人材データの可視化と発信が会社を変革する
双日に学ぶ、人的資本の情報開示
河西 敏章さん(双日株式会社 常務執行役員 人事担当本部長)
善家 正寛さん(双日株式会社 人事部 デジタルHR推進室 室長)
合田 紗希さん(双日株式会社 人事部 デジタルHR推進室)
人的資本経営、人的資本の情報開示、株主、ピープルアナリティクス
人的資本開示が義務化され、人事も社外への発信力を求められるようになりました。どうすればステークホルダーに自社の魅力が伝わる情報開示ができるのか、頭を悩ませている担当者も多いでしょう。双日株式会社は人的資本開示が義務化される以前から、非財務情報の充実に取り組んできました。同社が現在の開示方法に行き着いた理由や、魅力的な情報開示の裏にあるデータに基づく人事施策の実践について、お話を伺いました。
- 河西 敏章さん
- 双日株式会社 常務執行役員 人事担当本部長
- 善家 正寛さん
- 双日株式会社 人事部 デジタルHR推進室 室長
- 合田 紗希さん
- 双日株式会社 人事部 デジタルHR推進室
PBR 0.5倍は、人的資本開示の不足だから? 非財務情報の外部発信を意識したCHROの気づき
人材戦略を実行するうえで、貴社が人的資本情報の「可視化」「開示」に注力するようになった経緯をお聞かせください。
河西:東京証券取引所が上場企業にPBR(株価純資産倍率)1倍割れの是正を求める前から、当社は「中期経営計画2023」においてPBR1倍超を目標に掲げ、企業価値向上を目指してきました。新型コロナウイルス流行の影響もあり、2020年3月時点のPBRは0.5倍でしたが、当時の私は「コングロマリット・ディスカウントを受けて株価が低迷しているのだろう」と、どこか他責思考でした。
しかし、人事の勉強を進めるうちに、稲妻が走るように経営が自分ごとになる瞬間がありました。商社には、メーカーのようにカタチのある自社製品や技術はなく、ただでさえ事業内容の説明が難しい業種ですし、価値創造の中核を担うのは「人材」にほかなりません。それなのに人材に関する情報を十分に発信できていなかったことに気づきました。CFOが企業価値を伝えるために財務情報を開示するのと同じように、私たち人事も、非財務情報として人材に関する情報を開示しなければならない、PBRが低いのは、双日の人材の魅力を伝えきれていない自分の責任だと思うようになりました。
人事として、人の成長を可視化するための指標をつくり、市場と対話しながら実践していかなければならない。そう考えて、2021年に人事部にデジタルHR推進室を発足させました。
可視化のため、データ活用に力点を置いたのですね。
河西:当社では全社的にデジタル化を推進していますが、人事部でもデジタル化を推し進め、モチベーションや挑戦など、定性的に語られがちな要素もできるだけデータ化し、科学するように努めました。
私は2018年に人事部長に就任するまで、人事は未経験でした。就任後に社内の人事情報をキャッチアップしていたとき、エンゲージメントサーベイに気になる箇所を発見しました。「会社は、このサーベイの結果を有効に活用していると思う」という質問項目に否定的な回答が多くついていたのです。サーベイも人事も、社員から期待されていないように感じ、それならやってやろうと逆に奮い立たされました。
人事データの可視化や開示の意義をどのように考えていますか。
河西:人事情報を整理し、社内外に開示することは、すべての施策の出発点になると考えています。人事部で情報を抱え込んでしまうことで、改善点に気づくことすらできないようでは問題です。
一つ、エピソードをお話しさせてください。私が人事部に来てすぐの頃、評価に対する社員の納得度が低く、評価制度を変えるべきだという声が上がっていました。そこで、新しい評価制度の検討を進めることになり、まずは現行制度でどのような評価がなされているのかを人事部で振り返りました。すると、実は運用側に問題があることが見えてきたのです。
当時から、経営陣は社員の挑戦を後押しするメッセージをたびたび出していました。評価項目に盛り込み、管理職にも積極的に評価するよう促していました。平均的なパフォーマンスを「B」とすると、挑戦して優れたパフォーマンスを上げた人は「S」がついてしかるべきです。管理職に「部下の上位10%までSをつけてほしい」と発信していたにもかかわらず、評価の実績を調べてみると、「S」は3%しかいませんでした。つまり社員の挑戦を後押しすると言いながら、結果が伴っていなかったのです。そのため、議論は制度刷新から運用改善に移っていきました。
