目指すのは、テクノロジーを事業につなげる「構想力」を育むこと
キリンホールディングスが描くDX戦略とデジタル人材育成の具体策
キリンホールディングス株式会社 執行役員 経営企画部長
秋枝 眞二郎さん
DXのトレンドが広がる中、多くの企業でデジタル人材の育成が急務となっています。技術領域そのものが日々進化を続ける今、効果的にデジタル人材の採用・育成を進めるためには何が必要なのでしょうか。そのヒントとなるのがキリンホールディングスの取り組みです。マーケティング分野でのデジタル化をいち早く進めてきた同社では、2020年に新しく「DX戦略推進室」を立ち上げ、「DX道場」をはじめとした人材育成施策を運用しています。一連の取り組みの背景や目的について、キリングループのDX戦略を管掌する秋枝眞二郎さん(キリンホールディングス株式会社 執行役員 経営企画部長)にうかがいました。
- 秋枝 眞二郎さん
- キリンホールディングス株式会社 執行役員 経営企画部長
あきえだ・しんじろう/1988年キリンビール入社。ビールの営業と営業企画に従事し、2010年からの3年間は台湾における販売会社である台湾麒麟麦酒の社長を務める。メルシャン(ワイン)、キリンビバレッジ(清涼飲料水)、キリンビール(酒類)の事業会社3社で企画部長を歴任し、2019年より現職。2020年から2021年にかけては新設されたDX戦略推進室の室長を兼務し、キリングループのDX推進を牽引。
事業の現場では多種多様なDXが進んでいる
現在、多くの企業でDXの取り組みが最重要課題となっています。キリングループではDX戦略や方針をどのように描いているのでしょうか。
DXは今や「スーパーバズワード」と言える状況になっていますね。業界や企業によって、その定義や捉え方はさまざまだと思います。
当社においては、ホールディングスが中心となって一律にDXを進めていくのではなく、それぞれの事業でデジタル化を幅広く進め、ビジネスの変革につなげていくことを目指しています。
キリングループには、一般的に広く認知していただいているビールや清涼飲料水などを扱う各事業会社のほかに、医薬やヘルスサイエンス分野の事業会社もあります。それぞれの事業の現場では、製造プロセスの細かな効率化などを含めて従来のIT化の延長にはとどまらない多種多様なDXが進んでいるのです。DXというと、とかく大きな話になりがちですが、私たちは小さなプロセス改革も重視しながらビジネスの変革を進めたいと考えています。
キリングループといえば、デジタル化に早くから取り組んでいる企業として認識している人も多いのではないでしょうか。
キリングループは1990年代から、当時「IT化」と呼ばれていた変革に取り組んでいました。コーポレートサイトもかなり早い段階で開設しており、2000年代末には月間1000万PVを記録していたほどです。その意味で、かつてはITの先進企業だったのかもしれません。
しかし、SNSが普及し、デバイスが急速に進化していく中で、私たちが構築してきたIT資産は通用しないものになってしまいました。それを認識したのは2013年ころです。そこでマーケティング分野からデジタル化を再スタートし、専門部署としてデジタルマーケティング部を作りました。デジタル媒体を作るだけでなく、デジタルを活用したコミュニケーション手段も開発してきました。
その結果、マーケティングにおいては成果が見られるようになりましたが、一方で営業や経理といった各部門を見ていくと、昔から変わっていないところがほとんどでした。世の中が変わっているのに、ビジネスのやり方がまったく変わっていなかったのです。「このままでは持続可能なビジネスの体制を作れないのではないか」という危機意識のもと、2015年からは業務改革にも取り組み、統合業務パッケージの導入などを進めていきました。
「着実に、安定的に」という従来の意識とは切り離された新チーム
2020年4月には新たに「DX戦略推進室」を設立されています。立ち上がった背景をお聞かせください。
私は経営企画部門の責任者として、DX戦略推進室を立ち上げるプロジェクトに従事してきました。
新しいことをやろうとすると、従来のIT化を進めてきた情報部門やシステム系子会社は二律背反の状態に陥ってしまうことがあります。キリングループでは従来、基幹システムを自前で開発し、10年単位で作り替えてきました。しかし今後は、同じ方法は取れません。技術トレンドの移り変わりがさらに激しくなっていく中では、最新の状態で提供してくれるクラウド型の標準ソフトを導入していくことが求められます。
従来の情報部門やシステム系子会社は、そのミッションの特性から「着実に、安定的に」という意識を強く持っています。これは強みである一方、新たなステージでアジャイルにプロジェクトを進めていく際には障壁にもなり得るのです。場合によっては、自らこれまでの仕事の仕方を否定しなければならないかもしれない。そのため、新たな部隊を作って運用していく必要があると考えました。
経済産業省のDXレポートにおける「2025年の崖」の文脈では、従来の基幹システムに携わってきた技術系人材のスキルチェンジの重要性が叫ばれていますね。
