伝統的日本企業と人的資本経営
「人的資本経営」は日本よりも先に欧米で広がりを見せましたが、「従業員を大切にする」という思想そのものは、日本企業が古くから持っていたものといえます。日本企業のこれまでの歩みを振り返りながら、伝統的日本企業と従業員の関係性を考えます。
人を大事にする日本企業の考え方
日本にはかねてより、自らの利益のみを追求しない姿勢の事業者の姿が目立ちました。2022年に日経BPコンサルティングが発表した世界の企業長寿企業ランキングでは、世界の創業100年以上の企業のうち、日本企業が実に50%を占めることが示されています。また創業200年以上の企業では65%と、さらにその割合は大きくなります。日本企業は短期的な利益ではなく“長く存続すること”に価値を置き、従業員や地域とともに歩んできたのです。さまざまな有名企業や人物も、ステークホルダーを重視する姿勢を明確に打ち出しています。
近江商人「三方よし」
江戸~明治時代にかけて、日本各地で活躍した近江商人。彼らが大事にしていたのが、「三方よし」の精神でした。三方よしとは、「買い手よし」「売り手よし」「世間よし」を指します。彼らは、あらゆるステークホルダーが価値を感じられる商売を重視していたのです。これは現代のCSR(企業の社会的責任)に近い概念といえます。近江商人の活躍の範囲は北海道から九州まで幅広く、得た利益は、橋や学校を無償で建てるなど、社会活動のためにも使われました。
渋沢栄一「論語と算盤」
“日本資本主義の父”と呼ばれた渋沢栄一は、「合本主義」という言葉を好んで用いました。「公益追求や目的達成のためには、最も適した人材と資本を集め、事業を推進させる」という考え方です。渋沢は1916年に、『論語と算盤』を発表。その中で、「論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの」、つまり、利潤追求と道徳は一見かけ離れているようでいて、経営には常に道徳が必要であり、道徳には実利的観点からの実践が必要であると強調しました。
松下幸之助「企業は人なり」
松下電機(現パナソニック)の創業者である松下幸之助は、「企業は人なり」「松下電器は人をつくるところ」といった信念を持っていました。松下は1977年に発表した『人事万華鏡』の中で、「事業は人を中心として発展していくものであり、その成否は適切な人を得るかどうかにかかっているといってもいいだろう。いかようにも変化する心を持った人間だから、やり方しだい、考え方しだいで、その持てる力をいくらでも引き出し、発揮させることもできる」と述べ、人材の大切さを説いています。
現代に及ぼしている影響
これらの考え方は、いまも脈々と日本企業に息づいているものといえます。たとえば「三方よし」の精神を経営理念に取り入れている企業は少なくありません。近江商人の伊藤忠兵衛が創業した伊藤忠商事もその一つ。「ESGレポート2023」の中では、同社が160年を超えて発展してきた理由について「『三方よし』の精神を実践してきたから」と明言しており、「『三方よし』は、世の中に善き循環を生み出し、持続可能な社会に貢献する伊藤忠の目指す商いの心」と謳っています。
渋沢栄一は、その生涯で多くの企業の設立にかかわりました。1873年には抄紙会社(現王子ホールディングス)を設立。王子グループは、渋沢の精神を現在も受け継ぎ、その考えを「革新的価値の創造」「未来と世界への貢献」「環境・社会との共生」という三つの経営理念に落とし込んでいます。また渋沢栄一については、アメリカの経営学者ピーター・ドラッカーが高く評価していたことが知られています。
パナソニックは創業以来、一貫して人材を重要な資本として捉えてきました。これはまさに、「人的資本経営」の考え方ともいえます。パナソニックは自社の人的資本経営を、「一人ひとりが自主責任感に基づき挑戦する社員稼業と、互いに言うべきことを言い知恵を出し合う衆知経営からなる自主責任経営」としています。この実践をグループ共通の経営戦略としたうえで、グループの存在意義である「物と心が共に豊かな理想の社会の実現」の具現化を目指しています。
高度経済成長を支えたOJT
戦時経済下で成立した日本的雇用慣行
かつての日本企業が従業員を重視する動きは、決してごく一部の企業の話ではありませんでした。その大きな要因となるのが、戦時経済下で誕生した「日本的雇用慣行」です。もともと戦前の日本においては、転職を繰り返す労働者の姿が多く見られました。とりわけ日中戦争以後は異動が激化したことから、企業は定期昇給制を採り入れるなどして、従業員の異動の防止に努めるようになりました。国も戦時下での挙国一致の方針のもと、1941年に「労務調整令」を発出するなどして、重要産業での転職や解雇を制限。その一方で、退職までの雇用を保証する動きを強めました。
年功序列で賃金が上がっていき、退職までの雇用を保証するという仕組みは、戦後の復興期においても、労働力を確保したい企業と生活の安定を求める労働者双方のニーズと合致しました。そこで戦後は大企業が中心となってこの仕組みをさらに整え、「新卒を一括採用し、定年まで雇用する。年功序列の給与体系を取り、企業別組合で労使協調を図る」という慣行が一般化していきました。アメリカの経営学者アベグレンは、ここに見られる「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」の三つを日本的経営の特徴であると述べています。