もし「Sが3%しかいない」というデータを見過ごしていたら、人事部は見当違いの取り組みに走ってしまったかもしれません。データを起点に考えることは、組織を成長させるうえで非常に重要なポイントなのです。
会社には、人事しか知り得ない情報が山ほどあります。「適切に管理する」という御旗のもと、重要な情報にふたをしていると、経営陣はおろか、人事部でも実態を正しく把握できません。ふたを開けて、個人情報とは切り離したうえでデータを有効に使う必要があるでしょう。
もう一つ、人事部がデジタルに注力し始めてからの大きな変化として、経営と人事の距離が縮まったことが挙げられます。データを提示してデータドリブンに経営と話ができるようになったことで、コミュニケーションが濃密になり、連携が強まったのです。定量的に語れることで説得力が増し、データを用いた対話の重要性を感じています。
人的資本経営の推進力になる、非財務指標の動的KPI
HR領域では、定性的な情報の可視化が課題となっています。貴社では、人的資本の可視化をどのように進めていますか。
善家:当社では、2020年前後から非財務情報を開示することの重要性に関する議論があり、2021年4月のデジタルHR推進室発足とともに私は当時の室長の命を受け、データを起点とする人材戦略策定を始めました。
デジタルHR推進室はどのようなメンバーで構成されているのですか。
善家:データの重要性に共感してくれるメンバーを集め、チームを組成しました。ただ、デジタルへの関心はあっても、実践的なスキルはありませんでしたので、全員で外部セミナーに出席したり、新しいツールの勉強会を開いたりして、データ分析について一から学びました。
デジタルHR推進室が発足した後、どのような壁に直面しましたか。
善家:最初の壁はKPIの策定です。財務指標には一般的なKPIがありますが、人材をはじめとする非財務指標はありませんでした。自分たちでKPIを考え出す必要があったわけですが、KPIは会社を変えるための指標です。どのようなアプローチで競争力のある会社に変えていくのかという課題設定がないと、KPIは設定できません。そこで、経営をはじめ、さまざまな部署と議論を重ねて、最終的に六つの人材KPIを掲げました。いずれも2030年までに「事業や人材を創造し続ける総合商社」になるために、多様性と自律性を備える「個」の集団と、社員を支える職場環境を実現することにつながるKPIだと考えています。
人材KPI(動的) | 目標値 |
---|---|
女性総合職*1 海外・国内出向経験割合 | 40% → 50% |
デジタル基礎研修修了者(総合職全員) | 100% |
海外グループCxO | 50% |
チャレンジ指数 | 70% |
二次検診受診 | 70% |
育児休暇取得率*2 | 100% |
河西:双日では外部環境や人事施策の進捗状況の変化に応じて見直しができるよう柔軟性を持たせた動的KPIとしています。過去データのない中での挑戦であり、毎年経過を見ながら、そのときの組織の状況や進捗を踏まえて目標値を設定し直します。通過点で仮説が検証され、方向性が良ければ目標を維持し、仮説が間違っていたら、違うKPIに置き換える。数値の統計的な正しさより、アジャイルであることが重要だと考えたのです。
女性活躍の文脈では「女性社員の出向経験」をKPIに設定されています。どのような意図があるのでしょうか。
合田:エンゲージメントサーベイの結果、女性社員は30代に入ると海外勤務に対するモチベーションが下がる傾向にあることがわかりました。その時期に結婚や出産などのライフイベントが重なることが要因として考えられます。例えば海外拠点へ出向するチャンスが巡ってきても、機会を逸してしまうことが多かったのです。
そこで、初めての海外赴任を経験する時期を前倒しすることで、その後、働き方が制限されても、エンゲージメントが下がりにくくなるのではないかという仮説のもと、「キャリアの早回し」施策を始めました。結果を評価できるのはまだ先ではありますが、女性の海外・国内出向経験割合は40%の目標値を1年前倒しで達成し、2023年度のKPIは50%に上方修正しています。
女性の管理職比率を上げる際、出向経験がどのように関わってくるのでしょうか。
