経営戦略につながるKPIを設定し、試行錯誤しながらPDCAを回す
日清食品グループの「戦略的」健康経営
日清食品ホールディングス株式会社 健康経営推進室 室長 三浦 康久さん
従業員のウェルビーイングを向上させ、高いパフォーマンスを発揮できる環境をつくることは、人的資本経営を進める上で欠かせないファクターです。そのため近年では健康経営に注力する企業が増えていますが、経営戦略とどのようにひもづけていくのか、実施する施策の効果をどのように測定するのかなどについて、悩んでいる企業は多いようです。日清食品ホールディングスの健康経営施策は、健康投資についての目標や測定指標を詳細に定め、どのように経営課題へ貢献するかを示す「健康経営戦略マップ」を策定。健康にまつわるデータを基に、従業員の健康を守るための予防的アプローチを積極的に展開し、さまざまな効果を上げています。同社で健康経営推進室 室長を務める三浦康久さんに、KPIの狙いや戦略的に健康経営を進めるポイントを聞きました。
- 三浦 康久さん
- 日清食品ホールディングス株式会社 健康経営推進室 室長
みうら・やすひさ/1993年3月神戸大学法学部を卒業後、製薬メーカーに入社し人事部に配属、2001年3月に日清食品に入社。 2001年3月~2019年9月まで人事部、2019年4月~健康経営を担当。大半のキャリアを人事領域に従事し、国内外の人事領域全般を担当。2021年4月より現職。
トップ自らが「健康面談」で管理職にアプローチ
脈々と受け継がれる、健康への強い信念
日清食品ホールディングスでは2018年8月に「日清食品グループ健康経営宣言」を策定し、さまざまな取り組みを進めています。健康経営に注力する理由をお聞かせください。
2018年に健康経営宣言を策定したことは、確かに大きな節目でした。ただそれ以前から、当社では経営陣が健康への高い意識を持って従業員へのアプローチを進めていました。
日清食品の創業者 、安藤百福は、企業理念の一つとして「美健賢食」 (美しく健康な身体は賢い食生活から)を掲げました。健康に対する信念は日清食品グループのDNAとして脈々と受け継がれています。
三代目である安藤徳隆(日清食品株式会社 代表取締役社長)も健康へのコミットメントを強く持ち、栄養とおいしさの完全なバランスを追求した 「完全メシ」事業を推進。即席めん事業に続くコアビジネスとして成長させるべく、年間数十億円規模の予算を投じています。
他社で健康経営を担当する方と話していると、経営トップが取り組みの意義を理解してくれないという悩みを聞くことも珍しくありませんが、当社では、健康経営に取り組むことは自然な流れでした。
経営トップは、どのようにして従業員の健康にアプローチしているのでしょうか。
たとえば、過去には経営トップが管理職に対して「健康面談」を行っていました。
当社の管理職は年俸制を採用しており、年に一度の年俸査定面談では全管理職が1対1でトップと話すのですが、過去には業績以外に、管理職自身の健康に関する項目も査定対象になっていたことがありました。健康な状態であれば年俸にプラス10万円、不健康な状態であればマイナス10万円、といった具合です。
私は43歳のときに受けた査定面談で、体重が85kgで肥満傾向、体年齢は50歳と出てしまい、見事に査定が下がったことがあります。そこで、生活を改善して健康な状態に回復。査定を向上させることができました。
管理職の方々に、健康の重要性を強く認識させることができそうですね。非常にユニークなアプローチだと感じます。
ただ面白おかしくやっているわけではなく、背景には安藤宏基(日清食品ホールディングス 代表取締役社長)の苦い記憶があります。
安藤宏基は39年間にわたり社長を務めていますが、就任した頃は世の中全体で健康への意識がさほど高くなく、当社でも経営幹部が仕事を優先させて体調を崩したことがあったそうです。 安藤は「仕事の成果も大切だが、それ以上に事業成長の礎となるのは従業員の健康である」という思いを強くし、30年以上にわたりトップによる健康面談を行ってきました。現在は、健康面談こそ行っていませんが、健康への強い信念は変わりません。
おしかけオンライン面談でテレワークうつを予防
コロナ禍で大きく変わった従業員の健康意識
健康経営の取り組みを進める上で、課題に感じることはありましたか。
経営陣の理解があって健康経営に取り組み始めましたが、従業員全体に健康経営の意義を理解してもらうことは簡単ではありません。私が健康経営に取り組み始めた2019年当時は、そもそも「健康経営」という言葉自体が、社内であまり認知されていませんでした。「健康経営とは何なのか」「なぜ健康経営に取り組まなければならないのか」という根本的な部分を地道に発信していく必要がありました。
潮目が大きく変わったのは、新型コロナウイルスの感染拡大です。2020年4月に最初の緊急事態宣言が発出された際、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの売り場から即席めんが一斉に消えました。このとき当社では、トップが「私たちは非常時のときにこそ頼りにされる会社であり、このような状況でも生産を続けなければならない。そのためにはまず、従業員が健康でなければならない」と大号令をかけました。社会的責任を果たすために、従業員の健康意識を底上げしなければならないという機運が一気に高まったのです。