長期雇用の保障と従業員への投資で高い生産性を実現
高度経済成長期に入ると、OJTの考え方が日本に輸入され、大企業を中心にOJTを行う企業が増加しました。日本企業はOJTの形で従業員への投資を行ってきたといえます。ただし、OJTは既存の事業の進め方を効果的に学ぶにはうってつけですが、そこで培われるのはその会社でしか通用しない「ファーム・スペシフィック・スキル」が中心。労働者は、自分のスキルが外部で通用せず、勤務期間の長さが給与に反映されることから、転職の意欲が必然的に低下します。
企業からすれば、年功序列の賃金体系には、従業員のロイヤリティを高めて離職率を低下させ、長期プランでの人材育成が可能となるといったメリットがあります。さらに高度経済成長期には、とりわけ大企業において大量の若い労働者を一括採用し、少数のミドルシニア~シニア社員が彼らを監督する構図となっており、年功序列の賃金体系はそのような状況にマッチしました。日本人が得意とする「モノづくり」ともうまく適合し、日本経済は大きく発展。年功序列の賃金体系は、従業員の年齢が上がるにつれて人件費が増大する側面はあったものの、高い成長率が人件費の高騰を十分にカバーしていました。
バブル崩壊で「成果主義」に注力
成果主義の導入
ただし、日本的雇用慣行は、ひとたび不況になると重い人件費負担が企業を圧迫することになります。ニクソンショックや二度のオイルショックからなどから低成長時代に入ると、人件費の高騰から年功序列の賃金体系の見直しを求める声も上がり始めましたが、バブル経済に突入したことで、その声は小さくなりました。バブル時の1989年、世界時価総額ランキングにおいて日本企業は実に上位10社中7社を占めており、日本的雇用慣行は日本企業の強さの源泉として、世界中からも注目を集めました。
しかし、バブル経済が崩壊すると、そのような状況は一変します。日本企業の経営戦略は世界に通用しなくなり、ITの進展や経済のグローバル化に伴う国際競争の激化、従業員の年齢構成の上昇といった要因から、さまざまな領域での変革を推し進めることが強く求められるようになりました。人事領域においては、年功序列や長期雇用のデメリットが大きく取り上げられるようになり、従業員を解雇したり欧米流の成果主義を導入したりする企業が増えるなど、雇用のあり方が少しずつ変化していきました。
バブルの崩壊により、従業員への投資に回す金銭的余裕が大いに減少しました。また「短期間で成果を出す」ことが強く求められるようになった結果、従業員への投資は“削減すべきコスト”としてみなされる傾向が高まりました。その結果多くの企業が人に投資しなくなっていったのです。
「人的資本」に再び焦点が当たる
1990年代、欧米で「人的資本」に注目が集まる
人材を資本と捉える考え方は、イギリスの経済学者であるアダム・スミスが18世紀に記した『国富論』にその起源を見ることができます。そして第二次世界大戦後、アメリカの経済学者であるセオドア・シュルツやゲイリー・ベッカーらが、その考え方を「人的資本」として再定義したことで、広く知られるようになりました。当時すでに、人的資本への投資を通じて、労働者の生産性を高めることが企業の発展につながると考えられていたのです。
この考え方は1990年代に入り、技術革新やグローバル化、産業構造の変化や企業の社会的責任などが重視されるようになったことで、より注目されるようになりました。とくにリーマンショック以降は中長期的な視野からESGに注力している企業に投資するESG投資が広がり、企業価値における無形資産の重要性も上昇。人的資本に関するフレームワークや法律も次々に打ち出されました。
日本でも2000年代以降「人的資本」に注目
バブルの崩壊後、成果主義の導入を進めた日本ですが、それでも経済は停滞したままでした。また日本的雇用慣行は、新卒一括採用や厚生年金の3号年金といった仕組みとも密接に関連することから、その重要性が低下した後も強固に残存し続けました。しかし、欧米で人的資本が重視される要因となったビジネス環境の変化の波は、日本にも同じようにやってきました。
とくに日本では、これまで得意としてきた「モノづくり」経済が世界的に衰退し、「コトづくり」、すなわち知識労働が主体の時代へと変化したことで、成功体験から脱却し、新たな視点を取り入れることが必須となっていました。また少子高齢化により、女性やシニア、外国人や障がい者といった働き手の活用に迫られたことも、人材の活用の在り方を見直す大きな要因となりました。そこで日本でも、2000年代以降、あらためて人的資本が注目されるようになったのです。
ただし、日本の人的資本への投資状況は、他の先進諸国と比べると、まだまだ低い水準にあるといわざるを得ません。イノベーションを起こすためにはOff-JTが重要ですが、日本の2010~2014年のOff-JTの研修費用は、対GDP比で0.1%ほどであり、米国の2.08%、フランスの1.78%などから大きく見劣りします。また2018年度の能力開発基本調査では、日本企業はいまだにOff-JTよりも「OJTを重視する」企業が7割と多数派となっていることが示されています。
