人材は、心を持つ貴重な財産。
創立140周年の東京ガスが人的資本経営に取り組む理由とは
東京ガス株式会社 常務執行役員 CHRO
斉藤 彰浩さん
人的資本経営、タレントマネジメント、タレントマネジメントシステム、キャリア自律、人材ポートフォリオ、CHRO、人的資本経営

創立140周年を迎え、「第3の創業期」にある東京ガス株式会社。脱炭素化による地球環境への貢献といった社会的課題の解決と市場競争が激化する中での持続的な成長を両立させるという課題に直面しています。そこで、社員一人ひとりの挑戦を応援し、多様性を尊重する「人的資本経営」を推進。経営体制や人事戦略を整備し、2024年には初めて人的資本レポートを発行しました。老舗企業の文化をいかにして変革しているのか。常務執行役員 CHRO(最高人事責任者)斉藤 彰浩さんに、「人」という「心を持つ貴重な財産」に懸ける想いをうかがいました。

- 斉藤 彰浩さん
- 東京ガス株式会社 常務執行役員 CHRO
さいとう・あきひろ/1988年に東京ガス株式会社に入社。その後、家庭用・業務用営業企画、社長秘書、人事等に従事。2021年4月から、常務執行役員として、導管ネットワークカンパニーコーポレート本部、家庭用営業本部等を担当。2024年4月から現職。
「東京のガス会社」からの脱却
近年、貴社が人的資本経営に注力されている理由を教えてください。
2025年に創立140周年を迎えた東京ガスは、現在を「第3の創業期」と位置づけています。
第1の創業期は1885年。渋沢栄一が東京瓦斯会社を創立し、ガス灯の燃料としてのガス供給から事業をスタートしました。第2の創業期は日本で初めて液化天然ガス(LNG)を導入した1969年。公害問題が深刻化していた当時、よりクリーンな天然ガスへの転換によって地域環境に貢献しました。
そして脱炭素化による「地球環境への貢献」と都市ガスの小売全面自由化等による「エネルギー市場の競争が激化する中での持続的な成長」の両立といった大きな課題に直面している今は、まさに第3の創業期です。ソリューション事業や太陽光や風力をはじめとした再生可能エネルギー事業など、都市ガス以外の事業を成長させていく必要があり、事業エリアも東京から日本全国、そして海外にも広げていかなければなりません。
第1の創業期、第2の創業期においては、ガス事業に特化したスペシャリストを育成していました。しかし、未知の領域に挑戦する第3の創業期では、さまざまな分野で高い専門性を持ち、自律的に成長して価値を創造できる多様な人材を求めています。
こうした理由から、「挑戦による成長」と「多様性を力に」をキーメッセージに掲げ、挑戦を奨励しながら人材の価値を高めるとともに、多様性を尊重しながら最大限その価値を発揮させる「人的資本経営」を、経営戦略の最優先事項の一つとして位置づけています。
「人的資本経営」を推進する上で、貴社は「人材」をどのように捉えているのでしょうか。
人的資本レポートを作成するにあたり、「人材」や「人的資本経営」に対する想いについて話し合いました。その中で私たちは、人材を単なる「資本」ではなく「心を持つ貴重な財産」と定義しました。
仕事に対して前向きな「心」を持つ仲間が集まれば、刺激し合うことで一人では成し遂げられない大きな成果へとつながります。一方で、どんなに優秀なスキルを持つ集団でも、それぞれがバラバラで後ろ向きな発言が目立つようになってしまえば、職場全体が暗い空気に包まれてしまい成果どころではありません。
だからこそ、私たちは社員一人ひとりの「心」を大切にしたい。社員の成長を全力で支援するとともに、自分たちの仕事に誇りをもって最大限に情熱を注げる環境や仕組みを整える。これらを通じて社員の「心」に火を灯し、社員一人ひとりと会社の双方が成長する。これが、私たちの考える「人的資本経営」です。
具体的な推進体制や、これまでの歩みについて教えてください。
2019年に経営ビジョン「Compass2030」を発表し、社員のエンゲージメント向上のために、今と未来の仲間に対する「3つの約束」を表明しました。「今と未来の仲間」とは、経営ビジョンで掲げた「次世代のエネルギーシステムをリードしながら、お客さま・社会・ビジネスパートナーとともに価値を創出し続ける企業グループ」という目指すべき姿に共感し、多様な価値観や経験を持つ人材のことで、変革を実現するための仲間です。
一つ目の約束は、「社会に大きなインパクトを与える仕事を生み出します」。都市ガス事業にとどまらず、様々な事業を通じて社会に貢献していく決意を示しています。
二つ目は、「多様性がぶつかり合い、切磋琢磨する場をつくります」。足元では経験者採用率が高まっていますが、単体では社員全体の約9割が生え抜きの社員です。新しい事業分野に挑戦していくためには、多様な経験や価値観を持つ社員も必要です。
三つ目は、「一人ひとりの自己実現にこだわります」。目の前にある仕事に単純に取り組むだけでは、事業変革をリードできません。社員が「どのような仕事をしたいか」「どのように成長したいか」という想い、すなわち「自己実現」の意識を持つことが、事業の成長には欠かせません。