合田:商社でキャリアを築くうえで、出向経験は重要な位置付けにあります。当社では管理職に登用する際、評価が同等ならば、海外やグループ会社での勤務(出向)経験者を優先する傾向があります。それにより、結果的に男性が昇進する割合が高くなっていたのです。
出向経験が管理職登用の際に重視されるのは、本社では得られない経験をしてきているからです。出向を経験することで、ビジネスの現場を肌で感じられます。私自身も昨年までベトナムの合弁会社に赴任していましたが、視野が広がり、高い視座で仕事ができるようになりました。視野と視座はマネジメントにおいても重要なのは言うまでもありません。
善家:普段から合田の話を聞いていると、出向がいい経験だったことが伝わってきます。ベトナムではどのような会議をしているのか、取引先がどのような気持ちなのか、出資比率でどのような力関係が生まれるのか。そのあたりは本社にいてはわかりません。ビジネス現場の解像度が上がることで、何か困難が起きたときは戦略づくりに生かせますし、適切な意思決定につながります。
人はKPIだけでは語れない。人事が開示すべき人的資本の定性情報
貴社は統合報告書の充実度に定評があります。その作成の際、人事はどのような役割を担っているのでしょうか。
善家:統合報告書は、IR室を中心に、多くの部署が連携して作成しています。人事部が関わるのは主に「人材戦略パート」です。加えて、当社が「人」を起点にしていることがステークホルダーに伝わるよう、人事部が情報開示の旗振り役を担っています。2030年の目指す姿を実現するために、財務的な観点だけでなく、事業を創るヒトの魅力(ちから)を示すことで、双日らしい成長ストーリーの実現に向けた期待感を醸成できればと考えています。
統合報告書の一部として、物語風にまとめた「価値創造ストーリー」も公表されています。このような形式で人的資本情報を開示している経緯をお聞かせください。
善家:人事施策の理解・浸透度を定量的に効果測定するため、人材KPIを21年から開示しています。しかし、人材はKPIだけでは語れません。鉱山でヘルメットをかぶって働く社員がいたり、言語や文化の壁がある地域で必死に交渉する社員がいたりと、社員一人ひとりにストーリーが宿っているのです。だからこそ「価値創造ストーリー」のようなドキュメンタリー調のページを設け、定性的な「生の情報」を届けられるような構成になっています。
合田:当社では各部門で外部ステークホルダーと接点があり、どうすれば共通のメッセージを発信できるか頭を悩ませていました。そこで、IRの執行役員が委員長を務め、非財務に携わる職能部門のトップが参加する「開示検討部会」を隔月で開催しています。情報交換や議論を交わすことで、非財務情報を含めた当社の取り組みをうまく開示して情報の非対称性を解消し、ひいてはPBRの最大化を目指すものです。
統合報告書を含む開示物においてどのようなメッセージを打ち出したいかも議論しています。例えば、2023年の統合報告書は、双日グループのスローガンである“New way, New value”をコンセプトとしていますが、“New way”がどのような“New value”を創出しているのかを示したいと考えた結果、当社の強みであるベトナムにたどり着きました。IR室のメンバーが現地取材を行い、New way, New valueの実践を通じた価値創造ストーリーを創り上げることができました。
このような定量データに表れない人材の強みを、人事部はどのように得ているのでしょうか。
善家:現場との対話の機会に尽きると思います。河西が社長と週2回対話しているように、人事は経営との距離が近いのですが、会社全体では横のつながりも強化してきました。例えば、課長研修が果たしている役割は大きいと思っています。課長研修では、中期経営計画への意識を高めたり、それぞれの部署の現状を共有したりしているのですが、人事部からサーベイやデータ分析から得られた気づきを各部署の課長にフィードバックすることで、ピープルマネジメントに役立ててもらっています。人事から積極的に情報を提供することで、若手社員のキャリア形成・人材の抜てきや登用に関わるような相談ごとが増えてきています。
人事部はデータと現実世界をブリッジする存在です。人の感情やモチベーションなど、リアルな部分に作用させるためのデータ活用が何より大切だと思います。
経営戦略に先立つ戦略人事を目指して
デジタルHR推進室が発足し、データ分析や情報開示に注力するようになって以来、どのような変化を感じていますか。
