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トレンドキーパーソンに聞く2019/06/28

脳の働きを完全に再現したAIはまだない
人間とテクノロジーの得意分野を組み合わせることで
最良の情報処理が期待できる

早稲田大学 研究戦略センター 教授

枝川義邦さん

枝川義邦AI脳科学HRテクノロジー基礎実践

枝川義邦さん(早稲田大学 研究戦略センター 教授)

これまで人事や組織のあり方を研究する学問としては、心理学、行動科学、認知科学などの諸分野が多くの知見を積み上げてきました。それらと比較すると新しい研究分野でありながら、現在注目されているのが「脳科学」。人の意思決定や行動をつかさどる脳の働きそのものを科学的に調べることで、生産性向上やイノベーションを実現し、ビジネスを大きく変革することが期待されています。こうした脳科学と企業経営、組織・人事というテーマに専門的に取り組み、ビジネスの第一線に対してもさまざまな提言を行っているのが、早稲田大学・研究戦略センター教授の枝川義邦先生です。今回は枝川先生に「脳科学の観点から見たHRテクノロジー」についてお話をうかがいました。AI(人工知能)に代表されるHRテクノロジーとは人間にとってどういう存在なのか、どう使いこなせばいいのか。これからの人事にとって避けて通れない問題を解決するための貴重なヒントが詰まっています。

プロフィール

えだがわ・よしくに/東京大学大学院薬学系研究科博士課程を修了して薬学の博士号、早稲田大学ビジネススクールを修了してMBAを取得。早稲田大学スーパーテクノロジーオフィサー(STO)の初代認定を受ける。研究分野は、脳神経科学、人材・組織マネジメント、研究マネジメント。早稲田大学ビジネススクールでは、経営学と脳科学とのクロストークを視座に置いた講義を担当。一般向けの主な著書には、『「脳が若い人」と「脳が老ける人」の習慣』(明日香出版社)、『記憶のスイッチ、はいってますか~気ままな脳の生存戦略』(技術評論社)、『「覚えられる」が習慣になる!記憶力ドリル』(総合法令出版)など。

企業経営や人事にも応用できる「脳科学」

脳科学とはどのような学問なのでしょうか。

一言で言えば、脳の仕組みや働きにアプローチする学問です。かつては「神経科学」という、脳だけでなく、臓器や筋肉を動かす神経についての研究分野の一領域でしたが、1990年代に脳の透過写真を連続的に撮影できる装置、fMRI (ファンクショナル エムアールアイ)が汎用化されていく中で、脳を丸ごと研究する分野が飛躍的に発展しました。人間がどう考えているときに脳のどの部分が活動しているのかを具体的に調べることが可能になったことで、脳科学という分野が確立してきたのです。その意味で、現在の「脳科学」は、学問としてはまだ新しい分野といえます。

脳科学とビジネスとの関わりが意識されるようになったのは、2000年代初頭の「ニューロマーケティング」に関する研究が発表されたころからでしょう。マーケットリサーチ自体は歴史が古いものですが、ニューロマーケティングは脳の働きを調べることで、人がその商品を心から、というより脳から欲しているかどうかを解明するという研究です。その論文が有名な神経科学の雑誌に掲載されたことで、多くの研究者たちが「こういうアプローチの研究もあるんだ」と気づいたわけです。

現在では、企業経営や人事分野への応用にも関心が高まっています。

枝川義邦さん(早稲田大学 研究戦略センター 教授)

人事や組織との関係でいえば、かつては産業心理学や組織心理学、行動科学、認知科学といった学問が人間の行動を説明してきました。そこでは、人や脳は一種の「ブラックボックス」であり、どんなインプットに対してどんなアウトプットがあるのかを数多く調べることで、ブラックボックスの中身を推測していくやり方が一般的でした。しかし脳科学では、そのブラックボックスとされた脳の働き自体を、先述のfMRIなどを使った実験によって調べていきます。インプットに対して脳内でどんな情報処理の仕組みが働いて、アウトプットとしての考えや行動が出てくるのかを、一気通貫で説明できるのが大きな違いといえます。