その後、急ピッチで人的資本経営を推進する体制を整備しています。2021年には指名委員会等設置会社へ移行。事業を推進する「執行役」と執行役を監督する「取締役会」を明確に分ける体制にしました。2022年にはグループ経営理念を刷新。「人によりそい、社会をささえ、未来をつむぐエネルギーになる。」という「存在意義」を定義するとともに、「挑み続ける」「やり抜く」「尊重する」「誠意を持つ」という、東京ガスが大切にしている「価値観」を明確にしました。また、経営戦略と人材戦略を連動させるCHRO(最高人事責任者)や、DE&I推進担当役員を新設しました。
2023年には中期経営計画「Compass Transformation 23-25」で「変化に強いしなやかな企業体質の実現」のための取り組みとして「人的資本経営の実践」を表明しています。
2024年には「人材開発委員会」を立ち上げました。社長をトップとした経営会議メンバーが、人的資本に関するテーマを話し合います。初年度は5回開催し、「人材ポートフォリオ」や「社員の専門性強化」について議論しました。人材開発委員会で検討した内容は、人事部や各カンパニー・基幹事業会社のHRBPが出席する「人事担当マネージャー会議」で共有しています。経営会議メンバーによる議論を人事施策へと落とし込むことで、グループ全体で一貫性のある人事戦略を推進しています。
「挑戦を、自分ごと化」するキャリア自律
人事戦略はどのように展開しているのでしょうか。
人事戦略は、三つの切り口から展開しています。
まず、「人材ポートフォリオの再構築」。多角化する事業に対応するため、各事業に必要なスキル要件を定義しました。社員の専門性向上や経験者採用に取り組み、事業を推進するにあたって不足しているスキルを補うことで最適な人材ポートフォリオを目指しています。
次に、「挑戦による成長」と「多様性を力に」をキーワードとした企業文化改革です。「挑戦による成長」という点においては、人材公募制度や副業・兼業を解禁しました。「多様性を力に」に関しては、女性活躍推進や、育児・介護の両立支援、障がい者の活躍支援、LGBTQへの対応に注力しています。
最後に、社員が前向きに働くための土台となる「ウェルビーイング・健康と安全」のために、心身の健康サポートや、オフィス環境の整備などに取り組んでいます。
タレントマネジメントシステム「CIRCLE(サークル)」を導入し、「人材ポートフォリオの再構築」に取り組んでいるとうかがいました。
タレントマネジメントシステム「CIRCLE」は、2023年に導入し、2024年に本格稼働しました。導入の狙いは大きく二つあります。
一つ目は、社員一人ひとりの専門性を「見える化」すること。事業が多角化する中で、どの部署にどのような専門性を持つ人材がどの位在籍しているのかを正確に把握する必要がありました。そこで、約2000の社内業務を調査し、約200の業務分類に体系化。各カテゴリーのレベルを4段階に分類しました。その上で、各社員に自身が持つスキルを「CIRCLE」へ入力してもらい、人材データを可視化しました。専門性を身に付けていると認定されるためには、上司の承認を得る必要があります。
これを基に2024年、人材ポートフォリオを作成しました。「この事業領域にはこのレベルの専門人材が不足している」ということが明らかになり、新卒採用をするのか、経験者採用をするのか、あるいはリスキリングするのか、配置転換をするのか、戦略的に人事施策が打てるようになりました。
二つ目の狙いは、社員のキャリア自律を支援することです。「CIRCLE」導入により、社員は「自分には何が足りないのか」「次のステップに進むには何を学べば良いのか」が明確になり、自律的な学びにつながっています。社員と上司の1on1ミーティングで、より具体的な目標を設定できるようになりました。
また、AIを活用した「キャリアアドバイザー機能」を導入しました。導入したばかりですので改善点はまだありますが、蓄積された社員個人のスキルに関するデータをAIが分析し、社員に対して「あなたはこの仕事に向いています」「この部署に行くには、このスキルを身につけると良いでしょう」といったアドバイスをします。
「CIRCLE」導入の際に苦労はあったのでしょうか。
スキルデータの入力作業に対し、社員から「インプットや承認に手間がかかる」といった声もありました。事務局が「スキルの可視化こそが、一人ひとりのキャリア形成に直結する」という意義を粘り強く発信したこともあり、社員の協力を得ることができました。
キャリア自律に関して、社員にはどのような姿勢を求めていますか。
以前は、会社としても「目の前の仕事に取り組むことが成長につながる」と言っていたこともあって、「与えられた仕事を一生懸命やる」というスタンスで働く社員が少なくありませんでした。ただし、受け身の姿勢では、未知の事業に取り組み、イノベーションを起こすことは難しいでしょう。
社員には、「自分はこの仕事で勝負していきたい」という強い意志を持ち、必要な知識を習得したり、社外で学習したりといった「挑戦の自分ごと化」を期待しています。社員が自律的にキャリア開発に取り組むことは、会社の成長だけでなく、社員の成長にもつながります。
