お客さま行動を分析し“気の利いた”サービス提供を目指して
JR東日本が取り組む、データマーケティング人材育成
東日本旅客鉄道株式会社
マーケティング本部 戦略・プラットフォーム部門 データマーケティングユニット 担当部長
渋谷 直正さん
マーケティング、データマーケティング、データマーケティング人材、ジョブ型

CRMを向上させるにはデータマーケティングが必須ですが、「社内人材のデータリテラシーが不足している」「分析ツールを活用して実務に落とし込むことが難しい」といった声がよく聞かれます。そんな中、JR東日本では、1億枚以上発行されるSuicaの利用履歴データを活用したデータマーケティングに注力。「自社のことを最もよく知るのは社員である」という考えのもと、データを使った予測モデル構築研修など、データマーケティング人材の社内育成に取り組んでいます。多数の文系人材をデータ人材へと育成してきたJR東日本の渋谷直正さんに、どうすればデータマーケティング人材が育つのかについて聞きました。

- 渋谷 直正さん
- 東日本旅客鉄道株式会社
マーケティング本部 戦略・プラットフォーム部門 データマーケティングユニット 担当部長
しぶや・なおまさ/2002年日本航空に入社。国内線・国際線予約、国内線団体航空券営業、国内線Web販売、1 to1マーケティングなどに従事。2019年デジタルガレージの執行役員CDO(チーフ・データ・オフィサー)に就任。2021年6月より現職。第2回データサイエンティスト・オブ・ザ・イヤー受賞のほか、総務省統計局など、データ分析に関する講演、講義、連載多数。共著書に『文系ビジネスパーソンのためのデータ分析入門』(東京図書)など。
Suicaの利用履歴データの分析に挑む
JR東日本におけるデータマーケティング戦略についてお聞かせください。
当社では、2024年に中長期ビジネス成長戦略『Beyond the Border』を策定しました。労働人口の減少やワークスタイルの変化により、鉄道利用者数は今後減少が見込まれています。そのため、鉄道を中心とするモビリティと生活ソリューションの事業比率を、現在の7対3から将来は5対5に転換し、生活ソリューション領域の拡大と収益力向上を目指しています。これに基づき、Suicaを単なる「移動のデバイス」から、お客さまに応じた体験価値を創造する「生活のデバイス」にするため、『Suica Renaissance』を打ち出しました。
これまでJR東日本は、安全・安心な鉄道運行に注力してきたため、マーケティング領域でのデータ活用はあまり行ってきていませんでした。そのため、お客さまへのアプローチも不特定多数を対象とするTVCM、広告掲示などのマスマーケティングが中心でした。そもそもお客さま一人ひとりの行動履歴を把握する必要性を感じていなかったわけです。
しかし、Suicaは今や移動デバイスとしての使用だけでなく、日常生活での決済、マンションや駅のロッカーの鍵の代わりとしてとして活用されるなど、利用シーンが広がっています。JR東日本のサービスを利用するとポイントがたまるJRE POINTの会員数も、1600万人を突破しました。
従来はこうしたデータが社内に点在しているものの、個人IDとひも付いておらず、有効活用できていませんでした。しかし、個人情報に配慮したうえで一人ひとりの移動履歴や電子マネーの利用データを活用すれば、お客さまへの個別のアプローチが可能になり、さらなる利便性を提供できます。新規事業領域に踏み出すためにも、データを使ったマーケティングは不可欠と考えました。
過去のキャンペーンデータを用いた社内の意識変革
これまで積極的にデータをマーケティングに活用できていなかったとのことですが、データマーケティングを進めるうえでの課題はありましたか。

推進するうえでの課題は二つありました。一つ目は、社内にお客さま個人を見る文化がなかったことです。私は以前航空会社に勤務していましたが、飛行機にはマイレージプログラムがあるため、お客さま情報を個人として認識できる仕組みがあります。誰がどの路線をいつ何回利用したかがデータとして分かるため、航空会社は顧客一人ひとりに合わせた情報提供や商品案内、サービスなどを行い、顧客と長期にわたって関係性を築けます。
ところが、鉄道では各駅の利用者数は分かっても、個人ごとの行動履歴は見えませんでした。しかしSuicaの普及によって、一人ひとりのお客さまが、いつどこで何にSuicaを利用したのかが分かるようになってきました。まずは社員にこうした個人がわかるデータの重要性について説明しましたが、当時はピンと来ない社員が大半でした。
