人的資本経営の効果を増大させる「キャリア自律」
キャリア自律、人的資本経営、成果主義、ジョブ型雇用、エンゲージメント
人的資本経営には、従業員一人ひとりの成長を促し、生産性を高めていくことで企業全体の成長につなげていく狙いがありますが、個人が成長していくために欠かせない考え方が「キャリア自律」です。一方で、その重要性が提唱されはじめてからすでに数十年が経過しているにもかかわらず、日本では一般化しているとは言えません。キャリア自律とは何か、なぜ日本で進んでいないかを明らかにしたうえで、人的資本経営との関係や企業事例を紹介します。
なぜキャリア自律が重要なのか
キャリア自律とは
キャリア自律(Career Self-Reliance)とは、1990年代半ばにアメリカで提唱された概念で、個人が自らのキャリアと向き合い、環境変化に適応しながら主体的にキャリア開発に取り組むことを指します。その背景には経済不況によって解雇が広がり、組織に依存しないキャリア形成が求められるようになったことがありました。
キャリア自律は、企業主体によるキャリア開発と比べると、個人の自己理解や自己変容により焦点が置かれます。日本においてもバブル経済の崩壊後、「新卒で入社した会社に勤めていれば自然とキャリアアップし、賃金も上昇する」といった雇用の“常識”が瓦解したことから、キャリア自律が注目されるようになりました。
キャリア自律が求められる背景
成果主義やジョブ型雇用の導入
日本ではバブル崩壊以後、経済の低迷も相まって成果主義を導入する企業が増加しました。個人の生産性を向上させていくためには、一人ひとりが主体的に職務に臨む必要があります。近年注目が集まっているジョブ型雇用において個人がステップアップを果たしていくためにも、主体的に学び、継続的に行動していくことが欠かせません。
就労の長期化
2021年に改正高年齢者雇用安定法が施行され、65歳までの雇用義務ならびに70歳までの雇用機会確保の努力義務が企業に課されました。これにより、役職定年後の労働期間が延びたことによるモチベーションの低下や定年後の再就職など、ミドルシニア世代のキャリアに関する課題が増えています。世代を問わず、主体的なキャリア観を構築させることが求められているのです。
社会の変化と個人の多様化
世の中の変化が激しい昨今、これまでの成功体験に基づくキャリア開発だけでは、変化に対応していくことは難しいでしょう。個人の観点でも、ワークライフバランスを重視する傾向や副業・兼業を望む声が強くなるなど、価値観が多様化。この状況に対応するには、組織として一律の人事制度ではなく、従業員一人ひとりの主体性を尊重した施策を展開していく必要があります。
- 【参考】
- キャリア自律とは|日本の人事部
キャリア自律が進まない理由
これまでの日本企業では、メンバーシップ雇用制度のもと、企業が一方的に従業員を配置することが一般的でした。しかしキャリア自律を推進していくには、従業員自身が自分の将来像を描き、企業がその思いを受け止めて反映させる土壌が欠かせません。そのためには、ジョブ型雇用の推進や各ポジションの業務内容の明確化をはじめとする、抜本的な制度改革が必要です。ただし、これは企業にとって簡単な話ではありません。
では、従業員側はどのような状況にあるのでしょうか。独立行政法人労働政策研究・研修機構の調査によると、2015年時点での終身雇用を支持する人の割合は、調査を開始した1999年以降で最多となる87.9%で、年功賃金を支持する割合も76.3%と高い水準にあることが明らかになりました。この傾向は若者に限定した場合も同様で、学校法人産業能率大学総合研究所による2024年度の新入社員への調査によると、終身雇用を望む割合は68.2%、年功序列を望む割合は48.5%となっています。
ほかにもリクルートマネジメントソリューションズの2021年の調査では、若手・中堅社員の81.7%が「自律的・主体的キャリア形成をしたい」と答えている一方で、64.8%がキャリア自律を求められることに対して「ストレスや息苦しさを感じる」と答えています。従来型の終身雇用を前提とした画一的なマネジメントから脱却するのが難しい背景には、このように個人と組織双方にキャリア自律を阻害する要因があるのです。
人的資本経営とキャリア自律の関係
キャリア自律を推し進めることは、個人の持つポテンシャルを引き出し、その価値を高めることに寄与します。すなわちキャリア自律は、人材を資本と捉えてその価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値向上につなげる人的資本経営と強く結びつくものといえます。
