったというのだ。
「味わっているときの脳の反応性を調べると、ブランドを明らかにして試飲させたときには特徴的な活動をしていました。つまり、ブランディングの成果として、味覚での感じ方までも変えてしまったことが考えられるのです」
つまり、同じ刺激を受けても、気の持ちようで脳や身体の反応は変わる、ということだ。この知識を「ストレス・マネジメント」に応用すれば、強いストレスを受けても、身体や心の負担にならないように持っていくことが可能になる。
「ストレスがあると身体反応として、血圧が上がり、心拍や呼吸、脈拍なども速くなります。これが長く続くと健康上よくないのですが、見方を変えれば、短期的には身体がプレッシャーに対応するように反応しているのだともいえます。いわば活力が高まった状態。ですから、場合によっては喜びや勇気を感じることもあるのです」
ストレスを不安や負担ではなく、活力に変えていこうとするときに大事なのが「レジリエンス」だ。レジリエンスとは、「しなやかで強い心の働き」のこと。日本ではショックやトラウマから回復していくことが課題となった東日本大震災以降、特に注目されるようになった。
「レジリエンスには、さまざまな定義がありますが、柳の枝のようなしなやかな強さ、折れない心といっていいでしょう。ピンチをチャンスに変える、あるいは壁を受け入れ、乗り越える力ともいえます」
では、レジリエンスを高めるにはどうしたらいいのだろうか。その中核になる尺度が「セルフエフィカシー」だ。日本語では「自己効力感」と訳される。これからやろうとすることに対する、自信のようなものだ。モチベーションが「やる気」ならば、セルフエフィカシーは「自分が出来る」とその気になるときの「その気」といえるだろう。これが高いほどレジリエンスは高まっていく。
ここで二度目のワークが行われた。セルフエフィカシーの概念を提唱したカナダの心理学者・バンデューラが作った「セルフエフィカシーについての質問表」を使用し、一人ひとりが自分のセルフエフィカシーを測定していく。いくつかの質問にチェックを入れていくだけなので、数分間でできてしまう。
各人の点数について説明した後、枝川氏は、セルフエフィカシーに影響する要素について説明した。
「セルフエフィカシーは日々、状況によって変化します。点数が低めの人は挑戦しないので、機会損失につながる傾向があります。逆に満点など点数が高すぎる人も、それはそれで自己の成長にはつながりません」
枝川氏によると、セルフエフィカシーが高いタイプは、いくら失敗しても心が折れない傾向にあるという。
第三部:脳科学を「サステナビリティ・マネジメント」に活かす
モチベーションの高い状態をいかに維持するか。それが「サステナビリティ・マネジメント」だ。人事としては、ぜひ知っておきたいポイントだろう。
脳科学の観点からいえば、モチベーションを高めるには「これをしたら報酬がもらえる」と思えることが重要になる。的確な報酬は人それぞれだが、いずれにしても「報酬がもらえる」と思ったときに脳内に出る物質ドーパミンがモチベーションのスイッチになるからだ。
では、もっともよくドーパミンが分泌されるのはどんな状況か。
「ドーパミンは目標をクリアしつつある、まさにその瞬間に出ます。そして、成功率が約50%のときにもっとも多く分泌されることもわかっています。つまり、目標は高すぎても低すぎてもいけません」
それならドーパミンをどんどん出し続けていけばいい、と思うかもしれない。しかし、実際はそう簡単な話ではない。枝川氏によると、ドーパミンを放出する神経細胞は「飽きてしまう」からだ。同じような報酬が続くと、出なくなってしまうのだ。そんなときにはいわゆるサプライズが有効だが、それでも限度がある。
「脳活動をベースにサステナビリティ・マネジメントを考える場合、ドーパミンだけでなく、ノルアドレナリン、セロトニンという人間の脳の働きを司る主要な三つの物質を組み合わせてプランを立てることが有効です」
ノルアドレナリンはストレスに対する反応で出る物質で、集中力などを高める効果がある。プロジェクト立ち上げなどのためにがむしゃらに働いているとき、脳内にはノルアドレナリンが大量に出ているはずだ。
事業の成長期には、報酬に反応するドーパミンを活かす施策が有効だ。目標に対して適切な報酬を設定していく手法は、「ゲーミフィケーション」の概念と通じるものがあるといえる。ドーパミンを軸にして高いモチベーションを保てるように、いかに「続ける仕組み」をつくるかがポイントだ。
安定期に入ると、ドーパミンに頼るやり方では限界が来る。その際に有効なのが癒しや安定の気分をもたらすセロトニンの応用だ。具体的には、居心地のいい職場環境をつくるなどして、なるべく「やめたくない」と思わせる「続く仕組み」に切り替えていくことがポイントとなる。
このように脳内での変化を知ることで、働きやすく、モチベーションの高い職場が作れるのではないか。
「人事に活かす脳科学」をテーマに開催した、今回の特別セッション。長時間にわたるセッションとなったが、参加された方々には、人事の仕事に活かせる数多くの学びや発見があったようである。
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