人材の価値を最大限に引き出し、企業の持続的な成長を実現する

日本の人事部 人的資本経営

人的資本経営の潮流2023/08/15

人的資本経営と投資家

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企業が人的資本経営を進める理由の一つとして、企業の価値向上を強く望む「投資家」の存在を挙げることができます。投資家は企業が取り組むべき優先課題としてサステナビリティを重視し、企業戦略を実行するカギとなる人材へ積極的に投資する企業を高く評価します。本記事では、人的資本経営を推進する企業における投資家の役割や、企業がどのように投資家対策を進めるべきかについて解説します。

人的資本経営と投資家

投資家と人的資本経営を推進する企業の関係

国税庁によると、2021年時点で日本の会社は286万社ほど。会社の形態別にみると、株式会社が全体の91.2%を占めています。株式会社とは、株式を発行して資金を集め、その資金を元に経営を行う企業を指します。従業員がいない、あるいは少ない会社では創業メンバーが出資者兼経営者である場合も多くみられますが、会社規模が大きくなるほど出資者を必要とするケースが増えていきます。

株主は株主総会で議決権を行使するなど、会社の経営に間接的に携わることが可能であり、会社は配当金などで会社の利益を株主に還元することが求められます。株式会社が事業を発展させていくうえで、株式の購入を通じて自社に出資してくれる投資家はなくてはならない存在です。近年では「もの言う株主」であるアクティビストの存在感も増しています。

投資家はいま、企業に対して人的資本経営の推進を強く望むようになっています。生命保険協会の調査によると、「日本企業の中長期的な投資・財務戦略において、重視すべきだと考えるもの」との問いに対して、トップになったのは「人材投資」(72.2%)でした。これは「IT投資」(64.9%)を上回る結果です。今後はより一層、人材への投資に積極的な企業を投資対象とする流れが加速すると考えられます。

企業も人的資本経営を推進するうえで、投資家の存在を強く意識しています。アビームコンサルティング社の調査によると、人的資本経営に取り組むべき理由として、「開示」「実践」いずれのテーマでも「投資家への責任を果たす必要があるから」がトップになりました。また「実践すべき理由」としては、成長企業ほど「株価へのポジティブな影響が期待できるから」と回答している傾向が明らかになっています。人的資本経営の取り組みは一朝一夕に達成できるものではないことからも、早い段階から人的資本に向き合うことが求められています。

法律で定められた人的資本開示指標

投資家が人的資本経営を推進している企業を投資先として選定する際は、企業が開示している人的資本に関する情報が重要な指標となります。現在、世界各国で人的資本情報の開示が義務付けられています。

米国: Regulation S-K の改訂/ S.1815(審議中)

2020年、米国証券取引委員会(SEC)は、証券法にもとづく「Regulation S-K」を改訂すると発表しました。これにより、米国では上場企業だけでなく、債券やデリバティブなどを発行する企業を含めたすべての企業に対し、人的資本に関する情報の開示義務が課せられることになりました。

また2023年現在、人的資本の情報開示に関する法案である「S.1815 Workforce Investment Disclosure Act of 2021(S.1815)」が審議されています。「Regulation S-K」では、開示内容については各企業の判断に任されていましたが、S.1815では「労働力の人口統計情報」「労働力のスキルと能力」「労働力の採用とニーズ」など、開示すべき項目として8項目が示されています。

欧州:NFRD/CSRD

欧州では、欧州委員会が2014年に「非財務情報開示指令(NFRD)」を公表し、従業員数500人超の企業に対して人的資本を含む情報の開示を義務付けました。また2023年には、対象企業を拡大した「企業サステナビリティ報告指令(CSRD)」が発効。これにより、 EU域内のすべての大企業と上場企業において、サステナビリティ事項を報告することが求められるようになりました。

日本:有価証券報告書

日本では2023年、「企業内容の開示に関する内閣府令」が改正され、有価証券報告書において「サステナビリティに関する考え方及び取組」の記載欄が新設されることになりました。具体的には「女性管理職比率」「男性育児休業取得率」「男女間賃金差異」といった指標の開示が義務付けられています。