それでも2020年に発表された「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会(人材版伊藤レポート)」を契機に、日本企業の人的資本経営への機運はさらに高まっています。企業は人への投資をゼロから始めるのではなく、自社がこれまで大切にしてきた価値観を見つめ直したうえで、アップデートしていくことが求められています。
伝統的大企業の変革
住友商事
その源流を1590年の銅吹所の設置に置く、住友商事。初代の住友政友は、目先の利益に走ることを戒め、「住友だけでなく、国家と社会にも利がある事業でなければならない」と説きました。同社は住友が説いた教えを「住友の事業精神」として、約400年にわたり脈々と受け継いできました。人材についても、「事業は人なり」との考えから、人材の発掘・育成を経営の最重要事項として位置づけています。
同社は2020年、「グローバル人材マネジメントポリシー」を制定。その中で「目指す個の姿」として「グループのビジョンや理念、住友の事業精神に共感」を挙げ、「住友の事業精神を個々人のレベルでも実践していくことが重要」であると掲げました。その精神を受け継ぐため、入社時には全員が“住友の源流”である愛媛県・新居浜の別子銅山訪問研修を実施。そのうえで、世界で通用する力を涵養するため、自律的なキャリア形成を後押しし、リスキリングの機会を提供する「住友商事カレッジ」や海外研修制度、グローバルベースでの人材育成施策を展開しています。
同社では、これまでは入社後のキャリアパスがある程度決められていましたが、今後はグループ約8万人の人材がそれぞれのキャリアを選び、能力を発揮できる環境や仕組みを整えていくことを目指しています。気候変動緩和や地域社会・経済の発展などの社会課題、地球規模の課題の解決を謳うことから、「多様なメンバーが事業や経営の意思決定にかかわることが不可欠」とし、2023年に「D&I」から「DE&I」へと拡大させた取り組みをさらに加速させていくこなども示しています。
- 【参考】
- 統合報告書2023|住友商事
- 経営理念|住友商事
トヨタ自動車
トヨタグループの創始者である豊田佐吉は、「夜なべをして機織り仕事をする母親を助けたい」との思いから織機を発明し、1891年に特許を取得しました。豊田はその後も、自らの発明を通じて社会に貢献することで事業を成長させる「世のため人のため」の事業を展開。会社としても、一人ひとりの従業員が「誰かのために」との思いを持ちながら高い技術や技能を有する人材であることを重視しており、「モノづくりは人づくり」という考え方を提唱してきました。
トヨタでは2020年、「幸せの量産」をミッションに掲げるトヨタフィロソフィーを策定。この使命を果たすために、「自人が自分らしく働き、挑戦することを重要視し、誰もが、いつでも、何度でも、失敗を恐れず挑戦できる」会社を目指すと発表しました。その中で取り組みの3本柱として挙げたのが「多様性」「成長」「貢献」です。具体的には、「多様性」では仕事と育児の両立制度の拡充や社内公募制度の本格導入、「成長」では国籍や性別にとらわれない適材適所の配置や評価制度の変更、「貢献」では人材やアセットのマッチング・有効活用などに取り組むとしています。
また、従業員一人ひとりが能力を最大限に発揮し活躍できる職場づくりのために、従業員エンゲージメント調査を毎年実施。結果は各職場にフィードバックされ、各組織で対話と改善活動を行っています。Well-being(幸福感)向上にも注力しており、高レベルの専門知識を有するスタッフが全従業員に対し幸福感向上施策を提供。これらの施策により、持続的かつ発展可能で健康的な会社のサイクルを回す循環システムが形成できているとしています。
- 【参考】
- 統合報告書2023|トヨタ自動車
荏原製作所
荏原製作所は1912年、「日本の近代化に貢献したい」「社会の課題を解決したい」と考えた畠山一清が創業した企業です。創業以来110年にわたり、創業の精神である“熱と誠”を軸とする事業展開を行ってきました。2020年には、10年後のあるべき姿とそれに向かう道筋である価値ストーリーである「長期ビジョンE-Vision2030」を策定。その中では「技術で、熱く、世界を支える」を旗印に掲げました。
長期ビジョンの中では、「人材の活躍促進」を重要課題として挙げ、「競争し、挑戦する」企業風土の構築に向けて、多様な社員が働きがいと働きやすさを感じて活躍できる環境づくりを進めることを強調。2012年に開始した海外グループ会社での2年間の実務を通じた育成プログラムの対象社員を拡充し、2019年から開始したグローバルエンゲージメントサーベイを「従業員との対話の機会」と捉え、部門の特性に合わせたアクションプランの策定や実行、振り返りを行っています。
中期経営計画「E-Plan2025」では、2025年に向けた成果目標に併せ、エンゲージメントサーベイスコアやグローバルでのキーポジションにおける非日本人社員比率、女性基幹職比率をKPIとして設定。過去の実績や成果とともに開示しています。また人的資本経営の推進にあたっては、データストラテジーチームとも連携し、独自に開発したピープルアナリティクスAIを用いたHR領域の意思決定の自動化を行うなど、より合理的・効率的な判断を進めています。