データの活用や分析について、「重要性を説かれても実感が湧かない」「何から手を付ければいいか分からない」というケースをよく聞きます。どうやって社員の興味・関心を引き出したのでしょうか。
まずは、「データを分析すれば、いろいろなことができる」ということを実感してもらいました。
具体的には、2021年夏に、同年4月に実施した実際のキャンペーンを題材に、私がSuicaのデータを活用して予測モデル(過去のデータに基づいて将来の事象を予測するモデル)を作成しました。その結果、わずか六つの説明変数を用いて予測分析を行っただけでも、かなり良い予測精度の結果が出ました。Suicaの利用履歴データの価値の高さを証明したのです。
データ分析を行ったことのない社員が予測モデルを作成するに当たって、気を付けたことはありますか。
いきなり予測モデルを作成することは難しいので、「手を動かすことよりも、社内のニーズや困りごとを探し、予測モデルを使えば解決できるテーマについて、まずは頭と口を動かそう」と呼びかけました。分析自体は協力会社にお願いするとして、社内での困りごとを見つけること、予測モデルを導き出すための説明変数を探すことは、実務を経験している社員に圧倒的なアドバンテージがあります。
また、従来やってきた仕事のやり方や仮説を否定しないようにしました。私はいつも「勘と経験は大切。その状態にデータ予測分析が加われば、より精度が高くなるし再現性も高まるよね」という方針でアプローチしています。実際、現場や業務で培った勘と経験は予測を立てるうえで非常に大切なので、全てを予測モデルに置き換える必要はありません。しかし勘と経験だけに頼ると、仕事は属人的になってしまいます。予測の再現性を高めるためには、両者を組み合わせたハイブリッドな取り組みが効果的です。予測モデルの有効性が伝わってからは、社員がどんどんテーマを見つけてきて、自主的に取り組むようになりました。
当初の目標は、助手席で「あそこに行きたい」と言えること
二つ目の課題は、マーケティング人材の不足です。私が入社当時はマーケティングを専属で行う部署はなく、社内でもマーケティングに関してデータを扱える人材はほとんどいませんでした。そのため、まずは社内での人材育成に取り組む必要がありました。
JR東日本が求めるデータマーケティング人材の要件について教えてください。
データを分析することで、自社のマーケティングやビジネスに活かせる人材を求めています。自社のビジネスやサービスを進化させることを目指しているので、データ分析のプロになることは一番の目的ではありません。分析の専門家ではないけれど、Excelを使うように分析ツールを活用して、データ分析が行える「シチズンデータサイエンティスト」をイメージしています。
シチズンデータサイエンティストに求めるスキルや職務内容について、具体的に教えてください。
シチズンデータサイエンティストは「会社としてここまではできてほしい」というレベルで、具体的に言うと二種類に分けられます。一つは、高度マーケティング分析人材。BAツール(高度分析ツール)等を活用して自分で予測分析を行い、データから知見を引き出して施策に活かせる人材です。
もう一つは、マーケティング分析ライトユーザー。TableauなどのBIツール(可視化ツール)を活用してデータを参照できる、必要なデータを入手し、読み解き・活用ができるレベルです。
当初はBAツールを活用して予測分析まで行うレベルまで一気に育成したいと考えていたのですが、やってみると習得にはハードルが高いことが分かりました。
私は、車の運転と一緒だと考えています。車の運転をしたければ、教習所でアクセルやブレーキの使用方法、運転技術を学ぶ必要があります。実際に一人で運転できるようになるまでは、実技を練習する時間がかかる。ただし、運転ができない人でも、「〇〇へ行きたい」という目的はあるわけです。そこで、協力会社の分析のプロの人に運転席に座ってもらい、社員は助手席で「あそこに行きたい」と指示できるレベルになることを目指しました。実際に目的地に到着できることが分かれば楽しくなりますし、プロの運転手さんの運転を横で見ていれば、次は自身で運転してみたくなる。当初はそれぞれのツールでできることを理解して、協力会社の専門家に指示できるレベルを目指しました。
現在のシチズンデータサイエンティストの人数を教えてください。
