「人的資本経営」に企業はどう取り組むべきか
あらためて考えるその重要性と、これから人事に期待されること
事業創造大学院大学事業創造研究科 教授
一守 靖さん
人的資本経営、伊藤レポート、有価証券報告書、コーポレートガバナンス・コード
いま企業にとって「人的資本経営」が重要課題の一つとなっています。一方で「人事白書 2023」の調査結果を見ると「人的資本の情報開示に取り組んでいますか」という質問に対して「取り組んでいる」と答えた企業はわずか8.7%にしか過ぎません。一部を除いて、人的資本経営への取り組みがうまくいっていない企業が多いのが実状です。人的資本経営の取り組みが進まない背景には何があるのでしょうか。人的資本経営を実のあるものにするため、人事担当者が行うべきこととは何なのでしょうか。書籍『人的資本経営のマネジメント』の著者で、事業創造大学院大学事業創造研究科 教授の一守 靖さんに聞きました。
- 一守 靖さん
- 事業創造大学院大学事業創造研究科 教授
いちもり・やすし/慶應義塾大学博士(商学)。ヒューレット・パッカード、シンジェンタ、NCR、bitFlyerなど、国内外の企業における人事部門の責任者としてジョブ型人事制度の導入、人材開発、組織文化の変革、人事部員の育成などを推進すると同時に、富山大学や法政大学など複数の大学院において教育・研究活動に従事。アカデミックの知見をビジネスの実践に活かす取り組みを行っている。ピープルマネジメント研究所代表。
人的資本経営に関して、日本は世界をリードできる位置にある
あらためて「人的資本経営」とはどういうものかをお聞かせください。なぜここへきて重要性や注目度が高まっているのでしょうか。
人的資本経営とは「人的資本」の価値を最大限に引き出し、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方のことです。
人的資本経営はもともと、労働経済学の理論で語られてきました。現在注目されている背景には、投資家が人的資本に注目していることがあります。企業には財務諸表だけでは見出せない価値があると、投資家たちが気づいたのです。こうした状況を見て政府が動き出し、経営者からの関心が高まったことで、人的資本経営が注目されるようになりました。
時系列でいえば2020年に、機関投資家からの人的資本開示要求の高まりを受け、米国証券取引員会が上場企業に対して人的資本の情報開示を義務付けると発表、11月から義務化しました。これが大きな契機となり、日本でも2020年に経済産業省がワーキンググループを設置して「人材版伊藤レポート」を発表します。
2021年には、2015年に金融庁と東京証券取引所が共同して発表していた「コーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)」に、人的資本への投資を開示すべきという指針が追加されました。さらに2022年には金融庁のワーキンググループが、企業の有価証券報告書の記載事項に、男女間賃金格差、女性管理職比率、男性育児休業取得率などの項目を追加する報告案を採択します。そして経済産業省が「人材版伊藤レポート2.0」を発表。2023年に金融庁によって有価証券報告書への記載が義務付けられました。厚生労働省も、女性活躍の推進や育児介護休業法などの関連で同じテーマに取り組んでいます。このように各省庁が同じ方向に向かったことで、人的資本経営への注目度は急速に高まりました。
人的資本の開示は、いまから40年ほど前にスウェーデンやノルウェーなど北欧ではじまり、欧米に広がりました。アジアには20年遅れて2000年くらいに入ってきたので、2020年までは日本と欧米には大きな差がありましたが、日本で人的資本経営が急速に広まったことで、現在は日本が諸外国をリードできるポジションに来つつあります。
企業の人的資本に関する情報は投資家だけでなく、求職者や従業員にとっても関心の高いものです。今後は、企業の取引先からの関心も高くなっていくでしょう。
人的資本が企業価値の向上につながるメカニズムについてお教えください。
まず個が強くなり、さらにチームが強くなることによって、企業全体の価値があがっていくというメカニズムだと考えています。メカニズムを説明する上で、私が「人的資本経営モデル」と呼んでいるものをご紹介します。
(図1)人的資本経営モデル
伊藤レポートでも述べられている通り、人的資本経営においては、経営戦略と人材戦略を連動させることが重要です。では、どのようにして連動させればいいのでしょうか。
人事施策には昔から続いているものが多く、何かを変えようとすると不利益変更という議論になります。そのため昔の施策が残ったまま、新しいものが追加されていくことになりがちです。すると、人材戦略と人事施策の整合性がとれなくなってしまう。この状況を見直していくべきでしょう。