脳科学はまだ新しい学問なので、人間の行動を説明できる部分とできない部分があります。ただ、カギになる部分については徐々に説明がつくようになってきました。例えば、人と人のコミュニケーションの際、脳でどういうことが起こっているのか。意思決定は脳のどんな働きによって行われているのか。ビジネスの現場で日々行われているこうした行動に、脳がどう関わっているのかがわかれば、科学的であることの条件の一つである「法則の再現性」が期待できます。「こういう条件のときには脳がこう働くから、人はこのように行動しがちである」といったことが説明でき、さらに予測も可能になるわけです。

人の行動は単純なものではありませんが、ビジネスや経営の現場のように変化のスピードが非常に速く、対象をなかなかとらえきれない場面では、人の根源的な性質を科学的に説明できる脳からのアプローチがかえって有効になる。そういう期待が高まっているのだと思います。

脳の学習の仕組みを取り入れた「ディープラーニング」

HRテクノロジーの領域では、AI(人工知能)が注目されています。AIのディープラーニングと脳科学にはどのような関係があるのでしょうか。

現在のAIは「第三世代」といわれていますが、カギになっているのは「ディープラーニング」という技術です。かつては「機械学習」が行われていましたが、それは先生役の人間があらかじめ用意した情報をAIに与えて学習させるもの。いわば受動的な学習でした。それに対してディープラーニングは、AIが自発的に学習するという点で、人間の「知能」が発達していく過程により近いものを備えているといえます。

実際にディープラーニングは、人間の脳が学習する仕組みをモデルに開発されたものです。人間は赤ん坊から大人へと成長していく間に、学校の勉強以外にも日常生活の中でさまざまなことを学んでいきます。このような体験型の学習に近いことをAIが自発的にできるようにしたのがディープラーニングなのです。猫の写真を1万枚見せると、AIは次に「猫のようなもの」が来たら、その特徴をつかんで「これは猫だ」と認識できるようになります。特に今のAIは、こうした画像認識の面ではどんどん進化しています。

脳の働きを解明することがディープラーニングの技術につながった、ということですね。

ただ、ディープラーニングもまだ完全ではありません。脳の働きをモデルにしていると言いましたが、人の脳内には学習を成立させるためのパスがいくつもあり、それらをすべてAIに組み込めているのか、という疑問があります。人の知能を代替するものとして期待するなら、見落としているパラメータがあっては、完全には実現しないでしょう。また、そもそも現在の脳科学研究自体が「学習」という現象のすべてを解明できているのか、という問題もあります。「ある程度でいいんだ」と割り切って研究・開発を進めていくという考え方もあると思いますが、少なくとも現在のAIやディープラーニングが発展途上であることは、意識しておいたほうがいいでしょう。

AIを含めて、HRテクノロジーの活用が広がっています。この状況をどのようにご覧になっていますか。

テクノロジーの良さは、「人ができない仕事」や「やりづらい仕事」を効率的にこなしてくれることです。活用が進むのは、基本的には良いことだと思いますね。よくAIについて「使いこなすのか、使われるのか」といった論調があり、専門家や有識者の間では真剣に議論が進められているところではありますが、現状のAIは特定の領域、例えば画像処理だったら人よりも優れている、といった段階です。こういうAIはまだ「弱いAI」ですから、アニメの鉄腕アトムやドラえもんに搭載されているような「強いAI」、すなわち汎用型のAIのような、自分で判断して自分の意思のもとに動いて、人とのコミュニケーションもこなしていくようなAIが実現したときには、どうやって共存しようかという、いわゆる「シンギュラリティ」に近い問題も出てくるかもしれません。しかし、今の段階では、決められた範囲の仕事を人以上の能力でやってくれる「ツール」として、大いに活用すればいいと思います。