トップの意思決定によって、健康投資予算は2019年度の約1億2000万円から、2023年度には2億円近くにまで増額されました。健康経営推進室の人員数も19年度の3名から、23年度は8名と、倍以上に増えています。
コロナ禍で従業員の「健康経営」に対する認知度は変わったのでしょうか。
大きく変わったと感じています。
要因の一つは、ワクチンの職域接種を迅速に進めたこと。グループ会社を含む国内約1万2000人の従業員への職域接種を一気に進めたことで、中心的な役割を果たした健康経営推進室は従業員から高く認知され、「健康経営」という言葉も普及されるようになりました。
もう一つの要因は、いわゆる「テレワークうつ」を予防するための対策を進めたことです。当社では2020年2月末から在宅勤務への切り替えを進め、働き方がガラリと変わりました。切り替えから1〜2ヵ月後に行った従業員向けアンケートでは、在宅での働き方には90%近くが満足しているけれど、ストレス解消度については25%が不満を感じている、という結果が出ていました。コミュニケーションが質・量ともに低下したこと、オン・オフの切り替えが難しくなったこと、自宅に働きやすい環境が整っていなかったことなどが不満の要因だったようです。
このとき私たちは、無自覚のストレスに着目しました。本人はポジティブなつもりでも、慣れない在宅勤務によって、気づかないうちにストレスがたまっているかもしれません。他社でも、在宅勤務中心のところはテレワークうつが急増していると聞きました。
そこで、予防のために 自律神経ストレス計を導入し、自律神経機能偏差値とバランスを日々計測。従業員ごとにテレワークうつのおそれが高まっていないかを可視化しました。
アンケートの結果が良くない従業員に対してはどのように対応したのですか。
自律神経の整え方に関する書籍を配布したり、睡眠の質を改善するプログラムを紹介したりしたほか、「おしかけオンライン面談」も実施しました。
産業医や保健師が待ちの姿勢でいるのではなく、テレワークうつのリスクが高い 従業員へ積極的にアプローチして、おせっかいを焼いたわけです。従業員側には測定前に「スコアが悪ければ産業医や保健師がおしかけて面談する」ことに同意してもらっていました。 こうした取り組みを進める中で、健康経営を進める意義が広く理解されるようになったと考えています。
「数値化できない」とあきらめてしまっては何も始まらない
データ解析の専門家を迎えて取り組みが進化
貴社の特徴的な取り組みとして、「健康経営戦略マップ」を作成し、経営課題にひもづくKPIを設定していることが挙げられます。健康状態を数値化することが簡単ではない中で、KPIを設定した理由をお聞かせください。
健康経営は、経営戦略に資する健康増進施策を展開しなければならないと考えていました。
そこで、健康経営によって最終的に解決したい経営課題を「社員のウェルビーイングと高いパフォーマンスの同時達成」「企業ブランド向上(人材採用力の強化)」「実ビジネスでの利益貢献(売り上げ増・コスト減)」の三つに絞り、日頃の施策の成果をどのようにして測るべきかを考えていきました。
こうしたプロセスを経て、健康関連の最終的な目標指標(KPI)として「アブセンティーイズム(※1)損失額の低減」「プレゼンティーイズム(※2)損失額の低減」「医療費の低減」「社員満足度のスコア向上」などを設定しました。
そして、KPIを測定するための数値として「従業員等の意識変容・行動変容に関する指標」を、各施策の成果を測るために「健康投資施策の取り組み状況に関する指標」を設定しました。例えば、禁煙補助施策については、施策への参加人数増加を通して 、喫煙者比率の低下を目指しています。喫煙者比率は、2020年度は22%だったのが、22年には20%に低下しました。
(※1)心身の不調によって欠勤や休職などにつながり業務に就けない状態
(※2)健康に関する何らかの問題を抱えたまま勤務することで業務効率が落ちている状態
健康状態は目に見えない部分が多く、数値目標に落とし込むことが難しいため、健康経営担当者の中にはKPIを置くことをためらう人も多いのではないでしょうか。
たしかに、健康経営の取り組みでKPIを置くのは勇気がいることかもしれません。健康経営戦略マップでKPIを「Visible」「Invisible」に分けているように、健康状態は目に見えて数値で測れるものばかりではありません。しかしKPIを置いて取り組みの進捗を見える化しなければ、PDCAを回せないのも事実です。
とはいえ、担当し始めた頃は見える化を甘く見ていました。「健康診断の結果はすべて数値で出ているわけだから、簡単に追いかけられるだろう」とたかをくくっていたのです。しかし健康経営の本質を追いかけていくと、プレゼンティーイズムやモチベーション、生産性、企業カルチャー、エンゲージメントなど、数値化が難しいものばかり関わってくることを思い知りました。
数値化が難しいと思われるものについては、どのようにKPIに設定しているのでしょうか。
定量化が難しい目標についても、あきらめずに追いかけることが重要だと考えています。
