いま人事が取り組むべき「ポジションマネジメント」とは
人的資本経営を通じて、従業員からも投資家からも選ばれる企業へ
一橋大学大学院 経営管理研究科 教授
野間 幹晴さん
人的資本経営、エンゲージメント、ステークホルダー、CHRO、CFO、女性管理職、パーパス、ポジションマネジメント
人的資本経営への注目が高まる中、国内では統合報告書や人的資本レポートによる情報開示に加え、有価証券報告書で人や組織に重点を置いて発信する企業も増えています。これらの動きは、投資家を含めたステークホルダーの多くが企業の人的資本への関心を寄せている証左といえるでしょう。ステークホルダーから人的資本経営を高く評価されている企業にはどのような特徴があるのでしょうか。日本企業における人的資本の開示状況について分析・研究を進める野間幹晴さんは「人事だけでなく経営トップのマターとして取り組み、情報発信する体制が求められている」と語ります。実際の開示項目の状況や、エンゲージメント向上などの施策を企業価値向上につなげるヒントを聞きました。
- 野間 幹晴さん
- 一橋大学大学院 経営管理研究科 教授
のま・みきはる/一橋大学大学院商学研究科で博士(商学)取得。04年10月から一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、准教授を経て19年4月より現職。10年より11年までコロンビア大学ビジネススクール・フルブライト研究員。現在、金融庁金融研究センター特別研究員。『退職給付に係る負債と企業行動-内部負債の実証分析』(中央経済社、2020年)で第63回日経・経済図書文化賞受賞、日本会計研究学会太田・黒澤賞、国際会計研究学会 学会賞、日本経済会計学会 学会賞を受賞。他に、『業績予想の実証分析:企業行動とアナリストを中心に』(中央経済社、2024年)など。近年、「エンゲージメントと企業価値―緊急事態宣言発出のイベント・スタディ」『金融・資本市場リサーチ』(2022)、「人的資本開示の実態:2023年3月期有価証券報告書より」『金融・資本市場リサーチ』(2023)、「従業員エンゲージメントと企業価値―操作変数法による分析」(ワーキングペーパー、2024)等、人的資本に関連した研究を蓄積している。
人的資本開示の目的は、投資家と従業員
野間さんは、日本企業における人的資本の開示状況をどのように捉えていますか。
人的資本開示を契機として、日本企業が人材への投資や従業員エンゲージメントについて強い意識を持つようになりました。その結果、さまざまな施策が行われており、今後の成果が期待されます。実際に多くの企業で人的資本開示が行われ、課題点や改善策、他社比較などが分かりやすく開示されています。
ただ、企業ごとの人的資本開示の内容には、論点があります。たとえば、あるグローバル企業は海外駐在員の人数を開示しています。これは従業員のキャリアパスやグローバル人材育成の実態や考え方を示すという意味で意義があります。ただし、投資家にとっては価値評価に反映させるのが困難な情報です。
人的資本に関する開示情報が、投資家にとって有用ではない可能性もあるということですか。
はい。そもそも人的資本経営の議論は「投資家にどのような情報を開示すべきか」が端緒となっています。人的資本が、将来の利益やキャッシュフフローにどう結びつくのか。それが明確に開示されている企業を投資家は評価します。
投資家の観点に立脚すると、現状の人的資本開示の中には価値評価に反映させることが困難な項目も少なくありません。非財務情報、たとえば「エンゲージメントの向上」によって、どのようなパフォーマンス向上が見込めるのかを企業は伝えなければならないのです。投資家からの評価が高い企業では、非財務情報と財務情報の関連を明らかにしようとする試みが行われています。
もちろん、対従業員や対人材マーケットの観点で人的資本開示を捉えることも重要です。人手不足が進み、人材の争奪戦になりつつある日本で、人的資本の実態や戦略、将来のあるべき姿を開示することは経営の必須課題でしょう。企業の無形資産である人的資本について、どのように考えているか。この情報が働き手にとっての重要な判断材料となることは間違いありません。ただ現状では、人的資本開示の目的が対従業員に傾きすぎている傾向も見受けられます。
DE&Iの取り組みはどんな将来につながるのか?