図1の縦のラインの上位にはパーパスを置いています。パーパスやミッションをスタート地点にして企業文化を作ったり、事業ドメインを考えたりしていきます。近年のスタートアップはパーパスやミッションを設定することから始めることが多く、とても良いことだと思いますね。
また、個を強くするには教育と経験の場を与えて「KSAO(Knowledge, Skill, Ability, Other Characteristics)」を高めることが重要です。
(図2)KSAO
Knowledge(知識)は研修やe-ラーニングなどで学べますが、その知識を使いこなすためには、Skill(技術)が必要です。そして、Other Characteristicsといって、人の性格や態度は学習への取り組み方や修得に対して影響を与えます。持って生まれたものだけでなく、後から強化することもできます。私が好きな故・野村克也監督が残した「技術を磨く前に人間を磨け」という言葉は、まさにこれに通じた考え方だと思います。採用した人の能力をいかに高めるかはどの企業も取り組むべきことです。同時に個人も責任をもって自分のAbility(獲得した知識・スキルを行動に結びつける力)を高めていく必要があります。
次にポイントとなるのは「AMOフレームワーク」です。
学びを通して能力(Ability)を高めていく上で必要なのは、動機(Motivation)であり、機会(Opportunity)です。企業には従業員の能力を向上させて、やる気を高め、機会を与えることが求められます。
こうしたメカニズムで個を強くした上で、組織として強くなるには、学んだことを組織内で共有し、組織レベルの力につなげていくことが求められます。そこで重要なのが「創発」という概念です。創発とは、異なる能力をもった個人をさまざまな形で結びつけていくことで、個人同士が情報交換し、他人のふるまいを見ながら学習し自分のふるまいを修正していくことによって、組織全体が強くなり、同じ方向に向かっていくという考え方のことです。この現象について、アメリカの経済学者であるクルーグマンは、物質や個体が、個々の自律的な振る舞いの結果として秩序を示す自己組織化という現象を使って説明しています。
創発を起こす仕組みの例は、例えば社内にプロジェクトを数多く起こすことです。プロジェクトにさまざまな部署の人が参加すると、自部署のことや自分の仕事内容を説明する機会が増えるので、お互いの理解度が高まります。そして、全社の仕事の種類や誰がどう動いているかを理解できるようになります。創発を起こすには、社内の仕組みのほか、リーダーシップも重要です。私は創発を促すリーダーシップとはどのようなものかについて、もっと研究したいと考えています。
経営者が人的資本経営の取り組みをためらう、二つの理由
日本企業における人的資本経営の取り組み状況をどのようにご覧になっていますか。
私がこれまで直接お話を伺ったり、統合報告書や有価証券報告書を見たりして感覚的に捉えたところでは、人的資本経営の取り組み状況によって、企業を以下のように分類することができるのではないかと感じています。
超先進企業 | 20年ほど前から人的資本経営に着目し、独自の仮説を基にPDCAをまわし、効果を実感しつつある企業 |
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先進企業 | 優れた統合報告書の作成に尽力している企業。その中の多くの企業は、企業文化の変革も視野に入れている |
準先進企業 | 統合報告書の作成を検討している企業 |
準先進企業の予備軍 | 企業戦略と人事戦略の連携の重要性を意識し始めている企業 |
一般企業 | 開示が義務化された項目の収集に取り組んでいる企業 |
「超先進企業」に分類されるのは、まだほんの一握りです。「先進企業」は、社内外や社員に情報を意欲的に発信しています。この分類に属する企業は、さまざまなメディアで取り組みが紹介されている企業でもあり、今後も多くの好事例が出てくることを期待しています。
もっとも多くの企業が属しているのが「一般企業」です。しかし、その水面下には、現時点では開示義務のない企業が多数存在しており、今後はそれらの企業を含めて人的資本経営を推進していく必要があるでしょう。開示義務がないといっても、独自の判断でユニークな取り組みをしている企業も少なくありません。そうした企業を世に紹介していくのも、私がこの分野に貢献できる取り組みの一つだと考えています。
次に、私が関与している日本生産性本部のワーキンググループで行った調査を紹介します。人的資本関連の開示が義務付けられた、プライム市場上場企業の有価証券報告書をすべて確認し、人的資本に関する情報の記述の文字数を確認したものです。どのくらいの文字数を割いているのかを、熱心さを測る指標と考えました。
(図3)有価証券報告書における人的資本に関する記述量