2022年に発表された「人的資本経営の実現に向けた検討会報告書(人材版伊藤レポート2.0)」では、人的資本の最大化に向けて「個人も主体的に、そして自律的に変わり、会社も社員一人ひとりと丁寧に向き合い、多様性を大事にし、さらに高めるための支援や施策を推し進めてほしい」と記載。自律的なキャリア形成を推し進めるリスキル・学び直しや公募制、ストレッチアサインメントなどを推進していくことの重要性が取り上げられています。
キャリア自律のメリットとデメリット
キャリア自律推進のメリット
個人のパフォーマンス・エンゲージメントの向上
2021年にパーソル総合研究所が発表した「従業員のキャリア自律に関する定量調査」では、キャリア自律度が高い就業者は、パフォーマンスやワーク・エンゲージメント、学習意欲、仕事充実感が高く、人生満足度も高いとの結果が示されました。さらにこれらの項目に与える影響は、会社へのコミットメントや会社満足度よりも高いとの結果も明らかになっています。これらのパフォーマンスが高まることで、結果的に企業業績にも良い影響を与えることが考えられます。
優秀な人材の確保
キャリア自律を実現している企業は、従業員がモチベーション高く働いている環境が構築できていると考えられます。それは新卒・中途を問わず、採用の場面で優秀な人材への強いアピールポイントとなるでしょう。また、リテンションの側面でも高い効果を発揮することが考えられます。
デメリット
施策の導入・運用の難しさ
パーソル総合研究所の調査では、キャリア自律を促している要因として「組織目標と個人目標の関連性」に加え「処遇の透明性」「職務ポジションの透明性」などが挙げられています。日本企業でまだ根強く採用されているメンバーシップ型雇用は、透明性の担保の観点からはジョブ型雇用よりも相性が悪いものです。
また一旦従業員のキャリア自律を促す方向に舵を切ると、企業は従業員の主体性を尊重し、一人ひとりの思いを実現できる環境を構築し続けなければなりません。ポジションに限りがある中、一人ひとりの持つ思いにすべて応えていくのは困難であると言えます。
転職が増える?
「従業員のキャリア自律を推進すると、転職リスクが高くなる」という声も聞かれます。 人的資本経営を推進し、人材に投資したにかかわらず人材が流出してしまうことに、痛みを感じる企業は少なくないかもしれません。一方で、自社内でキャリア自律を高める施策を展開しなければ、自らキャリア自律を高めた優秀な人材が転職してしまうリスクは高いと言えるでしょう。
また同じ調査の中では、キャリア自律度と市場価値がともに高い人材の流出を防ぐには、社内での「昇進見込み」と「やりたい仕事ができる見込み」を与えることが重要との結果も示されています。キャリア自律を推進する際は同時に社内の制度を整備し、キャリア自律が高い人材にとって選ばれる会社づくりを意識する必要があります。
キャリア自律をどのように推進していくのか
ステップ1:方針の明確化・周知徹底
キャリア自律単体の施策を考えるのではなく、経営戦略と結び付いた人材戦略の中で、キャリア自律を位置づけることが求められます。また終身雇用、年功序列、メンバーシップ型雇用といった人事制度を採用している場合、いきなりキャリア自律の制度を導入すると、従業員が困惑してしまうおそれがあります。まずは自社の価値観や目指す方向性、従業員に対して望む姿を明確に示すとともに、トップからの発信や説明会、面談などさまざまな方法を駆使して、丁寧に周知していく必要があります。
ステップ2:施策の実行
次に、キャリア自律を促進する制度および施策を展開します。効果的な制度や施策は数多くありますが、一度にすべての制度・施策を導入することは困難です。自社の現状と目指すべき姿のギャップを基に、優先順位を付けていく必要があります。
制度 | 概要 |
---|---|
社内公募制度 | 人材を補充したい部署が社内から異動希望者を募り、従業員が自発的に応募する人事異動制度 |
社内FA制度 | 従業員にFA権を付与し、自ら希望部署への移動を申告する制度 |
兼業・副業の解禁 | 自社以外で業務に就くことを認める |
多様な働き方の推進 | フレックスやリモートワークなど、多様な事情を持つ人材が働きやすい環境を整備する |
セルフキャリアドッグ | 定期的なキャリアコンサルティングとキャリア研修を組み合わせ、従業員のキャリア形成を促進する |
キャリア自律研修 | キャリア自律に対する意識づけを行い、自らのキャリアを模索する機会を提供する |
リスキリング/学び直し | キャリアアップにつながる新たなスキルを獲得させる |
メンター制度 | 先輩社員が新入社員に定期的に面談を行い、サポートする |
アルムナイ | 一度退職した社員の復帰を認める制度 |
ストレッチアサインメント | 現状の本人の実力では達成が難しい業務にあえて取り組ませる |
HRシステム | タレントマネジメントシステムなど、従業員のスキルを可視化してキャリア形成を支援するシステムを活用する |
ステップ3:振り返り