企業には「仮説や考え方」を提示する努力が求められる
人的資本開示を進めている企業では、実際に投資家からCHROや人事部門トップに対して「非財務価値がいかに財務価値を向上させるのか」といった問いを投げかけられるようになったと聞きます。こうした問いに対して、企業はどのように答えていくべきでしょうか。
「人的資本の開示目的」を改めて考えるべきでしょう。CHRO(最高人事責任者)は従業員を意識し、CFO(最高財務責任者)は投資家を意識しているのではないでしょうか。企業が開示する人的資本に関する情報は、投資家と従業員という二つの対象をターゲットとしています。投資家と従業員、それぞれが求める情報開示への対応は、企業内でミッシングリンクになっていることが多い。
経営者は投資家と従業員を二項対立として捉えているわけではありません。経営側が両者に向けた視点を統合する必要があるでしょう。その上で、投資家に対しては人的資本がどのように将来の利益につながるのかを明確にしなければなりません。
こうした取り組みの必要性は、業種や事業内容によって異なりますか。
そうですね。業種や事業内容によって人的資本が将来の利益に結びつきやすいこともあれば、逆もあると思います。たとえばITやソフトウェアの業界の中には、社員の増加によって、売上や利益の拡大につながる企業もあります。一方、製造業では社員の人数を増やしたからと言って、成長につながるとはいえないかもしれません。
先進的な企業では、人的資本がいかに将来の利益に結びつくかを事業内容に拠らない部分で伝えようとしています。味の素のケースは好例といえるでしょう。人的資本がどんなアウトカムにつながるのか、なるべく定量的に相関関係を表現しようとしています。
こうした定量的な開示も必要ですが、それができないとしても、企業側の仮説や考え方を提示することは必須ではないでしょうか。人的資本が自社の戦略の独自性にどうつながるのかを示し、投資家を納得させなければいけません。たとえば「ITパスポートの取得状況」を開示するなら、これが将来的に自社の変化にどのようにつながるのか、仮説や考え方を語る必要があります。
DE&Iなどについても同様です。多様性を高めることは自社にとってどんな意味があるのか。多様性が高まると、マネジメントの負荷が高まることもあります。それも考慮した上で、自社にとってなぜ必要なのかを伝えなければいけません。
投資家から高く評価される企業では、人的資本が「トップマター」となっている
投資家に高く評価されている企業には、どのような特徴がありますか。
「人的資本についての語り手がCHROだけではない」ケースが多いですね。CFOも積極的に人的資本について発信しています。
海外の機関投資家が期待するCFOと、実際の日本企業のCFOの間にはギャップがあります。誤解を恐れずにいえば、日本企業のCFOは経理・財務の担当役員で、経営戦略や経営企画については担当していないことが少なくありません。企業によっては財務担当と経営企画担当の役員が別れているケースもあります。これに対して米国企業では、CFOが財務だけでなく、経営戦略についても責任をもちます。
CHROもCFOも大切な役割ですが、企業内でサイロ化している傾向があるのは問題ではないでしょうか。本来は業務範囲が明確に分割されることはないはずなのに、人事と経理・財務が分かれてしまい、それぞれで分業されています。社内コミュニケーションを統合し、経営陣がどの立場からでも人的資本を語れるようにするべきでしょう。
人的資本経営や人的資本開示の先進企業では、経営陣のコミュニケーションが統合されています。これらの企業の特徴を見ると、人的資本に責任を持っているのはCHROやCFOではなくCEO(最高経営責任者)です。担当役員の管掌ではなく、トップマターとして経営の本丸に位置づけていますね。「人」は経営にとって最も重要なだからこそ、人事だけではなく経営そのものの課題となります。
では、これからの人事はどんな役割を果たしていくべきなのでしょうか。
変革を成し遂げた日本企業、たとえばソニーや富士フイルムなどには共通して優れたCFOがいます。「優れたCFO」とは、財務担当役員であると同時に、事業を熟知していること。CHROにも同じことが求められるのではないでしょうか。