投資家の要望と企業の実態

投資家が企業に人的資本経営を望む理由

無形資産の価値の向上

グローバルでみると、企業価値の源泉は有形資産から無形資産に移っています。米国では、1975年時点で17%に過ぎなかった企業の時価総額に占める無形資産の割合が、2020年には90%まで上昇しています。一方で日本においては、2020年時点の無形資産の割合が32%と低水準にとどまっています。今後グローバル化が進むビジネス環境に対応するためにも、無形資産の価値向上が期待されています。

ESG投資の推進

投資をするうえで、「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」の要素を重視する投資家が増えています。経済が発展するに従って環境や労働などに関する深刻な問題が浮き彫りになったことから、持続可能な社会の構築に注力する企業に注目が集まるようになったためです。結果として、「社会」に分類される人的資本についても、その重要性がさらに増しています。

成長の鍵となる人材の確保

VUCA時代の中で、多くの企業において事業の変革が求められています。しかしどれだけ優れた戦略を立てても、その戦略を実行するのは「人」です。とりわけ日本では、人口減少社会への突入やIT人材の不足といった背景がある中で、優秀な人材を雇用し続けるために人材に投資し、その価値を最大限に引き出していくことが求められています。

投資家の判断基準

内閣官房が2022年に発表した「人的資本可視化指針」では、人的資本経営の取り組みが企業価値の向上をもたらすプロセスを紹介しています。同指針によると、まず人材への投資が新事業・新製品の展開や従業員一人ひとりのチャレンジ姿勢・発想力の向上につながると説明。そこから利益率や資本の回転率が上昇することでROIC・ROEが上昇し、最終的にPERが向上するとしています。ROIC、ROE、PERはそれぞれ下記の指標を指します。

  • ROIC(Return On Invested Capital) : 投資家資本率。調達した資本に対し、どれだけ利益を出しているかを示す指標
  • ROE(Return On Equity): 自己資本比率。株主が拠出した自己資本を用いて、どれだけの利益を上げたかを示す指標
  • PER(Price Earnings Ratio): 株価収益率。株価が1株あたり純利益の何倍まで買われているかを示す指標

経済産業省が2014年に発表した「『持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~』プロジェクト(伊藤レポート)」でも、ROICやPERについて触れています。同レポートは、ROICを中期経営計画における目標値として落とし込むことや、企業価値を生み出すために中期的に資本コストを上回るROEを上げ続けることの重要性を記載。グローバルに投資家から認められる第一歩として「最低限8%を上回るROEを達成すること」を求めています。

また2023年には、東京証券取引所(東証)がプライム市場とスタンダード市場に上場する約3300社に対し、株価を意識した経営を求める要請を出しました。その中では、「ROE8%未満」に加え、「PBR(株価純資産倍率)1倍未満」である企業について改善を求めています。PBRは下記の指標を指します。

  • PBR(Price Book-value Ratio): 株価純資産倍率。株価が1株当たり純資産の何倍まで買われているかを示す指標

PBR1倍未満とは、企業の収益性や成長性が市場に評価されていないことを意味します。2022年7月に東証が発表したデータによると、プライム市場の実に半数がPBR1倍割れの状態です。投資家にとって、今後さらにROICやROE、PBRが企業価値を図るための重要な指標になると考えられるでしょう。

企業の実態

三菱UFJ信託銀行の調査によると、企業の開示データを基に作成された人材開発スコアを用いて株価リターンを計測したところ、人材開発への取り組みが進んでいる企業は、そうでない企業に比べてリターンが高いとの結果が示されました。同調査では、統計的には人材開発スコアと企業価値の関連性は確認できなかったものの、「数年後によりデータが蓄積されたタイミングで同様の分析を行えば、企業価値を説明できる可能性がある」としています。