たとえばKPIの一つに「自身の人生ビジョンを自覚できている社員比率の向上」があります。この目標はウェルビーイングについて深く知る中で必要性を見いだしたものです。ウェルビーイングに関する書籍を20冊くらい読みあさった結果、ウェルビーイングが高い状態を実現するには「仕事において裁量権を持ち自ら選べること」「自分の人生ビジョンや哲学を持っていること」の二つの要件が欠かせないと考えました。
そこで、従業員それぞれの人生ビジョンを明確化するための取り組みを開始しました。アンケート結果などの定性面だけでなく、社内のキャリア研修受講者やコーチング受講者などの定量面も追いかけているところです。目標を数値化して共有すれば、改善すべきところが見えてくるはず。仮説に基づくものであっても、とにかくPDCAを回しより良いKPIが見いだせれば差し替えていく前提で、まず動き出すことを大切にしています。「数値化できない」とあきらめてしまっては何も始まりませんから。
PDCAを回していくために、健康経営推進室の組織体制で工夫していることはありますか。
先ほど、健康経営推進室の人員数が3名から8名に増えたとお話ししました。増えた中の1名は、データ解析を専門とする人材です。
当初は社内のありとあらゆるバイタルデータなどを収集して相関分析をしようとしていたのですが、あまりうまくいきませんでした。仮にデータ解析がうまくいったとしても、データと健康の相関関係が見えるだけで、因果関係を特定できるわけではありません。そこで重回帰分析などができるプロフェッショナル人材に加わってもらったのです。
その結果、データと健康の因果関係を測れるようになりました。たとえば人員配置でいうと、プレゼンティーイズム損失額を低減させるために増員が必要な部署があれば、増員しなくても効果を出せる部署もあることが分かってきています。今後もさまざまな側面からデータ解析を進め、効果的な打ち手につなげていきたいと考えています。
産業保険体制の強化、独自の健保組合発足、ナッジを応用した施策
目指すのは「知らないうちに健康になっちゃった」状態
健康経営の打ち手を考える上で、望ましい行動を取るように後押しする行動経済学の理論「ナッジ」の活用も検討しているとうかがいました。
はい。健康経営推進室内でアイデアを出し合い、さまざまな企画を考えているところです。
たとえばキャンペーンを実施する際のインセンティブの渡し方。仮に「3kgの減量に成功したら1万円のインセンティブを支給」という条件を設定するとします。減量成功を確認した上で事後にインセンティブを支給するのが普通かもしれませんが、「人は損失を回避しようとする傾向がある」という行動経済学のプロスペクト理論を応用して考えると、1万円を先に支給するほうが効果的かもしれません。最初にインセンティブを渡しておいて、「減量がうまくいけば成功報酬としてそのままキープ、失敗してしまったら罰金5000円」といった仕立てが考えられます。
ほかにも、キャンペーンタイトルのネーミングに意図的に挑発的な表現を取り入れ眼前利益バイアスを刺激したり、同調効果を狙って「健康診断受診後、要再検査と言われた人のうちの8割がすでに再検査を済ませています」といったメールを送ったり。何かを発信する際も、いろいろと工夫できると考えています。
今後は禁煙対策でもナッジを応用したいと考えています。当社では喫煙率が20%を切り、以前と比べてかなり下がってはきたものの、残る喫煙者を説得するのは手ごわい。そうした従業員にも禁煙を意識してもらえるよう、知恵を集めているところです。
アイデア次第で従業員の反応や意識が変わるのですね。
そうですね。ただ、こうした工夫はあくまでもテクニカルなものであり、真に健康経営を進めていくためには地道な取り組みが欠かせません。
当社では産業保険体制を大幅に強化しました。各事業所に配置する専門家の人員数を拡充した上で、全事業所の産業医と保健師、そして総務人事部門メンバーが出席する「産業保険全体会」を2021年から開催しています。以前は各事業所にお任せの状態でしたが、現在では専門家同士の横の連携とビジョン共有が進むようになりました。
また、2024年4月1日には自社独自の健康保険組合を発足させています。それまでは既存の団体に加入していましたが、医療費を可能な範囲で詳細に分析していくため、独自で健保組合を立ち上げることにしたのです。準備に時間がかかりましたが、これによって、現状をより正確にデータで捉え、施策をさらに高度化する準備が整いました。
今後の健康経営戦略ではどのような展望を描いていますか。
健康経営を担当して5年がたちました。今更ながら改めて課題に感じているのは、健康経営施策への従業員の参加率です。健康経営推進室ではあの手この手でさまざまなメッセージを発信し、施策を実行していますが、大多数の従業員が健康に関心を持ってアクションする強いダイナミズムはまだ作れていません。
その要因として、健康経営の取り組みが「不健康な人を健康にする」ことにフォーカスしがちであることが大きいのではないかと考えています。その方向性はもちろん重要ですが、「健康であり続ける努力をしている人」にフォーカスし、たたえる活動もまた重要ではないでしょうか。従業員が健康経営を自分ごと化することにもつながっていくはずです。
今後もウェルビーイングの概念を周知しながら、より幅広い層の従業員が健康を意識できるように働きかけていきたいと思っています。それでもなかなか意識できない人に対しては、ナッジを応用した施策を通じて「知らないうちに健康になっちゃった」という状態を実現したいですね。