人的資本経営が抱える「壁」や「困難」への向き合い方
日本の企業運営のあり方を変えつつある、人的資本経営。ただし、明確な進め方があるわけではありません。正解がないだけに、人的資本経営を進めるうえではさまざまな困難が伴います。中には、壁として感じてしまう部分もあるでしょう。人的資本経営を進める企業の前に立ちふさがる壁や困難と、その向き合い方を解説します。
そもそも人的資本経営の定義が難しい
経済産業省は、人的資本経営を「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値につなげる経営のあり方」と定義しました。これにより人材は単に消費されるコストではなく、企業の価値向上を実現するための鍵となる存在だと、多くの人事が認識しています。
ただし、「あなたの会社にとって人的資本経営とは何か」との問いを投げたかけたときに、返ってくる答えはさまざまです。企業によって発揮したい価値や、どのような人材が活躍するのかが異なるからです。
人的資本経営を推進するにあたり、まず「自社の人的資本とは何か」「人的資本経営を自社に落とし込んだ場合どうなるのか」といった疑問が浮かぶことでしょう。しかし、他社の人的資本と自社の人的資本が異なる以上、他社の完全な模倣は難しく、成功事例もまだ少ない状況です。そんな中で、自社の人的資本経営を定義することが困難だと感じている企業が目立ちます。
自社に徹底的に向き合う
「自社の人的資本とは何か」がはっきりしないまま他社の取り組みを模倣する、あるいはステークホルダーから求められている情報開示項目のみ開示するといった姿勢は、本質的な人的資本経営とはいえません。いま業界はどうなっているのか、自社の立ち位置や今後取るべき選択とはどのようなものか、自社の強みや弱みとは何か、自社で活躍するのはどのような人材かといった「自社の現在」に徹底的に向き合うことが、人的資本経営のスタート地点です。これらを明確にするまでは、人的資本経営を進めることはできません。
他社のまねはしない
「他社と横並びの人的資本経営を行えばよい」と考えている企業もあるようです。しかし、他社を参考にしたり、他社と比較できる情報を開示したりすることも重要ですが、あくまで重要なのは「自社だけの人的資本経営」です。人的資本経営とは、決してゼロからスタートするものではありません。これまで企業が培ってきた歴史の延長線上にあるものであり、既存の強みを生かしていく姿勢が必要です。
フレームワークを活用する
人的資本経営を始めたいが、何から始めていいかわからないときは、さまざまなフレームワークを活用することも一つのポイントです。たとえば経済産業省の「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書~人材版伊藤レポート2.0~」では、人的資本経営を進めるうえで必要となる「3つの視点と5つの要素」を明示しています。
3つの視点とは、「経営戦略と人材戦略の連動」「As is -To beギャップの把握」「企業文化の定着」。この中でもまずは、経営戦略と人材戦略を連動させることが重要だとしています。経営戦略と人材戦略の連動は当たり前だと感じるかもしれませんが、現実にはそうではない例も多くみられます。具体的には、経営戦略が時代の流れの変化に合わせて変わっているのに、人事戦略がこれまでの慣行を踏襲しているため、求められる人材と既存の人材に乖離が生じている、人材からするとどう考えても実現が難しい経営戦略を立てている、といった事態が生じています。
5つの要素とは、「動的な人材ポートフォリオ」「知・経験のダイバーシティ&インクルージョン」「リスキル・学び直し」「社員エンゲージメント」「時間や場所にとらわれない働き方」です。人材版伊藤レポートでは、各要素についてさまざまな具体例を紹介しています。自社の人的資本経営を定義・推進するうえで、必ずしもすべての要素を採り入れる必要はありませんが、視点の抜け漏れがないかといったチェックリストとしての活用が期待できます。
コストや人材の余裕がない
人的資本経営を進めるうえでは、新たな人材戦略や育成プログラムの策定、場合によっては外部講師による研修などを実施することもあります。自社の状況を可視化したり分析したりするために、HRテクノロジーを導入するケースもあるでしょう。多様性の確保を目指して、働き方や環境を再整備する必要性が生じることも考えられます。このような育成プログラムの展開やHRテクノロジーの導入、環境整備には、少なくない費用がかかります。