当社でもまさに、そうした課題と向き合ってきました。従来の情報部門で働く人材のスキルチェンジは、多くの企業に共通する悩みだと思います。いわゆる「守りのIT」と言われる分野で活躍してきた人材に、どのようなステージを用意できるのか。
私たちは、守りのITを運用してきたスキルは、クラウド化しても十分に生かされると考えています。今後ますます重要となるデジタルデータを使いこなすには、データをきれいにするためのクレンジング作業が必要。この業務では基幹システムの運用・保守に携わってきた経験とスキルが大いに役立つからです。従来の専門性を生かすことも、もちろん新しい技術にチャレンジすることもできる。その意味では可能性はむしろ広がっていると考えています。
求められるのは、テクノロジーを事業に生かすための「構想力」
DX戦略推進室の立ち上げにあたっては、どのような人材を集めましたか。また、メンバーにはどのような資質やスキルを求めましたか。
デジタルマーケティング部門のメンバーを中核に、従来の情報部門において事業側から請け負ってAI開発をしてきた部隊や、マーケットリサーチ部門でデータ分析を担ってきたメンバー、加えて私のように事務系で経営管理などを担ってきた人間を混成して、約20人のチームを作りました。
求める資質やスキルで最も大切なのは「構想する力」です。デジタル分野のプログラミングなどのテクニカルなスキルだけではなく、AIなどの新たな技術の特徴を見て、私たちのどの事業の、どんな業務に活かしていけるのかを考える構想力が必要なのです。この力がなければ結局は何もできません。現時点はもちろん、将来的にも高め続けていきたい力として、今も「構想力を高めよう」と言い続けています。
とはいえ、構想力を高めていくことは簡単ではありません。DX戦略推進室の立ち上げ当初は、私自身も一生懸命に構想を描きました。私はメルシャン、キリンビバレッジ、キリンビールと各事業会社を渡り歩いてきているので、その経験をもとに「どの事業の、どの部門で、どんなプロセス変革ができるのか」を、アーリーサクセスを実現できるかという点も踏まえて提案してきました。
まずは当初に設定したいくつかの重点テーマに取り組みつつ、DX戦略推進室のメンバーが各事業部門と会話しながら、新たなアイデアの種を探しています。部門内では「100のアイデアの中から一つを選ぶ」といったアイデアコンテストも実施しており、そこで選ばれたアイデアについてのPoC(※)計画書を書いて実行に移しています。
※Proof of Concept:概念実証……新たなアイデアやコンセプトについて、その実現可能性や、実行によって得られる効果などを検証していくこと。
新規事業開発チームのような動きをされているのですね。
確かに新規事業の立案に近いのかもしれません。実際に事業を考えることもありますし、ビジネスの構造そのものを変革することもあります。
例えば、DX戦略推進室ではビール製造から物流に跨る業務のプロセスを大きく変えるチャレンジをしてきました。ビール製造は、従来は大きな工場を作って100パーセント稼働させることで原価を下げ、安い物流コストで全国へ運ぶビジネスモデルでした。しかし2010年代後半から運転士不足などが原因で物流コストが増大し、今後はドライバーの健康に配慮した新たな労働時間規制の導入が予定されています。いくら工場の原価を下げられたとしても、物流コストは高まる一方ですし、トラックが確保できず、商品の安定供給もままならない状況になりかねません。それなら大規模な工場で大量に作って全国に運ぶスタイルから、製造効率は落ちるものの、消費されるエリア近郊の小規模な工場で製造して運んだ方が、結果的にサプライチェーントータルのコスト削減や安定供給につながるかもしれません。
この構想に基づいて市販のクラウドソフトを導入し、シミュレーションを開始しました。1年間のPoCを経て、2021年には実際にキリンビールのサプライチェーン改革に取り組んでいます。
一口にビールといっても、製造品種(SKU)数百種類あり、運送ルートは全国に2000近くのパターンがあります。テクノロジーによってこれらの組み合わせを一瞬で分析し、従来は別々に動いてきた生産部門と物流部門をデータによって連携させて、最適解を弾き出そうとしているところです。
三つのルートで人材を集め、PoCを繰り返す
現在、多くの企業がデジタル人材の採用・育成に苦戦していると言われます。日本企業におけるデジタル人材育成の状況をどのようにご覧になっていますか。
需要の大きさに対して、デジタル人材が圧倒的に不足しているのは事実だと思います。ありとあらゆる場所にテクノロジーが導入されている今、オペレーションを担う存在としてプログラムがきちんと書ける人材の必要性が高まっていますが、そもそもこうした基礎能力を持つ人の絶対数が大幅に足りない、という企業も多いのではないでしょうか。
加えてDXの担い手としてデジタル人材を考えるなら、必要になるのはやはり構想力を持つ人材でしょう。DXの「D」については大部分をAIに担ってもらえるかもしれません。しかし、AIに何をさせるのか、出てきた仮説をどのように活用してビジネスプロセスに当てはめていくのかを考える構想力を持つ人材が足りないと、いつまで経っても「X」が進みません。
多くの企業ではデジタル人材とともに経営人材育成も課題に挙がっていると思いますが、テクノロジーと事業を接続していくという意味では、この二つは同じ課題だと言えるかもしれません。
