日本企業の生産性向上と利益拡大を実現
人事が取り組むべき「人的資本経営」とは
学習院大学 経済学部 教授
滝澤 美帆さん
経済産業省が2020年に「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~人材版伊藤レポート~」を発表したのを皮切りに、日本企業において「人的資本」への注目が高まっています。2022年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針2022(骨太方針2022)」においても、「新しい資本主義に向けた改革」の中で人への投資と分配が挙げられ、「非財務情報の開示ルールを策定する」と示されており、今後さらに重要性が増していくのは必至です。なぜ今、人的資本が注目されているのでしょうか。また今後、企業の人事はどのように人的資本経営に取り組んでいけばいいのでしょうか。学習院大学経済学部教授で、マクロ経済学や生産性分析を専門とする滝澤美帆さんにお話をうかがいました。
- 滝澤 美帆さん
- 学習院大学 経済学部 教授
たきざわ・みほ/2008年一橋大学博士(経済学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、東洋大学、ハーバード大学国際問題研究所日米関係プログラム研究員などを経て、2019年より学習院大学准教授。2020年より現職。現在は、中央省庁における複数の委員や東京大学エコノミックコンサルティング株式会社など複数の民間企業のアドバイザーを務めている。主な著書に『グラフィック マクロ経済学 第2版』(新世社、宮川努氏と共著)などがある。
GDPに占める人材投資の割合が著しく低い日本
近年、「人的資本経営」への関心が高まっています。「人的資本」とは何か、あらためて教えてください。
新聞などのメディアで「人的資本」をテーマにした記事をよく目にするようになり、皆さんの関心が高まっていることを感じます。しかし経済学の分野では、長年重要なものとして研究されてきたテーマで、決して流行の言葉というわけではないんです。
資本には、モノやサービスを生み出すために貢献するもの、生産活動を行うために投入される要素という意味があります。一般的には、建物や機械など物的な資本を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。一方、人が持っている知識や技術も、物的資本と同様に、モノやサービスを生み出すことに貢献する要素です。ですから、“人の知識や技術も資本として扱いましょう”というのが人的資本の考え方になります。
今注目が集まっている人的資本は、会社に就業した後に、企業研修や教育などを通じて蓄積されるものを指すことが多いようです。もともと経済学の分野では、就業前の学校教育の間に蓄積されるものを人的資本として注目していました。貧しい国の中でも、貧しさから脱却できた国とずっと貧しいままの国がありますが、その鍵を握るのは、子どもたちの教育なのではないかと考えたんです。就業前の教育がGDPにどんな影響を与えるのかという観点から、人的資本の研究が進んでいきました。
このように人的資本は「就業前」と「就業後」に分けることができ、今、日本で注目されているのは後者です。リカレント教育や企業内教育訓練など、就業後の人材のスキルをいかに伸ばし、蓄積していくかを「人的資本」と呼ぶ流れになっています。
なぜ今、日本において人的資本が重要なのでしょうか。
日本は少子高齢化が進んで人口が減っており、これからますます人手不足が深刻化していきます。どのように日本経済を維持していくかは重要な問題です。
国内総生産(GDP)の伸びを主要7ヵ国で比較すると、日本の経済成長率は非常に低い。GDPは国内で産出された付加価値の総額ですから、付加価値を生み出す人が減っている日本のGDPが増えないのは自然な流れともいえます。
では、人口が減っていく中で経済を維持していくためには、どうすればいいのでしょうか。やはり、日本の全労働者一人ひとりがレベルアップしていくしかありません。知識を蓄積し、スキルを向上させ、創意工夫で生産性を高めていく必要があるのです。そのためには、まさに“人への投資”が重要です。政府は3年間で4000億円規模の人的投資を支援する方針を示しています。
日本は先進諸国と比較して、人への投資が少ないといわれています。
そうですね。GDPに占める人材投資の割合を国際比較すると、日本は諸外国に比べて著しく低い数値になっています。データの概念や集計方法などの違いがあるため単純比較はできませんが、アメリカやドイツは、日本の約5~6倍の水準です。
バブル崩壊以降、不良債権問題の先送りにより、適切な資源配分が行われませんでした。企業の財務状況も悪く、削れるところから削っていこうという流れもあったと思います。また、景気低迷を背景に、雇用の非正規化が進んだことも、人への投資が減った理由の一つです。雇用の4割弱が非正規化され、教育訓練費などが大きく削られました。できるだけ人への投資を行わずに済ませたいというのが、これまでの日本企業の本音だったのではないかと感じます。
人的資本の現状から垣間見える、日本企業の課題とは?