また、人的資本経営の先導役として、事業について深く理解し、自社の従業員の成長がどのように企業の成長につながっていくのかを描くことのできる人材が必要です。しかし、そのような人材はそう簡単に育成できません。戦略に基づいたさまざまな施策を実質的に推進するのは、多くの場合、中間管理層ですが、労働政策研究・研修機構の「労働時間の研究―個人調査結果の分析―」では、課長職の60%程度が「マネジメント時間が足りない」と回答。多くの企業で推進役を担うミドルマネジメント層に余裕がないことがわかります。
人的資本経営は、投資して成長した人材が事業をけん引することで企業が成長していくことを目指すものであり、事業への投資と違って直接的な利益を生み出すものではありません。そのため、コストや人員の面から人的資本経営の実践を躊躇するケースが多くの企業でみられます。『日本の人事部』の「人事白書2023」では、「戦略人事を人的資本経営と連動させる取り組みを行っている」と回答した企業は10.2%にとどまっており、「行いたいができていない」との回答は44.6%となっています。
従業員規模別にみると、従業員規模5001人以上の大企業では「行っている」(25.9%)、「行いたいができていない」(48.1%)を合わせて7割以上と、多くの企業が人的資本経営と戦略人事の連動に意欲をみせています。一方、「行っていない」との回答は従業員規模の小さい企業ほど割合が高く、1~100人の企業では51.4%と過半数を占めています。上場企業であれば人的資本情報を開示することが法的にも義務付けられていますが、義務がない中小企業では、人的資本経営を実践していないケースがさらに目立ちます。
人的資本経営は「従業員のため」ではなく「企業の価値向上のため」と意識する
実際に人的資本経営を推進する場合、コストがかかることは間違いありません。人的資本経営の推進が強制ではない以上、実施しないという選択肢もあります。しかし、人的資本への投資は「従業員のため」ではなく、「企業の価値向上のため」に実施するものです。また、人的資本経営を推進しなければ人材が育たず、他社と比べて事業の推進力が低下し、従業員や投資家といったステークホルダーから低い評価を受けることになり、魅力的な人材も入ってこなくなる、といった悪循環に陥ることにもなります。
人的資本経営を推進すると決めたら、ある程度インパクトを持った費用と、人的資本経営に取り組むための人材を確保する覚悟がトップに求められます。また中小企業の場合、大企業よりも従業員一人ひとりの能力と業績が直結しやすい状況が多くみられるため、人的資本経営の推進は、大企業だけでなく中小企業にとっても意義深いものといえるのです。
HRテクノロジーなど、さまざまな手段を活用する
自社だけで人的資本経営を進めることが難しいときは、HRテクノロジーを導入したり、外部のコンサルタントに依頼したりするなど、自社の従業員以外のリソースを活用することも重要です。
外部のリソースを活用するとコストがかかりますが、例えばHRテクノロジーの場合、データ収集やデータ分析が短時間でできるようになったり、外部の人材はいまの自社内にはなかったさまざまな知見をもたらしてくれたりと、その効果は大きいものがあります。「導入にいくらかかるか」だけではなく、「導入した場合にはどのような効果が期待できるか」「導入しなければどうなるか」といった観点から、複合的に検討することが求められます。
経営陣と現場、人事の間で摩擦が生じかねない
これまでの企業運営では、経営陣が企業全体のかじ取り、現場が施策の運営、人事が人材育成といったように、それぞれの所掌の任務にのみ責任を負うケースが多くみられました。しかし人的資本経営では、経営戦略と人材戦略が密接に結びついていることから、必然的に経営と現場と人事が連携する必要が生じます。
その際、人事の立場からすると適正な投資でも、現場からは本業に割く時間の減少やコストの観点から否定的に捉えられるおそれもあります。また、そもそも経営陣の人的資本経営に対する意識が低ければ、どれだけ人事や現場が人的資本経営の重要性を訴えても、なかなか前に進まないこともあります。
トップが積極的に理解し、コミットする
人的資本経営を進めるうえでは、まず経営陣が人的資本経営の重要性を確信し、従業員に対して明確なメッセージを発信することが重要です。経営の後押しがあることで、人事が提案しただけでは現場が納得しないような施策でも、展開することができます。トップの人的資本経営に対する理解や関心が低い場合は、まずトップの意識を改革する必要があります。
人事が事業を理解する
トップが人的資本経営に関する決断を行うためには、人事から「自社の従業員にどれだけ投資すべきか」についての判断材料を示すことが重要です。つまり人事であっても、事業をある程度理解したうえで、ときには根拠となる数字を示しながら責任を持って経営陣と対話できなければなりません。そのため、ある程度企業規模が大きくなってきた場合は、CHROやHRBPの設置、事業部門と人事部の人事交流といった施策を行うことが効果的です。