人の「直感」は「パターン認識」であることが多い

HRテクノロジーを活用することで、人事もアナログな「経験と勘」からデジタルな「データとエビデンス」にシフトしていくべきだという議論もあります。

人の意思決定、情報処理の特徴は「ヒューリスティクス」を活かしていることです。ヒューリスティクスとは、結果の精度は粗いながらも、結果が導かれるまでの時間が短いという人間らしい判断を指しますので、インプットされる情報が限られている場合でも、ある程度は納得感のある判断を下すことができます。しかし、初期のAIは「あらゆる組み合わせの中から最適解を探す」ことをしていたので、例えば「今日のランチには何を食べようか」といった漠然とした問題には、短い時間では対応しきれませんでした。しかし、人間ならヒューリスティクスに基づいて「昨日はカレーだったから、今日はラーメンにしよう」とすぐに決定できます。

こういう話をすると、「AIはまだまだだ」というエピソードとして理解されがちなのですが、ヒューリスティクスによる直感的な判断は、実は「パターン認識」をもとに行われていることが多いのです。経験豊富な経営者が的確な判断ができるのも、これまでにいろいろなパターンを知っていて、意識レベルにのぼらないところでパターン認識をしているからでもあります。このパターン認識こそ、AIなどのテクノロジーが得意な分野なので、将来的には人の判断に近い状態になることは十分に予想されます。

ただし、人事分野においても今すぐに「経験と勘」から「データとエビデンス」に切り替えよう、という話ではありません。「こういう人材を探してほしい」という声を受けて、たくさんの候補者の中からスペックを基に選び出すような作業はまさにパターン認識なので、テクノロジーを使ったほうが速いし余計なバイアスも排除できます。注意しなければいけないのは、そのパターンを構成するパラメータが適切かどうか。人が「なんとなく良い」と感じるのは、見えていないパラメータを意識しているからかもしれません。そういう目に見えないパラメータまで加味しきれるとなれば、AIなどのテクノロジーを使ったほうが効率的に情報を処理することができるでしょう。

パラメータを出しつくせない分野は、人がやるべきだということでしょうか。

このようなテクノロジーを動かすプログラムには、いくつものパラメータを含める必要があります。プログラムを組む時点で存在しているパラメータは盛り込めますが、ないものは盛り込めません。つまり、現時点で脳科学でも解明できていない部分は、当然AIにも実装できない、ということになります。そのように目には見えず、文字にもできないけれど「確かに感じる」部分を持っているのは、人の特徴の一つでしょう。それこそが、現在のAIが完全に人にとってかわることができない大きな要因だと思いますね。

数値化できない人の直感も大事だということですね。

枝川義邦さん(早稲田大学 研究戦略センター 教授)

そう思います。汎用型の「強いAI」ができたときには「人が感じることがわかる」ようになるのでしょうが、今はまだそこまで至っていません。現在のディープラーニングは、基本的に視覚情報を処理しているとなれば、人間の「五感」のうち一つしか処理できないわけです。人は脳の内部で五感それぞれの情報を処理すると同時に、組み合わせた処理も行っています。AIもそこまでいかないと人の脳を投射したものとはいえないし、人と同じレベルの意思決定ができるようにはならないでしょう。

確かに「人材の適材適所を決めるのに五感が必要なのか。プロファイルに基づいて合理的に決定すればいいではないか」という考え方もあるでしょう。実際、近年のテクノロジー活用は、人事におけるバイアス排除が大きな目的となっています。ただ、現実の人事では「合理的ではないが最適」という人材配置もあるわけです。それができるのは今のところ人間だけで、AIには不可能です。それぞれの人材が持つ「雰囲気」のようなものは、人にしか感じられませんから。一説によると、会議などの席で人の序列や優劣を決めるのは「匂い」だともいいます。動物の場合などはある程度はっきりわかっていますが、人間の場合は潜在的にしか感じられない程度でしかありません。しかし、多くのコミュニティーがそういった要因で動いているようなふしもあります。