一方で企業の人的資本経営の開示の実態については、投資家が望む水準に達していません。三井住友銀行の調査では、「ダイバーシティ」「労働案税衛星」「人材育成」といった人的資本に関するそれぞれの開示指標に対し、国内の機関投資家の約70~80%が開示を望んでいることが明らかになりました。しかし企業の実態としては、最も高い「ダイバーシティ」の項目でも40%にとどまるなど、投資家の期待と大きく乖離していることが浮き彫りとなっています。最も低い「エンゲージメント」では、投資家の74%が期待しているのに対し、企業の開示状況はわずか8%となっています。

人的資本経営を行う企業に注目した金融商品

株式市場では、人的資本経営を行う企業に着目した金融商品も売り出され始めています。すでに無形価値に対する高い評価が株価に織り込まれている海外企業と比べて、まだ人的資本への投資が本格化していない日本企業だからこそ、今後への期待が高まっていると言えるでしょう。

三菱UFJ信託銀行

金融商品名: iSTOXX MUTBジャパンプラチナキャリア150インデックス
運用開始年:2022年
特徴:ドイツ取引所傘下の指数会社である STOXX 社と共同開発。これは積極的に社員のキャリアを支援している150社で構成されており、「長期的視点」「自律的な学び」「社会への貢献」からスコアを算出しています。

野村アセットマネジメント

金融商品名:働きやすい企業戦略
運用開始名:2019年
特徴:女性管理職比率や有形固定資産比率など非財務指標と財務指標を掛け合わせて「働きやすさスコア」を算出し、上位250社程度を構成銘柄としています。

企業の投資家対策

戦略の策定

人的資本経営を推進するには、まず自社の人材戦略を策定することが必要です。ここで重要なのが、その戦略が自社の理念やパーパスを土台とし、経営戦略と連動しているものになっていることです。単に人材へ投資するだけでなく、その投資がどのように成果に結びつき、企業が目指すゴールに近づいていけるのかを示すストーリーを描くことで、株主を含むステークホルダーの理解と共感を得ることができます。

開示項目の選定とKPIの設定

人的資本可視化指針では、人的資本の開示事項には「比較可能性の観点から開示が期待される事項」と「自社固有の経営戦略やビジネスモデルに沿った独自性のある取組・指標・目標」の2類型があるとしています。さらに従業員と投資家とで重視する情報が異なることにも意識を向ける必要があるでしょう。

開示するにあたっては、単に記載義務があるからという理由だけで人的情報を開示しても、投資家の心を動かすことはできません。開示した内容がどのように業績に影響を与えるのかをわかりやすく示すことが求められます。

「比較可能性の観点から開示が期待される事項」については、有価証券報告書への記載が義務づけられた項目や人的資本の国際的な指標であるISO30414で開示が推奨されている項目などが例として挙げられます。一方で、企業ごとにパーパスや経営戦略が異なることからも、「自社らしさ」を示すことのできる「独自性のある取組・指標・目標」も極めて重要です。それにより、今後ビジネス環境が変化する中でも生き残っていくことが可能であるとの判断を投資家に促すことができます。

開示項目を決めたら、KPIを設定します。KPIは時系列に沿って開示を行うことで、取り組みの進捗状況や成果をリアルタイムで明確化でき、投資家の理解度の向上が期待できます。ただし予算や人の制約もある中で、すべての人的資本の指標について「他社を上回る」水準を目標にするのは現実的ではないでしょう。自社の人事戦略に照らし合わせて適正な水準を設定し、なぜその目標を設定したのかを語れるようになっていることが重要です。

投資家との対話

投資家の理解度と満足度を高めるためには、投資家との対話が欠かせません。投資家からすれば、自分の抱える不満や意見を真摯に受け止めてくれる企業に対して高い評価を下すことは自然な流れです。また企業にとっても、投資家との対話を行うには相当の準備が求められます。結果的に相乗効果が生み出され、より選ばれる企業へ成長することができるでしょう。

2021年、東証は上場企業が行うべき企業統治の指針となる「コーポレートガバナンス・コード」を改訂しました。同指針では上場会社に対し、株主との対話を行い、自社の経営方針を理解してもらうよう努めるべきだと強調しています。