2025年2月末の時点で、高度マーケティング分析人材が44人、マーケティング分析ライトユーザーは1270人います。私の入社当時はほとんどいなかったので、約3年半で人材育成したことになります。
ほとんど知識のない状態から、ここまで人材育成することは難しいように思います。どのように取り組んだのでしょうか。
目標がなければ、社員はどこを目指せばいいのか、何から手を付ければいいのかが分かりません。そこでJR東日本で求めるデータマーケティング人材を定義し、分析レベルとスキルセットを明確にしました。分析レベルを分け、上位層は高等数学やプログラミングを行える「専門家領域」、下位層はBIツールを活用して予測分析ができる「シチズンデータサイエンティスト」と定めました。まずはこのシチズンデータサイエンティストを目指そう、と伝えました。
当社で鉄道業務に携わる人材は多くが理系なのですが、マーケティングに携わる社内人材は文系がほとんどです。そのためデータ分析と聞いただけで「何だか難しそう」とネガティブに捉え、拒否反応を示す人も少なくありません。そこで「数学やプログラミングはいらない」と前置きし、社内で求められるスキルを明確にすることで、社員の心理的抵抗を軽減しました。
分析レベルとスキルセットの定義は難しいように思うのですが、どのように作成したのでしょうか。
元々は私がこれまでの経験から独自に作成していたものを、JR東日本の業務に応じて改良しました。具体的に解説すると、レベル3は「必要なデータを入手し、読み解き・活用できる」、レベル4は「予測分析などを指示でき、活用して施策を立案できる」、レベル5は「自分で予測分析ができる」です。各ツールで何ができるのかを理解して、常駐の協力会社に指示できるレベル4を当面の目標に置くことにしました。
実際の社内での人材育成事例をお聞かせください。
取り組み始めたころは、買い回りを促す「駅ビル×駅ナカコラボキャンペーン」で成果を挙げました。従来の勘と経験でのターゲティングに比べ、予測モデルを活用した場合は、なんと7倍以上の打率になりました。
別の社員は、分析から、たまったJRE POINTを駅ビルで利用するお客さまの特徴を見つけ出しました。「直近1ヵ月以内にNewDaysのセルフレジを利用したお客さまは、JRE POINTを駅ビルで使う傾向がある」ことを突き止めたのです。対面レジの利用者よりもセルフレジ利用者の方がポイントを使いやすい、ということです。この傾向は、指摘されると納得感がありますが、勘ではなかなか気付けません。いずれの事例も、データを分析したのは全くの初心者だった社員です。
社員の自主的な学びや実務につなげることに苦戦する企業は多いです。社内教育が成功した要因は何だと思われますか。
よくe-learningなどで自己啓発を促してもなかなか身に付かないという声を聞きます。会社からの押し付けだと、自主的に取り組むことは難しいのではないかと感じます。人は、面白いと感じたことには夢中になれるもの。まずは実務に役立つことを実感してもらい、面白いと感じてもらうことが学びのモチベーションにつながっていると感じます。物事に取り組むには、前向きな内発的動機が不可欠です。
「スペシャリストでありながら、総合職の素養を持ち合わせた人材」を求めるジョブ型採用
2024年には、新しくジョブ型採用も始まりました。総合職との違いは何ですか。
専門家領域に属するジョブ型人材は先ほどのスキルセットの上位層のスキルを有し、総合職のスキルなどに加えて専門性を持つ人材を想定しています。「マーケティング」「データサイエンス」「データエンジニアリング」の三つを兼ね備えているのが理想ですが、最重要視するのはマーケティング能力です。
JR東日本に必要なのは、データを利活用して商売につなげられる人材です。ただ黙々とパソコンの前でデータ分析に向き合うのではなく、事業の現場にも積極的に入り込んで活躍する。他の総合職社員から「さすがジョブ型だよね」と一目置かれるような存在です。だからどんなに優秀だとしても、サイエンスやエンジニアリング“だけ”できる人材は不要と考えています。
今は、「駅ビルやグループ会社で働く社員が、マーケティング本部に出向する」、逆に「マーケティング本部の社員が別の事業部で現場を学ぶ」など、グループ会社間で出向や異動を通じて実践的な人材育成をしています。将来的には、本社と現場の双方を経験しながら、実務とデータ分析の専門性を高めていくキャリアビジョンを描いています。
ジョブ型人材の活用は、貴社でも初めての試みです。これまで現場に従事してきた総合職との待遇や温度差はどう考えていますか。