合田:KPIを見ると、目標を掲げてから3年で順調に数値が伸びてきました。女性総合職 海外・国内出向経験割合は、19%から48%に。デジタル基礎研修修了者は、0%から100%に。海外グループCxOは、40%から45%に。育児休暇取得率は、68%から100%になりました。
善家:これらの指標は、会社が目指す理想からバックキャスティングしたものであることを粘り強く伝えてきたことで、社内にも中期経営計画や人材KPIがかなり浸透してきたように思います。始めは人材施策に腹落ちしていなかった社員も「なぜこのKPIを追うのかわかった気がする」と話してくれています。
社員から直接声を聞く機会もあります。例えば、エンゲージメントサーベイのフリーコメント欄は、情報開示に注力するにつれ、記入数が増えました。時には耳の痛いフィードバックが寄せられますが、それは会社の課題に正面から向き合ってくれている証左です。誠実に受け止め改善につなげるようにしています。本社の約2500名全員と対話をすることは難しいからこそ、一つひとつの機を捉え、コミュニケーションを絶やさないよう心がけています。
データの可視化がもたらした人事施策はありますか。
善家:直近の例で言うと、ミドルマネジメントの強化があります。挑戦する風土を育み、創造的な組織にすることは、経営層の力だけでは難しいもの。トップダウンとボトムアップの両輪で取り組む必要があります。
ボトムアップの動きを活性化するには、ミドル層の果たす役割が大きいことがデータからわかりました。特に課長です。社員のエンゲージメントを左右する要因として、部長よりも課長の影響が大きかったのです。課長は部下の業務に直接関わりますし、メンバーと接する時間が圧倒的に長い。課長なら、ディスカッションして思考を促したり意見を吸い上げたりして、メンバーのモチベーションを高められます。組織のパフォーマンスは課長にかかっていると言っても過言ではありません。
課長には、チームを引っ張る「統率力」と、対話でモチベーションを上げる「対話力」が求められます。向かうべき方向性を示し、時には厳しいことを伝えつつ成長を支援するのが課長の役割です。課長以上に対しては360°評価を実施しているのですが、統率力や対話力をマトリクス化したときに、統率力も対話力も高い「右上」の人材を増やしていくことを目指して、ミドルマネジメントを強化しています。
善家:このほかにも、デジタルHR推進室では、「どのようなデータ分析結果を社内に還元すれば会社を変えられるか」を日々議論しています。ディスカッション中も、単純にデータの中身を議論するのではなく、2030年にありたい姿から見たギャップを基に、経営が向かいたい先と、現場の現状をバランスよく組み込んで考えます。そのうえで仮説を立て、サーベイを実施し、データを分析するという流れです。
これまでの人事施策を踏まえつつ、今後の課題を教えてください。
河西:以前、私は「経営戦略と人事戦略はシンクロしている」と考えていたのですが、今はまた違う感覚を抱いています。人事戦略は経営戦略と横並びで同期するのではなく、経営戦略より先を行っていないといけないと思い直しました。人事は遅効性があり、人材を育成して効果が出るまでには時間がかかる。経営が戦略を立てた後に、人材を育て始めるようでは遅いのです。人事が先回りすることで初めて、経営戦略を実現できる人材が活躍できるのです。
また人事を科学し、定量データで語れるようにすることは重要な一方、数値目標だけで中身が伴っていなければ意味がありません。KPIそのものは目的ではなく、変化を見るための指標。変化にどのような意味があるのかを社内外に納得してもらわなければいけません。さまざまな施策の「点」がいずれ「線」となって見えるよう、連続性のあるコミュニケーションを行うことは今後の課題でもあります。
河西:また、双日はグループ連結経営をしていますが、お恥ずかしながら、人事施策の8割ほどは双日単体での施策です。私たちは「企業価値2倍」を早期に達成しようという目標を掲げていますが、それは単体決算における話ではなく、海外法人やグループ会社も含めた話です。そのとき、文化づくりや制度運用の改善など、テコ入れしなければならないことが山ほどあります。単体経営からグループ連結経営に力点の置き方を変えることが課題です。既存のやり方をアンラーニングし、デジタルで可視化や効率化をさせることで、経営戦略でうたっている「Next Stage」の布石としたいと思っています。
(2024年5月29日取材)