CFOに経営戦略や事業や人への深い造詣が求められるのと同様に、これからのCHROには、企業価値や経営戦略、そして事業に対する深い理解が求められます。こうした論点について、CHROが投資家と対話する機会もますます増えていくでしょう。
女性管理職比率とPBRに正の相関を確認
「女性管理職比率が低い企業には投資しない」という判断が増える可能性も
野間さんは、2023年3月期から有価証券報告書で公表されるようになった「女性管理職比率」などについての分析も進めていますね。
全上場企業について分析したところ、次の2点が明らかになりました。
一つは銀行業やサービス業などで女性管理職比率が高いのに対して、鉄鋼業や建設業では女性管理比率が低いこと。高い産業と低い産業を比べると、企業の個別努力に加えて、銀行業やサービス業などの4年生大学を卒業した人が多くいる業界では女性管理職比率が高く、大学院卒の人が多い業界は低いことが確認されました。
DE&Iの論点では、日本企業のみならず、日本の社会構造全体の問題を反映しているといえます。かつて、理系の大学院卒は圧倒的に男性がマジョリティでした。「リケジョ」が注目されるようになった昨今でも、男性が多い状況は変わっていません。ここにはまだ改善の余地があるのではないでしょうか。
また、女性管理職比率とPBR(株価純資産倍率)の関係についても分析を行いました。その結果、女性管理職比率とPBRには正の相関関係があることが明らかになりました。この結果に対する解釈とインプリケーションを考えることが重要です。
どのような解釈が考えられるのですか。
執行役員レベルで女性が多い企業は、果断な意思決定を行います。その背景には多様性を受け入れている、もしくは多様性が実現している組織があることが考えられます。開示されてから2年しか経過していないため、女性管理職比率とPBRの因果関係については検証できていませんが、果断な意思決定やオープンな組織風土がPBRに影響していると考えられます。
女性管理職比率とPBRに正の相関があることについては、私の分析以外でも確認されています。今後、投資家側では「女性管理職比率が低い企業には投資しない」という判断を下すケースが増えていくでしょう。
仕事や会社への「没入感・没頭感」を高めるためには、従業員が腹落ちできる価値を提示すべき
ここからは、多くの企業が人的資本経営の重要項目と位置づけている「エンゲージメント」についてうかがいます。野間さんはエンゲージメントをどのように定義していますか。
一般的には、会社に対する従業員の「熱意」や「愛着」などと訳されることが多いですね。従業員が会社とともに成長していくための精神的なつながりや絆と定義する企業もあります。ただ、これらはコンセプトとしては理解できますが、ややわかりにくいと思っています。
そこで私は、エンゲージメントを「没入感・没頭感」と定義しています。
ゲーム開発ではエンゲージ・アビリティというコンセプトがあります。ユーザーがどれくらいゲームに没入・没頭しているかを議論するためのコンセプトです。このコンセプトを従業員エンゲージメントにあてはめ、従業員が仕事や会社にどれくらい没入・没頭しているかを測ることができれば、エンゲージメントをより有効な指標として活用できるのではないでしょうか。
人的資本の開示項目として、なぜエンゲージメントが重要なのでしょうか。
日米の企業が抱える文脈から考えれば分かりやすいと思います。米国は労働市場の流動性が激しく、エンゲージメントが低い企業ではすぐに人が退職してしまう傾向にあります。世界最大の資産運用会社であるBlackRockがコロナ禍に行った調査では、「エンゲージメントが低い企業は企業価値も低い」とされていました。米国企業にとって、エンゲージメントを高めることは人材流出を防ぐための重要課題なのです。
対して日本企業の場合は、労働市場の流動性が低く、従来は終身雇用制度が確立していました。終身雇用であるがゆえに従業員の退職リスクが相対的に低く、経営側が精神的なつながりや没入感・没頭感を意識する必要はなかったといえます。ただ、退職率が低いことによって、高いパフォーマンスを発揮できない人材が高待遇で居残ってしまう問題もありました。結果、意欲的な若手に悪影響をもたらし、組織全体のエンゲージメントが低下してしまっていました。