人的資本に言及する文字数の平均は2,095字で、2,000字未満の企業が約6割を占めていました。有価証券報告書の作成段階で複数の企業の担当者に話を聞いたところ、今回は開示が初めてなので他社がどのくらい書くかがわからず、悩んでいる方が多かったですね。あまり文字数を多くすると最初から高いバーを設定してしまうことになるし、あまりにも文字数が少ないのもよくないと考えたようです。
ただ、今回各社の開示が出そろったことで、次回は少しボリュームが増えるのではないでしょうか。私が大学院の学生に課す簡単なレポートがA4サイズで2~3枚、文字数にして2,400~3,600文字程度なのですが、この辺りに多数の企業が入ってくるといいですね。グラフでいえば赤線で囲んだ部分です。
『日本の人事部』が2023年3月に人事パーソンを対象に実施した調査「人事白書2023」で、人的資本の情報開示に関する取り組み状況を聞いたところ、「取り組んでいる」(8.7%)、「取り組むために準備している」(21.7%)、「取り組むことを検討している」(19.0%)、「取り組む予定はない」(30.0%)、「わからない」(20.7%)という結果になりました。この状況を、どのようにお感じになりますか。
全国の企業を対象にした調査としては、違和感のない結果です。人的資本に対する関心度が高い企業は首都圏に集中しています。今後は「取り組む予定はない」と答えている30%の企業を、取り組みを検討している側にしていくことが重要でしょう。
企業が人的資本情報の開示に積極的ではない要因は、大きく三つあると考えています。
一つ目は、人的資本情報が他社に漏れるのではないかという懸念です。しかし、実際にはあまり影響がないと考えます。例えば、A社とB社の女性管理職比率が同じ30%だったとしても、構成している人材は別であり、活躍状況も企業によって違うからです。
二つ目は、組合や従業員に対する恐れです。例えば、給料の平均値を出すと従業員は自分がどの位置にいるのかがわかり、モチベーションが下がるかもしれません。しかし、他社が情報を開示していると「うちの会社はどうなっているのか」という開示圧力が出てきます。そこで遅ればせながら開示したところ数値がよくなかったら、「悪い数値だから出さなかったのではないか」と思われてしまう。それなら、早目に開示して、数値の改善に対する取り組み姿勢を示したほうがいいでしょう。
三つ目は、人的資本情報収集の手間と、情報を正しく投資家が理解してくれるのかという懸念です。私は、企業の人事部門は情報収集に時間をかけるべきではないと考えています。過去の情報を集めることに付加価値はないので、ツールなどをうまく活用するといいでしょう。人事部門は、出た結果を分析してアクションを考え、PDCAを回す部分に時間を使うべきです。
このようにいろいろな懸念はあるかもしれませんが、会社の体力やビジネス環境に応じてできること・できないことを明確にしながら、ぜひ人的資本情報の開示に取り組んでほしいですね。
企業の経営者が人的資本経営をためらうのはなぜでしょうか。
経営者には、二つの疑問があるからだと考えます。一つは「人的資本経営に取り組むことで業績は良くなるのか」という疑問です。経営者としては当然の疑問であり、我々のような研究者が調べて明らかにしていくべき課題でもあります。
よく言われるのは「逆の因果関係」で、例えば研修に予算をかけるようになったのは会社の収益が上がったからであって、研修に予算をかけたから会社の収益があがったわけではないのではないか、という反論です。また、企業による固有の文脈や偶発的な状況の影響も受けるので、企業の取組みとその成果へのつながりを一般化しにくい部分も確かにあります。
もう一つの疑問は「人的資本情報を開示することは企業経営にとって本当にいいことなのか」という疑問です。こうした疑問に対しても、研究者がデータをもとに答えを示していかなければなりません。この点を明らかにできれば、人事の皆さんへの応援にもつながり、経営者が人的資本経営に対する信念を強く持つことにもつながります。
参考までに、海外の調査では率先して人的資本情報を開示している企業は株価収益率が高い、という研究結果があります。私も国内企業を対象に、人的資本情報の開示と企業経営との関連について調査をしています。
人的資本経営は、人事の貢献や存在意義を訴えられるまたとないチャンス
人的資本経営を推進する上で、日本企業の課題は何だとお考えでしょうか。
課題は三つあります。一つ目は、誰が人的資本経営をリードしていくか。人的資本経営には企業戦略と人材戦略が関連するため、ビジネスを知っている、人と組織を理解している、データ分析ができる、そして経営層を巻き込める、という人材が求められます。
現状では、経営企画の人が人的資本経営を担当していることが多いですね。経営者の巻き込み力があり、ビジネスのプロであるため、確かに適性があるでしょう。しかし私としては、人的資本経営を推進するのは人事部門であってほしい。人事部門やそのメンバーにとっては自分たちの貢献や存在意義を強く訴えるまたとないチャンスといえるでしょう。