ジョブ型人材は「専門家として仕事ができればいいのではなく、総合職としてのスキルも当然持っていなければならない」と考えています。専門職であるため総合職より給与も高いので、総合職として会社の戦力としての活躍ができること「も」期待しています。そういった意味では、総合職よりプレッシャーがかかる面は大きいと思います。
ただし、ジョブ型人材が社内でことさら特別な存在として見られることは、避けなければなりません。まだまだ総合職がマジョリティーの日本企業で、「あの人はジョブ型だからね」と異質の存在という見方をされれば、居づらくなって辞めてしまいます。ジョブ型人材だからと特別扱いされるのではなく、総合職と同じ仲間であり、対等な関係性を築けるようにしたいですね。
タイムリーなコンテンツを届ける「気が利いた会社」へ
データマーケティング人材が活躍するためには、どんな組織が向いていると思われますか。
従来のJTC(伝統的な日本企業)のような統制型組織ではなく、自律型組織であることが大切です。採用活動をしていると、今の若い世代は「総合職ではなく、ジョブ型を希望する」など、はっきりと自分のやりたいことを決めている人が多い印象です。また、優秀な人材は柔軟な働き方や自由な社風など、自分が活躍できる職場を求めていることが多いです。一つのことを決めるにも時間がかかるような従来型の日本企業は、優秀な人材に選ばれにくいと感じています。
データマーケティングでは、既存の前提にとらわれずにデータをよりどころにして仮説を構築することが求められます。その結果、ときには現状の体制やプロセスに異を唱える機会も出てきます。特に、意見が通りにくい組織では衝突することがあるでしょう。そうした場面では、会社全体がジョブ型人材を柔軟に受け入れられる社風であることが前提になってくると思います。

まだ中長期戦略を推進している渦中にありますが、これまでの手応えについてお聞かせください。
インフラを提供してきた会社として、保守的で硬いイメージが強かったのですが、働いている社員一人ひとりは柔軟に受け入れてくれるなと感じています。これまではただきっかけがなかっただけで、きっかけさえあれば意欲的に取り組んでくれる社員が多い印象です。
また、ホテルや航空は「非日常」での利用が多く、高品質なサービスが期待されます。一方、鉄道は「日常」の利用に根差したものなので、少し気の利いた取り組みをするだけでも、大きな成果が出やすいのです。ほんの少しの気の利いたサービスによって、毎日1200万人の鉄道の利用者に追加購買をしていただければ、大変大きな新規需要・売上になります。こうした需要を作り出せる、こんなに面白くてやりがいのある仕事はありません。そう思いながら、日々取り組んでいます。
最後に、今後の展望をお聞かせください。
「JR東日本って、気が利いているね!」と思っていただけることを目指しています。
例えば、通学定期券はみどりの窓口に並ばないと購入できませんでしたが、デジタル決済が当たり前のZ世代からすると、そんな不便さは信じられないでしょう。今は駅に行かなくてもモバイルSuicaで定期券を購入できるようになっています。モバイルSuicaを使い始めた学生の皆さまが、JRE POINT会員になることで新たなつながりも生まれます。普段利用している駅やその周辺のお得な情報が配信され、ポイントがたまると、さらにおすすめサービスが案内される――お客さまが喜ぶ情報を適切なタイミングで届けられれば、学生から社会人になっても、長く良い関係性を築いていけると思っています。皆さまの周りでも、気が利く人は、みんなに好かれますよね。
「気が利いているね!」と思ってもらうには、顧客行動を深く理解し、これまでの勘と経験に加えてデータを活用し、精度の高い施策を打ち出す必要があります。例えば西国分寺駅のホームには、リアルとオンラインのハイブリッドのクリニックがあります。電車を待つ間に診察を受けられたらとても便利ですよね。他には、駅のコインロッカーが月極で利用できるサービスもあります。こうした当社のサービスは知られていないことも多く、必要と思われる方にご案内するだけでも喜んでいただけるのではないか、と思っています。そのためにはデータを通じて、お客さまをもっとよく知ることが必要です。
当社はこれまでほとんどOne to oneマーケティングに取り組んでこなかったため、伸びしろは大きくあります。Suicaの利用履歴データから導き出した予測モデルを活用し、顧客のライフタイムバリューを高めていきたいですね。

(取材:2025年2月28日)