日本企業における人的資本投資の状況についてお聞かせください。
私たちマクロ経済学者は、日本企業全体で、教育訓練にどの程度の投資が行われているのかを見ます。教育訓練は詳細な内訳まではデータをとっていませんが、主にOff-JTの取り組みになります。企業で行われる階層別研修や目的別研修、資格取得研修、海外留学への支援などが含まれます。
この教育訓練費を定点観測すると、全体的に増えていないのが実状です。90年代から減少し、データが出ている直近の過去5年間は、ほぼ横ばい。毎年、例年どおりのプログラムが行われ、新しい知識や技術習得への投資ができていないのではないかという懸念があります。
日本では「Off-JT」よりも「OJT」を重視する企業が多い印象があります。「Off-JT」への投資が増えていないことで、どんな問題が考えられますか。
日本のお家芸ともいえる「OJT」はもちろん重要で、早期に業務に慣れたり、効率化したりする上では効果があるといわれています。一方、企業に新しい価値を生み出すイノベーションや、生産性向上に大きく寄与したりするものには、職場外での知識習得をはじめとする「Off-JT」のほうが、効果が高いことが先行研究でもわかっています。「Off-JT」への投資が増えていない日本企業の現状から、新しい価値を生み出すための人的資本投資ができていないと指摘することもできると思います。
業界や企業規模によって、人的資本投資に違いはあるのでしょうか。
製造業と非製造業で分けて人的投資の額を見ると、非製造業、つまりサービス業では人への投資が著しく減少傾向にあります。サービス業では非正規化の割合が高いことから、人的資本が蓄積されていないのではないでしょうか。
また、企業の規模別で見ると、やはり大手・上場企業よりも中小企業のほうが、一人当たりの教育訓練費は低いですね。私が携わっているプロジェクトで試算してみたところ、大手企業では正社員一人当たりの教育訓練費が年間4万~5万円という結果でした。一方、別の統計調査では、中小企業も含む教育訓練費が一人あたり年間1万~2万円と出ています。中小企業の教育訓練費は、大手のおよそ半分以下と推察できます。
日本全体の人的資本を増やしていくためには、大手だけではなく中小企業の人的投資をいかに増やしていくかが重要です。また、非正規雇用の社員に対する人的投資をいかに促していけるかが鍵となるでしょう。
大手企業の正社員一人当たりの教育訓練費は年間4万~5万円ということですが、先進諸国と比較すると低い数字のようですね。
はい。極端な例にはなりますが、Amazonは「12億ドルを投資し、2025年までに従業員30万人が教育や技能訓練プログラムを利用できるようにする」と発表しました。12億ドルというのは、一人あたり年間約17万円。日本の大手企業の年間4万~5万円と比較すると、3倍以上も高い金額です。Amazonの場合は社会性が高く、この取り組み自体が企業価値を高める戦略になっていますが、海外ではこのように人への投資を戦略的に行い、社内外にアピールする流れがあります。
以前、学習院大学経済学部の守島基博教授が、アメリカ西海岸にある企業でインタビューを行ったところ、その企業では、優秀な人材には年間100万円以上を投資するプログラムが用意されていたそうです。コーチングや研修など、個人に合わせて内容がカスタマイズされていたと。日本とアメリカでは雇用慣習や労働市場が異なりますから、一括りに語ることはできませんが、優秀な人材の獲得や教育を重視し、投資をしていくことが世界的な潮流なのだと思います。
人への投資は、企業の生産性向上につながる
人的資本は、どのように計測すればいいのでしょうか。
経済学では全体を把握するために、人的資本の蓄積に要した費用を積み重ねていく方法を採用することが多いですね。「費用ベースアプローチ」といわれるのですが、要は、企業が計上している研修費や教育訓練費を投資額として捉えるという考え方です。
毎年の教育訓練費を積み重ねていけば、その企業がどのくらいストックとして人的資本を持っているかを測れるようになります。ただ、注意が必要なのは、人への投資も、建物や設備などと同じで古くなっていくことです。たとえば3年前に勉強した内容は、時間と共に陳腐化(減耗)していきますし、情報をアップデートしていく必要があります。先行研究によると、人的資本投資の減耗率は25%~40%だといわれていますから、毎年継続的に人へ投資しないと、資本は減っていってしまうのです。
人への投資には研修や教育費のみならず、隠れた数字もありますが、ひとまずは、いずれの企業でも算出できる教育研修費を積み上げて、減耗した分を引き、「人的資本」として見える化することがファーストステップになるのではないかと考えています。
人への投資は、企業の生産性にどのような影響を与えるのでしょうか。
人への投資と企業の生産性については、さまざまな研究が国内外でなされており、いずれの研究でもおおむね「人への投資は企業の生産性に対してプラスの寄与がある」という結果になっています。
ただ、人への投資の場合、「成果が出るまでにやや時間がかかる」ともいわれています。人への投資は、設備投資よりもむしろ利益率が高いことを示した研究結果もありますから、長い目で継続的に、人に投資していくことが重要だと感じます。