データ収集・環境整備が難しい
「人材がどのように企業価値の発揮に貢献しているのか」を正確に表す際は、PBRやROEといった経営指標から従業員のエンゲージメントまで、さまざまなデータを用います。しかし、データが散逸・不足していたり、データを扱うツールやシステムが統一されていなかったりすることもあるため、データを収集・分析するには大きな労力が必要となります。また、自分の個人情報を会社が扱うことに、従業員が反発するケースも考えられます。
心理的安全性を高める
従業員の抱える不安を解消するには、そのデータが会社にとってどれだけ意義があるのかを示すとともに、現場や従業員にとってどれだけの意義をもたらすのかを丁寧に説明する必要があります。分析を行った結果は、経営陣や人事のみで囲い込むのではなく、現場や従業員にフィードバックしていくことが重要です。
HRテクノロジーを活用する
データを紙媒体やエクセルで管理すると、収集が大変なうえ、データを用いた分析が非常に困難になります。この課題を解決するには、データを集めやすく、分析もしやすいタレントマネジメントシステムなどのHRテクノロジーを導入することも一つの選択肢となります。
パーソル総合研究所の2022年の調査では、「人的資本情報を蓄積、活用するためのHRテクノロジーが導入できている」と答えた企業は3割ほどとまだ少ないものの、少しずつ導入が進んできていることがわかります。
本当に必要なデータを絞る
従業員数が多い企業ほど、「すべてのデータをそろえてから分析を始めよう」と考え、なかなか分析に至らないケースがあります。そんなときはすでに社内にあるデータの活用から始めたり、自社の企業価値の発揮のために必要なデータを優先的に収集したりするなどの工夫を行う必要があるでしょう。
実現までに時間がかかる
人的資本経営は、一朝一夕に成し遂げられるものではありません。あらためて自社を見つめ直して理想的な人材ポートフォリオを設定し、その実現に向けた施策の展開や制度の改革を進める。必要に応じて、組織文化の再整備まで行う。このような取り組みは、少なく見積もっても数年単位の時間が必要です。「人的資本経営が大きく事業に貢献した」といえるまでには、それなりの時間がかかるのです。
KPIを設定する
人的資本経営の実現に向けたKPIを設定し、そのKPIが達成されていれば、業績としてまだ表れていなかったとしても、「自社が変化しつつある」との実感を得ることができるでしょう。なお設定するKPIについては、自社の人的資本経営のストーリーに沿ったものとすることが求められますが、項目によっては情報開示の場面でも活用が可能です。
- 【参考】
- 非財務情報可視化研究会:人的可視化指針
従業員の生産性が一時的に落ちる可能性がある
人的資本経営を進めるうえでは、従業員に対して学び直しやリスキリング、越境学習など、これまでの業務にプラスして新たな取り組みを求めるケースも発生しがちです。勉強時間を業務内に組み込んだ場合、業務に取り組む時間が減少し、一時的に生産性が落ちる可能性も考えられます。
短期的な生産性の低下を受け入れる
従業員の業績が評価に直結している場合、新たに学びを得るための制度が組織にあったとしても、学びのために時間を割くことは評価の低下につながるため、従業員が積極的に学ぼうとしない可能性が高くなります。そのため、組織として一時的な生産性の低下を受け入れたり、学ぶこと自体を評価したりするなどの仕組みを構築することが求められます。
従業員の流動性が高まるおそれがある
人的資本経営に取り組むことで、組織の体制や制度が大きく変化する場合があります。わかりやすい例として、人的資本経営に注力する企業の中には、メンバーシップ型雇用からジョブ型雇用へと切り替える企業も出てきています。しかし、現行の制度を大きく変えることは、従業員にとって負担となり、抵抗を感じる従業員が出てくることも想定されます。
また、キャリア自律や新たな学びを重視する会社の姿勢についても、特定の従業員にとっては負担となったり、キャリア自律を高めたばかりに外部にさらなる可能性を見出してしまったりするケースも発生しがちです。せっかく従業員へ投資したにもかかわらず従業員が離職してしまうことに、警戒感を覚える企業もあります。
「何のための人的資本経営か」を腹落ちさせる
「上から押し付けられた人的資本経営」では、従業員はなかなか納得できません。もっとも重要なのは、自社の進める人的資本経営が「何のための人的資本経営なのか」を、従業員が腹落ちしている状態をつくりあげること。そのためにはトップやマネジャーからの情報発信や、上司との1on1などを実施し、人的資本経営の推進が企業の掲げる理念の実現にどのようにかかわるのか、またそれが従業員個人の希望の実現とどのようにかかわっていくのかを示すことが求められます。