テクノロジーをどこまで使えばいいのかを決めるのが難しいですね。

合理性だけでよければ「すべての人が完璧に合理的で判断も間違えないし、後悔もしない」という、まさに従来からの経済学がモデル化しているような世界になってしまいますね。しかし、それを現実の人間社会に求めることができるのか。やはり無理だと考えられ、行動経済学などが注目されていますが、組織とテクノロジーの関係もそれに似ているように思います。

テクノロジーに「使われない」ためには何が重要か

HRテクノロジーの中でも、例えばVR(仮想現実)を使った研修や、社内コミュニケーションにチャットアプリを活用するといった動きも出てきています。脳科学の観点からどう捉えていらっしゃいますか。

VRについては、コンテンツの精度が重要です。実際には経験できないことを疑似体験できるという点では有効なツールですが、利用者がどこまで「リアル」だと感じるか。人はすでに持っている記憶情報に感情などの付加情報を上書きして、それを体験として留めます。入ってきた情報にどこまで感情を乗せられるのか、また、過去の記憶と照らし合わせることができるのかによって、効果も変わってくるのではないでしょうか。

チャットアプリや社内SNSなどによるコミュニケーションは、時間を含めた物理的距離を短縮できること以外にも、心理的な負担を減らすメリットがあります。脳科学的にいうと、対面でのコミュニケーションは、リアルタイムでの意思決定の連続です。話の本筋以外のところでも脳は大量の情報処理をしなくてはいけないし、相手の言ったことを覚えておこうとすると脳内のメモリーも圧迫されます。これを面倒だと感じる人は多いのですが、テクノロジーを利用すれば、煩雑な部分を省略して本題に集中でき、同時にログ(議事録)を取ることもできます。

ただ、文字だけのやりとりの場合、五感情報が伝わらないので、行間の空気を読むスキルが求められます。映像のあるビデオ会議などでも、共有領域が少ない分、同じ会議室にいるときとは違いがあります。同じ景色を見ることで得られる共感が少ないなどとなると、人によっては直接会うときよりも脳を使うことになるかもしれません。

最後にHRテクノロジーの活用を考えている人事の方にメッセージをお願いします。

HRテクノロジーには、有用なものが次々と誕生しています。それらを排除する必要はないですし、どんどん利用すればいいと思います。しかし、すべての人は、一人に一つずつの脳を持っています。しかも、仕事を通してさまざまな経験も積んでいるわけです。自身に自信を持ちながら同時にテクノロジーもうまく活用していく、というスタンスで取り組めば、得られるメリットが多くなると考えます。人はヒューリスティクスで判断するので、バイアスがかかりやすい特性があります。それを補ってくれるツール、という意識で付き合うのもいいのではないでしょうか。

AIなどによる分析結果に100%頼ってしまうと「AIに使われる」第一歩になりかねません。それを防ぐには、出てきた情報の裏をとってみる、パラメータを変えてみる、違う計算方法をさせてみる、第三者の意見を聞いてみるなど、「ひと手間かける」ことが効果的です。そういったことができれば、最終的に自分で判断するとしても、人が持つゆらぎや脆弱性につながるバイアスを排除することも可能になり、意思決定など、脳の働きによる活動を強化することにつながるでしょう。

枝川義邦さん(早稲田大学 研究戦略センター 教授)

企画・編集:『日本の人事部』編集部

Webサイト『日本の人事部』の「インタビューコラム」「HRペディア「人事辞典」」「調査レポート」などの記事の企画・編集を手がけるほか、「HRカンファレンス」「HRアカデミー」「HRコンソーシアム」などの講演の企画を担当し、HRのオピニオンリーダーとのネットワークを構築している。


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