興味深いのは、多摩大学の初見康行准教授の研究グループが発表した「人への投資は、企業の生産性に“間接的”に寄与している」という分析です。人に投資すると、従業員エンゲージメントが上がります。仕事への熱量や意欲が高まると、よりよい仕事のやり方を模索したり、問題を解決しようとしたり、従業員の能動的な行動が増えます。その結果、生産性が上がっていくというわけです。
人への投資は、物的投資と比べて、その効果を想像しにくいですよね。「このマシンを導入したら、作業効率を○%改善できます」と言えるようなわかりやすさはありません。ただ、そのマシンを操作するのも、結局は“人”です。飛躍的な生産性向上や、事業における利益を生み出していくために、人への投資は避けて通れないでしょう。半年や1年ではなく長い目で見て、将来のリターンにつなげていこうとする姿勢が大切です。
「人への投資と、生産性や利益には正の相関がある」という研究結果は、経営者や人事が人的資本経営を推進していく後押しになりそうです。
人への投資を増やすと費用が増えるため、どうしても利益が減っていくように見えてしまいます。経営者や幹部、人事は、将来のリターンのために人的資本投資が重要であることを再確認すると共に、投資家や株主に対して、非財務情報として丁寧に説明していくことが大切になるでしょう。
人への投資を減らした場合、企業にはどのような影響が出るのでしょうか。
長い目で見ると、その企業は縮小してしまうと思います。バブル崩壊以降、日本企業が人への投資を減らし、低成長に陥ってしまったことが、まさにそれを象徴しています。
人への投資が少ない企業は、求職者にとっても魅力的な企業ではありませんから、今後ますます労働者が不足していく中で、人材獲得は難しくなっていくでしょう。いい人を採用できなれば、いいものを生み出せず、モノやサービスが売れなくなる。そんな悪循環に陥ってしまうリスクがあります。
既存の研修や教育を効果測定し、新しい投資を仕掛けていく
人的資本の価値をさらに引き出すために、企業が行うべきこととは何でしょうか。
一律の研修や教育を毎年繰り返すだけではなく、従業員一人ひとりの育成プログラムを個人のニーズに合わせてカスタマイズし、提供することが大事になると考えます。そして人への投資に注力していることを、社内外にアピールしていくことも重要です。
また、人的資本の価値をさらに引き出すために、新規技術を採用した設備投資を促進することも大事です。実は日本経済全体でも設備投資は鈍化しており、あまりにも古い機械やIT設備で作業せざるを得ない現場が少なくありません。新規技術を体化した設備投資を促進し、その中で人的スキルを向上させる支援を同時に行っていく。モノへの投資と、人への投資の両方が大切です。
人的資本に注目が集まる中、企業の人事担当者に期待することをお聞かせください。
日本企業の教育訓練費の全体像を見ていると、Off-JTをはじめとする教育研修が固定化されている印象を受けます。企業に付加価値をもたらす新しい取り組みを行っていくためには、現状の教育研修の評価や効果分析が欠かせません。
どんな教育や研修が必要なのかは企業によって異なりますから、丁寧にデータをとって、エビデンスに基づいた評価をしていく。必要な研修を取捨選択し、新しい投資を取り入れていくことを繰り返してほしいと思います。すべての企業において、この研修をやればうまくいくという特効薬はありません。地道な効果分析を積み重ねて、自社に合うスタイルを構築していくことが大切です。
最後に、私が最も重要だと考えているのは、それぞれの企業が広い視野を持ち、社会全体で日本の労働者のスキルやパフォーマンスを上げていくことです。
マイクロソフトは「COVID-19経済下で求められる新たなデジタルスキル習得に向け2500万人を全世界で支援する」と発表し、世界規模で教育訓練プログラムを提供しています。先ほどお話ししたAmazon社の教育プログラムも、「目的は、Amazon自社のためだけではない。従業員が需要の高いスキルを身につけ、新たなキャリアを築けるように支援すること」と述べています。
日本の雇用環境も、今後はより労働市場の流動化が加速していくでしょう。メンバーシップ型からジョブ型に雇用スタイルが切り替わるといった変化も起きています。このような流れの中で「人に投資すると、従業員が転職してしまうかもしれない」「すでにスキルを持っている人を採用すれば、人に投資をしなくてもいい」と考える企業が増えるかもしれません。
しかし、自社の利益や自社への最適化だけを考え、日本経済全体がシュリンクしてしまうようでは、意味がありません。日本経済を構成する一社として社会全体の利益を考え、労働者全体の知識やスキル、技術を高めていこうとすることで、結果的には得られるリターンが大きくなるはずです。
人的資本への注目度が高まっている今、政府の支援策なども活用して、ぜひ人への投資に注力する方向に舵を切ってほしいですね。
(取材:2022年9月5日)
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