これまでの日本の雇用慣行を踏まえた上で、どのようにエンゲージメントを高めるのか。これが日本企業の直面している課題です。
エンゲージメントを高めるために、企業は何をすべきでしょうか。
働き方一つとっても、個人が求めるスタイルは多様です。定時で帰りたい人もいれば、上司や先輩に認められるために長く働きたいと考える人もいるでしょう。そうしたさまざまなニーズに応えるとともに、自社がどのような働き方やキャリアパスを提供できるかを提示しなければなりません。それに対して共感する従業員を集めることが、結果的に強い企業となることにつながります。
経営の軸を改めて考え直すべきです。自社はどんな価値を社会に提供しているのか、パーパスを明確にし、それに共感する従業員を集めていくということです。
パーパスについてはすでに多くの企業で明確にされていると思いますが、見直しが必要となるケースもあるのですか。
はい。パーパスを策定した後に、その浸透方法を課題に抱える企業が多いですね。「どのようにしてパーパスを浸透させればよいか」という点に頭を悩ます経営者も少なくありません。「浸透」という表現が、経営側の用語であることに気づかなければ、パーパスは浸透しません。一方、従業員側にとって重要なのは、そうしたミッションなどが「腹落ち」できるかどうかです。この言葉の違いにギャップがあると考えています。
ソニーのパーパスは外部からも評価され、従業員の間でも腹落ちしています。創業者の時代から大切にされていた価値観を今の言葉に置き換え、分かりやすく表現しているため、経営側から見れば浸透しやすく、従業員側から見れば腹落ちしやすい言葉となっているのです。
パーパスを見直す際には、企業が歩んできた歴史や、明文化されていない風土などを反映することも大切です。歴史のある大企業では、創業者が残した言葉だけが残っているケースもあるのではないでしょうか。一見すると「今の時代には合わない」と感じるかもしれませんが、創業者が当時、どんな背景でその言葉を発したのかを考えると、今の時代にも通じる部分が見つかることもあります。
「タレントマネジメント」と「ポジションマネジメント」を両輪で回すことが人事本来の役割
人的資本経営を実践する上で、これからの企業や人事部門には何が求められるのでしょうか。
人的資本経営は、従業員の観点からはキャリアプランにつながり、投資家の視点からはサクセッションプランにつながります。いかにして人を育て、従業員の希望を実現し、将来の利益につなげていくか。その覚悟が求められていると思います。
この文脈ではタレントマネジメントの話題になることも多い。それも大切ですが、私はポジションマネジメントと両輪で回していくことが必要だと考えています。
ポジションマネジメントとはどういったものでしょうか。
戦略を実現するためにはどんなポジションが必要か、そのポジションにはどんなスキルが求められ、戦略実現のために何人必要なのか。こうした組織全体のあるべき姿をマネジメントすることです。
ポジションマネジメントは戦略と組織の一貫性が求められ、組織変革につながるため、難易度が高いです。このため、タレントマネジメントが先行してしまいがちなのですが、本来は同時に検討すべきです。
旧来のタレントマネジメント中心の人事部門は、新卒一括採用を前提とした日本の雇用慣行に縛られていたのかもしれません。グローバル化している先進企業ではポジションマネジメントを重視していますし、社内にリソースがなければ外から採用することが標準的になりつつあります。
経営陣からしてみれば、「マネジメントを担ってほしいのに、人事しかやっていない人事部」には不満があるかもしれませんね。人事に期待されていることは労務管理と育成だけではありません。期待されているのは、組織デザインを踏まえたポジションマネジメントであり、これは経営そのものです。
従来の「人事」から脱皮し、経営そのものを担う人事となる。それが従業員から見て魅力的であり、投資家からも評価される企業になるために欠かせません。人的資本への関心が高まっている今は、人事が新たな存在感を発揮するための絶好機なのです。
(取材:2024年8月8日)