取り組まない理由をなくす
HRテクノロジーを導入して最適化した学びを提供したり、勉強時間を業務の一環に含めて学ぶ姿勢を評価に入れたりするなど、従業員が人的資本経営に積極的に取り組むための動機付け・環境づくりを行うことで、従業員のモチベーションがより高まることが期待できます。培った知識については、実際の仕事の現場で実践させていくことも効果的。一定の基準を満たさない従業員を昇進の対象から外すなど、「取り組まない理由」を一つずつつぶしていくことも重要です。
組織内での流動性を高める
人的資本経営の推進は、従業員のキャリア自律を促進する効果もあります。しかし、せっかく自律心が高まっても、企業の中でその思いを発揮できる部門・ポジションで仕事ができなければ、その企業に見切りをつけてしまう可能性が高まります。そのため、社内公募制や社内FA制など、従業員の思いを実現するための環境を構築することが効果的です。
一定の流動性を許容する
転職が一般的になってきたいまでも、従業員の離職は好ましくないものと考える経営者や人事担当者も数多く存在します。しかし、従業員が自社に合わなければ、生産性が上がらなかったり、周囲に悪影響を与えたりするおそれがあります。
日本の労働生産性は他国と比べ低いことが指摘されており、その要因の一つとして人材流動性の低さが挙げられています。手塩にかけて育てた人間が離職することは一時的には損失ですが、長期的・大局的な観点から、ある程度の流動性を許容する姿勢も重要といえます。
思っていたような成果が出ない
膨大なコストと時間を必要とする人的資本経営ですが、長期的に取り組んできたにもかかわらず、望んでいた成果が得られないケースもあります。投資したコストに見合ったリターンが得られない可能性もあることは、人的資本経営に取り組むことを躊躇させる大きな要因となっています。
何に問題があったのかを突き止め、修正する
まず重要なのは、思うように成果が出ない原因を突き止めることです。そもそも経営戦略や人材戦略に無理があった場合もあれば、従業員の反発が予想より大きく、想定通りに進まなかった場合もあるでしょう。KPIの達成状況を確認し、重要なKPIや目標と大きな乖離があるところからその原因について分析し、てこ入れを行ったり、KPIひいては戦略自体の修正を行ったりする必要があります。
データが膨大すぎる
収集したデータを分析しようとしても、従業員のデータがあまりにも多すぎて、何から手をつけていいのかわからなくなることがあります。また、データ同士を分析すると必ず何らかの変数関係が出てきますが、その結果を解釈する作業に振り回されてしまうケースが発生することもあります。
データの本質を考える
データに対しては、「手持ちのデータをとりあえず分析する」「一定の仮説を立てたうえで分析する」という2つのアプローチが考えられます。どちらのアプローチも有効ですが、常に「なんのためにこのデータを活用しようと考えたのか」「この結果をどう活用したいのか」といった視点を見失わないように意識する必要があります。
開示が難しい
2023年3月決算以降、有価証券報告書を発行している企業約4000社に対し、人的資本情報の開示が義務付けられました。しかし、義務付けられているのは女性管理職比率と男性の育児休業取得率、男女間賃金格差といった項目にすぎず、ほかの項目が定められているわけではありません。そのため、「どのような情報を開示していいかががわからない」と困惑する声や、「他社と見劣りしないように開示すればいい」といった声も聞こえてきます。
フレームワークを活用する
人的資本情報を開示するにあたっては、人材版伊藤レポートや人的資本可視化指針、ISO30414といったガイドラインを参考にすることができます。たとえば人的資本可視化指針では、ストーリー性を意識しながら独自性・比較可能性および価値向上・リスクマネジメントの観点から開示することなどを述べています。ただし、各種ガイドラインに記載されているすべての開示項目を網羅的に開示する必要はなく、あくまで自社のストーリーに沿ったものを取捨選択する必要があります。
開示による効果を明確化する
情報開示が必要な理由は、自社の人的資本経営の取り組み状況を可視化することで、自社の現状を的確に把握するとともに、従業員や顧客、株主といったステークホルダーに自社を正しく評価してもらうためです。「その情報を公表するとどのように受け止められるか」については、ある程度公表前に考えておく必要があるでしょう。また、開示の影響を考えたうえで、どこまで公表するのかについては、取締役会や経営会議などで慎重に議論することが求められます。