具体的には、株主総会の場で反対意見が寄せられた事項について分析したり、議決権の電子行使を可能とするための環境作りを行ったりすることなどを要請。株主総会以外でも、株主からの面談の申込みに対しては「合理的な範囲で前向きに対応すべき」などとしています。実際にIR広報に熱心な企業の中には、決算説明会や株主総会とは別に、投資家向けのスモールミーティングや個別の対話を行っている企業が少なくありません。

また実際に会話を交わすだけが「対話」ではありません。有価証券報告書や統合報告書、アニュアルレポートも対話の一部と言えます。報告書やレポートの中では、自社の経営課題や強みとの整合性を意識したうえで、わかりやすく具体的に人的資本に関する情報を開示することが不可欠です。どのような株主に対し自社をどう認識してほしいのかを明確にしたうえで、適切な対話の方策を検討していく必要があります。

有価証券報告書からみる企業事例

丸井グループ

丸井グループは有価証券報告書の中で、「人的資本投資をさらに拡大することで企業価値を高めていく」と掲げています。具体的には、「無形資産の割合を2030年を目途に現在の44%から80%まで伸ばす」「PBRを1.7倍から5倍に伸ばす」「ROEを10%から25%に伸ばす」といった指標を設定。2017年から21年の間に投じた人的資本への投資額は320億円にのぼりますが、投資の結果、2026年まで560億円の利益を挙げられると推計しています。さらに2024年から28年の5年間では、650億円もの費用を人的資本への投資に振り向けると表明しています。

同社は「人の成長=企業の成長」の理念を根本に置き、働き方改革や対話の文化の創出、多様性の推進などの施策を講じています。たとえば多様性の推進では、「女性イキイキ指数」を創設。男性社員の育休取得率が100%に達し、女性の上位職志向が58%まで上昇するなど、指数は年々上昇しています。これらの取り組みの結果、社員エンゲージメントも向上しました。たとえば「自分が仕事のうえで何を期待されているのか分かっている」と答えた割合は2012年の46%から2022年には80%に、「自分が職場で尊重されていると感じる」は、同じく28%から66%になっています。

双日

双日は2030年に向けて「事業や人材を創造し続ける総合商社」になるとの目標を掲げています。具体的な施策として、人事施策の浸透度を定量的に効果測定しながら取り組みを進めるための「人材KPI」を制定。「女性総合職海外・国内出向経験割合50%」「総合職デジタル基礎修了者100%」「二次健康診断受診率70%」などの目標とその進捗状況を適宜確認し、半期ごとに経営会議や取締役会で経営陣による議論を実施するとしています。

同社は、2017年に開始したエンゲージメントサーベイの結果を重視し、サーベイの結果を人材KPIや役員報酬の一部にも組み込んでいます。さらに2023年からは、「2030年の目指す姿」に向け、全社を巻き込んだ対話型プロジェクト「双日らしさの追求プロジェクト」を開始。人材の力を、会社を動かす原動力につなげる試みに挑んでいます。

サンゲツ

企業の価値は人材価値の総和であると位置付けるサンゲツは、2023年からの中期経営計画の中で、施策の1番目に「人的資本の拡大・高度化・活躍支援」を置きました。具体的には企業理念や人権方針を全従業員が共有したうえで、「職務・職責に応じた人事制度の導入」や「年齢・性差・国籍などによらない能力基準の配置」などを実行するとうたっています。

2026年までの目標としては、「やりがい指数(エンゲージメントサーベイにおける仕事のやりがい肯定率)77%以上」「非喫煙率85%以上」「女性管理職比率25%以上」と、自社の状況に合わせて細かく数値を設定しています。人的資本の取り組みに対して、社長を委員長とするESG委員会のもとに「人的資本分科会」を設置し、四半期ごとに進捗状況をレビューすることを定めています。

企画・編集:『日本の人事部』編集部

Webサイト『日本の人事部』の「インタビューコラム」「HRペディア「人事辞典」」「調査レポート」などの記事の企画・編集を手がけるほか、「HRカンファレンス」「HRアカデミー」「HRコンソーシアム」などの講演の企画を担当し、HRのオピニオンリーダーとのネットワークを構築している。


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