施策の実行後は、その効果を検証する必要があります。エンゲージメントサーベイやHRシステムを活用して客観的に測定するとともに、1on1などの面談の場を通じて一人ひとりの思いに向き合うとよいでしょう。最終的には、展開しているキャリア自律施策が経営戦略の実現に向けてどのように貢献しているかについて検証します。
ステップ4:改善
個人および組織それぞれの目標と実態のギャップを見出したら、次にそのギャップを埋めていくにはどうしたらいいのかを考え、施策をブラッシュアップしていきます。このとき、上司は従業員一人ひとりのキャリア自律に期待を示し、従業員の持つ可能性を応援する姿勢を見せることが重要です。
企業例
三井情報株式会社
「社員のウェルビーイング向上と会社の持続的な成長」を人材マネジメントポリシーとして掲げる、三井情報株式会社。ポリシーを達成するための重要な軸として、「働きやすさの促進」と「働きがいの醸成」を挙げ、働きがいの醸成のためにキャリアオーナーシップの推進が重要だと位置づけています。
2023年4月には、「キャリアオーナーシップ宣言」を発表。会社として社員一人ひとりのキャリア実現を支援することを表明するとともに、社員に対しても自らがデザインしたキャリアを実現させるよう求めています。キャリア自律を推進していくために、同社ではまず全社員に向けて人材マネジメントポリシーやキャリアオーナーシップ意識を醸成する動画を配信し、風土を変えていくところから着手しました。
そしてキャリア形成に特化したポータルサイトの作成や対話の場の設定、ワークショップやキャリア面談研修を繰り返し、組織としてキャリア自律を重視する文化を醸成するとともに、個々人への手厚いフォローを実施。2023年5月に発表した中期経営計画(中継)では、これらの取り組みを中継の柱の一つである「人的資本の強化」の取り組みとして位置付けています。
- 【参考】
- 三井情報株式会社:変化の時代に対応できる人材を育成|日本の人事部
- HRカンファレンスレポート:カインズ、三井情報が実践! 従業員の「キャリア自律」を実現する「組織風土改革」|日本の人事部
- キャリアオーナーシップ推進|三井情報
- 第七次中期経営計画|三井情報
雪印メグミルクグループ
雪印メグミルクグループでは、「最大の経営資源は人材である」との考えのもと、スキル開発や自らの仕事を主体的に捉え、チャレンジしていく社員の育成を目的としたキャリア開発支援に注力しています。同社ではスキル開発プログラムおよびキャリア開発プログラムにおいて、対象となる階層を細かくわけたうえで「全員」「選抜」「公募」それぞれに向けたプログラムを展開しています。
キャリア開発プログラムでは、新卒2年目、30歳、38歳、45歳、50歳など、年代に併せたきめ細やかなキャリアドックを実施。また女性活躍にも注力しており、女性従業員に対し、キャリアビジョンの実現に向けて主体的に行動することへの意識づけや先輩社員との意見交換、社内ネットワークの構築などを実施しています。
同社が2023年に発表した中継では、同社が社会に対して価値を届けるまでの「価値創造ストーリー」を公表。ストーリーの中では、キャリア自律の推進施策などによって人的資本を強化することで会社としての根っこをより強固なものにし、よりよいアウトプットおよびアウトカムを生み出していくこと、それがひいては食の持続性を実現するとの流れが描かれています。
シスメックス株式会社
シスメックスでは、若手社員が「キャリア上の目標を達成できない」と感じていることがエンゲージメントサーベイの結果を押し下げているとの事実に直面したことから、キャリア自律支援へのテコ入れを開始しました。採用から退職、セカンドキャリアまでの一連の流れを「エンプロイジャーニー」として表し、多様な人材が自らのキャリアを構築し、主体的かつ継続的に学ぶことを支援しています。
たとえばプロセスがブラックボックス化されがちな新入社員の配属において、職種別採用かつ本人と部門の希望に基づいたマッチングアルゴリズムを用いて、配属部門を決定する仕組みを採用しています。この仕組みでは、原則人事が介入することなく、現場の裁量で配属先を決めていることも特徴の一つです。さらに入社後は、新たな職務にチャレンジできるアプレンティス制度を導入し、自律的なキャリア開発の基盤を整えています。
ほかにも同社では多様な人材の獲得やチャレンジを促して成果をたたえる評価・表彰制度の導入、個々に応じた育成プログラムなど、キャリア自律を推し進める施策を多数展開。これらの仕掛けに併せて、人事制度をジョブ型に移行しました。同社は経営戦略を構成する要素として「人的資本戦略」を組み込んでおり、人的資本戦略の中で同社が目指す姿として挙げた「人材ポートフォリオの最適化」「高いエンゲージメント」「最高のチームワークの発揮」にも、キャリア自律の取り組みが強く結び付いているとしています。