キリングループでは、どのようにしてデジタル人材の採用・育成を進めているのでしょうか。
まずは採用の入り口を見直しました。従来、新卒採用は事務系と技術系に分かれていたのですが、ここに新たに「デジタルICT戦略コース」を設けています。学生時代にプログラミングなどを学び、それを活用したビジネス変革に携わりたい考える人を迎え入れています。2021年卒から受け入れを始め、22年度は新卒全体の1割近い人数となる見込みです。今後はさらに、デジタルICT戦略コース入社の比率が高まっていくと思われます。
中途採用でもデジタル人材を常時募っており、DX戦略推進室のメンバーが毎日のように採用活動を行っています。ここでの採用は「プログラムが書ける」といった要素ではなく、「以前の職場でテクノロジーによる変革を行ってきた人材かどうか」で判断していますね。
さらに自社内でも公募を行っているほか、「DX道場」という育成プログラムを通じてDX人材の育成を進めています。
この三つのルートで人材を集めることに加えて、構想力は経験なくして育たないものなので、常時30ほどのPoCを回していますね。すべてのPoCがうまくいく訳ではなく、ファーストステップでつまずくものも多いのですが、「やってみて、失敗して、経験を得て……」のプロセスを繰り返していくしかないと考えています。
DX道場で「自律的に変革が進む」風土を目指す
「DX道場」とはどのようなもので、どんな育成を目指しているのでしょうか。
2021年7月から、グループ従業員を対象にした育成プログラム「キリンDX道場」を開始しました。「白帯」「黒帯」「師範」とステップアップしていく仕組みで、最終的には構想力を持つ人材を育てたいと思っています。
最初の「白帯」は最低限の知識を得るためのステップ。世間におけるDXの潮流やキリングループでのDXを学び、DXの必要性を認識してもらいます。加えて、基礎的なデータ分析手法を学び、学んだことを自分の仕事にどう活かすのかまで考えてもらいます。
「黒帯」になると、より具体的な内容を学びます。実務を想定したケースに対していくつかのテクノロジー・ツールを活用してみることで、デジタルによる業務変革を疑似体験してもらいます。外部のノーコードツールなども使いこなし、効果的に自部署で導入していけるレベルを想定しています。
そして「師範」の段階まで来れば、自身でどんどんプログラムを書けて、部門単位の構造改革も構想できるようになります。まさにPoCを回していける人材ですね。
それぞれの段階で、どのように対象者を切り分けているのですか。
白帯は、事務系の職種や工場でのオペレーション管理を行う人材を対象としており、手挙げ式で参加してもらっています。2024年までの3年間で約1,750人の白帯認定者を輩出したいと考えています。
白帯認定者は、次に黒帯へ挑むこととなります。目指しているのはキリンビールなどの各事業会社やキリンホールディングスの各機能部門の中に全て黒帯の人がいるような状態になること。それぞれのユニットで自律的にDXを進めてほしいと考えているので、私たちから指名して学んでもらうこともあるでしょう。どんな部門・チームにも変革の種があるはずなので、みんなが技術やプロセス変革に興味を持てる風土を作っていきたいと思っています。黒帯については、2024年までに750人を目標としています。
師範については、最終的には100人規模にしていきたいですね。広い事業領域をカバーしていくには、これくらいの人数が必要です。
ここまで大規模な人材育成施策を内製で行うこと自体、大きな労力を要するものだと思います。貴社はなぜ内製に注力しているのでしょうか。
目的が「現場に変革を起こすこと」だからです。外部研修での学びでも面白みを感じ、興味をかき立てられることが多いと思いますが、自分たちのビジネスで活用するところまではつながりにくいのではないでしょうか。手間はかかりますが、自社での活用と、その先の変革につながる育成プログラムを作ることが必要だと考えています。
グループ会社間・事業間での連携を強め、知見を横展開していく
DX戦略推進室としては、今後どのような活動をお考えですか。
直近では、各事業のユニットが自走できるように「DX推進委員会」というマトリクス型の組織を作りました。各グループ会社のDX責任者を任命し、グループ会社間で集まって活動してもらっています。2022年度以降は、グループ会社内の機能部門間で連携し、情報交換を進めて各事業の知見を自然と横展開できるようにしたいと考えています。
グループ会社同士の連携は簡単ではありませんが、当社では日本国内のグループ会社間での人事異動を頻繁に行ってきているため、一定のアドバンテージがあると思います。ただ、酒類に清涼飲料水、医薬、ヘルスサイエンスといった事業特性の違いや、グローバルでの環境の違いは大きいので、真の連携や横展開にはまだまだ時間がかかることも覚悟しています。
大切なのは、できることから動かしていくことでしょう。「完璧にやろう」と思うといつまでも動けません。冒頭でも申し上げたように、それぞれの事業の現場で小さな変革を起こしていくことが大切なのだと考えています。その先に、お客さまへ新たな価値を提供するデジタル・カンパニーとしての未来が待っているはずです。