「挑戦」と聞くと、人によっては「苦しい」「ハードルが高い」と感じるかもしれません。「昨日より今日、少しでも成長した」という小さな一歩でも立派な挑戦である、というメッセージも意識的に発信するようにしています。

東京ガスの「今」を、正しく、熱く伝える。東京ガス初の「人的資本レポート」
2024年に、初めての「人的資本レポート」を発行されました。今回、発行に至った理由や、特に注力された点についてお聞かせください。
人的資本経営の推進に伴い、新たな制度を策定したことや、活躍している人材について、ステークホルダーにご理解いただく必要があると考え発行しました。ステークホルダーには、お客さまや投資家の方々はもちろん、今と未来の社員も含まれます。
人的資本レポートでは、東京ガスグループの「今」を、正しく知っていただきたいと考え、「東京ガスらしさ」を表現することに注力しました。特に意識したのは、経営理念で定めた4つの価値観(『挑み続ける』『やり抜く』『尊重する』『誠意をもつ』)と、「人」「仕事」「制度」を結びつけることです。「こうした価値観のもとで、このような仕事に取り組み、この制度を活用している」というストーリーを、セットで伝えることを重視しました。
社員を前面に出し、社員の苦悩や情熱を通じて、東京ガスの人的資本経営のリアルを感じてもらえるように工夫をこらしました。タレントマネジメントシステム「CIRCLE」をはじめとした人事施策や、変革に挑む社員の姿をオープンにすることで、「東京ガスは変わろうとしている」「こんなに面白い社員がいる」ということを多角的に伝えました。レポートは、人事部が主導し、外部の制作会社と連携しながら約8カ月かけて作成しました。
人的資本レポートに対して、どのような反響がありましたか。
社内外からポジティブな反響がありました。
人的資本レポートを発行した際に記者発表を行ったのですが、メディアの方々から「変革への本気度がよく分かった」と評価をいただきました。投資家やアナリストの方々からは、「この人事施策がどのように財務価値につながるのか」といったご質問もいただき、今後の人的資本開示の在り方を考える上で大きな学びになりましたね。
社内からの反響も予想以上に大きく、人的資本レポートに関するアンケート回答者(社員)の約9割から肯定的な反応がありました。「自社の制度の充実ぶりを知ることができた」「仲間が活躍している姿を見て、刺激を受けた」「自分も専門性を生かして挑戦したいと思った」といった前向きな声が多数寄せられました。
事業の多角化が進む中で、各事業の仕事がお互いに見えにくくなっていましたが、人的資本レポートが社内の相互理解を深め、エンゲージメントを高めるツールとして機能しています。
人的資本経営を推進する中で、人事部としてどのような手応え、または課題を感じていますか。
人的資本経営のキーメッセージである「挑戦」や「多様性」が、社内に浸透しつつある実感があります。
「挑戦」に関しては、幹部職に導入したOKR(企業の目標と従業員個人の目標を結びつける手法)の運用が2年目を迎え、定着してきています。以前は達成しやすい「無難な目標」を設定する傾向が見受けられましたが、OKRの導入で難易度の高い目標を掲げている幹部職が増えています。今後は幹部職以外の全社員にOKRを導入し、組織全体の挑戦意欲をさらに引き出していきたいです。「多様性」に関しては、女性管理職比率の向上、男性の育休取得率100%達成や採用の半数を経験者採用にすることなどを実現しています。
一方で、課題も多く存在します。最大の課題は、「人的資本経営の取り組み」と「企業価値向上」の「相関」をいかに実証するかです。
例えば「社員が新たなスキルを習得した」「挑戦する風土が醸成された」といった成果が、どれだけの利益や企業価値向上につながるのか。相関関係を証明することは容易ではありません。ステークホルダーに対して説得力のある説明ができるよう、引き続き効果測定やロジックの構築に取り組みます。
また、経営人材の育成も課題の一つです。次世代の経営層の選抜や育成について、体系的なプログラムの確立に取り組んでいます。
OKRとは――意味、MBOやKPIとの違い、具体的な運用例をわかりやすく解説
貴社の人的資本経営の展望をお聞かせください。
まずは現在進めている人事施策を、適宜修正しながらやり切ることです。制度を作って終わりではなく、社員の行動変容や成果につながるまで、辛抱強く働きかけていきます。
人的資本経営を推進する中で、最も困難なのは、風土を変えることです。私たちが人的資本経営で目指す「挑戦」や「多様性」は、一朝一夕で実現できるものではありません。だからこそ、「軸をぶらさずに、辛抱強くやり続けていく」ことが大切だと痛感しています。
東京ガスは「東京のガス会社」というイメージが強いかもしれませんが、事業は東京のみならず、日本全国、そして海外にも展開しています。また、不動産、DXソリューションやハウスクリーニングなど、ガス事業の枠を超えた事業も増えています。
人によりそい、社会をささえ、未来をつむぐエネルギー企業グループへと生まれ変わるために、人の力を最大限に引き出す経営を粘り強く推進していきます。