人的資本経営を人事部門がリードしていく上で重要なのは、まずビジネスをよく知ることです。そして経営者に対して、人材がいかに経営に価値を提供できるのかを理解してもらえるようにリードしてほしいと思っています。
二つ目の課題は、どのような情報を収集するべきか。経営者が知りたい情報と、実際に開示している情報には隔たりがあると言われています。経営者が知りたい情報を把握し、きちんとストーリーを立てた上で「この情報を見ていきましょう」と示していく必要があります。
三つ目の課題は、情報の収集方法です。人の情報は給与、評価、タレントマネジメント、採用、研修など、個別に管理されることが多いものです。しかし、収集に時間をかけなくても、社内に散らばっているデータを渡せば、それらを加工してさまざまな人的資本指標を可視化してくれるサービスも出てきています。そういったサービスを活用して効率化することが重要です。
企業における人的資本向上の取り組みの中で、とくに注目されている事例と特徴があればお聞かせください。
注目している事例としては書籍『人的資本経営のマネジメント』でも取り上げた、ソニー、構造計画研究所です。ソニーはあれだけの大企業でありながら、企業の理念、組織文化が社内に浸透し、戦略間ならびに施策間の整合性が取れていて、常に社員が楽しむ場を作り続けています。構造計画研究所はトップの強い信念のもと人事の専門家が一人もいないところから始めて、現場の納得感が高い人的資本向上の取り組みを行っています。
また、ストーリーの整合性という点で、りそな銀行にも注目しています。同社の取り組みの根底には、わかりやすいストーリーがあります。人事戦略にリーダー、越境、専門性、自律と支援、働きがい、働きやすさという六つのドライバーを設定し、それぞれの推進のためにどんな人材施策を行うのかというところまで、しっかりとつながっています。人的資本情報の開示は、投資家をはじめ人事領域の専門家ではない人々に向けて示す意味合いが強いので、わかりやすさは非常に重要です。
この他にも、自社の人的資本経営について若手社員も含めて考えさせる機会を提供しているサントリーやANAなど、全社的な取り組みを行っている企業に注目しています。
人的資本経営を実のあるものにするために、人事担当者が行うべきこととは何でしょうか。
人事担当者が行うべきことは、以下のように6点あります。
ビジネス(経営)を学ぶ | 現場に出る、ビジネスの会議に出る |
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人事領域全般を学ぶ | 本物のHRBP、CHROを目指す |
人事領域の理論を学ぶ | 実務に活かせる理論は多数ある |
全体の整合性を考える | 個々の制度の意味合いを考える |
PDCAを回す | 事実をもとに分析してアクションにつなげる |
経営層を巻き込む | トップがその気にならなければ人的資本経営はできない |
まず、ビジネスを学ぶことが重要です。そのための近道は、社内のビジネスの会議に出席することです。そうすれば、現場の動きや現場の課題、従業員の活躍ぶりや悩みを知ることができます。その上で現場の課題を採用で解決するのか、社員研修が必要なのかなど、人や組織の多方面から組織をサポートしていくのです。
また、人事領域全般を学ぶことが重要です。人事領域の職種には、報酬制度や人材開発、採用といった専門職もありますが、人的資本経営の文脈で言えばビジネスパートナーを目指してほしいと思います。最近は多くの企業がビジネスパートナー制を導入していますが、まだ本来的な動きにはなっていないことが多いと感じます。さまざまな人事的アプローチを駆使してビジネスをサポートするためにも、人事領域全般を勉強することで人事のプロになってほしいですね。
さらに、人事領域の理論を学ぶことも重要です。例えば目標設定理論は、今から50年以上も前に提唱されたかなり古い理論ですが、それを応用した目標管理制度は理論に裏打ちされている制度であるため、現代に至るまで世界中の組織で使われています。自分たちが運用している仕組みや制度の背景にある理論を理解すると、自信にもつながるでしょう。
冒頭にお話ししたように、欧米から20年遅れで人的資本経営の開示を本格的に取り組み始めた日本は、この世界のリーダーになり得ると考えています。各省庁や企業が同じ方向を向いて人への投資を加速してくれている状況にあるので、今後の展開がさらに期待されるでしょう。その中で人事部門の方には、人と組織のプロとして存在感を高め、さらに力を発揮していただきたいと強く願っています。
(取材:2023年8月4日)
上場企業に義務付けられた人的資本の情報開示について、開示までのステップや、有価証券報告書に記載すべき内容を、具体例を交えて解説します。
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