森永教授の「ウェルビーイング経営」研究室【第6回】
施策の実践にまつわる二つの「イト」
武蔵大学 経済学部 経営学科 教授
森永 雄太さん
日本企業において「ウェルビーイング経営」に取り組む動きが加速しています。ウェルビーイングとは、心身ともに良好な状態にあること。従業員が幸せな気持ちで前向きに働くことは、生産性の向上や優秀な人材の確保など、さまざまな効果につながると、多くの企業が期待しているのです。では、どのようにして実践していけばいいのでしょうか。武蔵大学 森永雄太教授が、いま企業が取り組むべき「ウェルビーイング経営」について語ります。
人事施策の実践プロセスへの注目
前回述べたように、HRM施策を通じて従業員ウェルビーイングを高めるためには、ウェルビーイング志向のHRM施策群を設計・導入していくことが重要です。しかし施策の効果を組織の隅々まで浸透させるには、施策の設計だけでは十分ではありません。人事施策の一部はしばしば現場から無視されますし、場合によっては誤解や曲解されて、施策設計者の意図とは全く異なって従業員から認識されることもあるからです。せっかく主導部門が苦労してウェルビーイングを高める施策を導入しても十分に利用されなかったり、研修を企画しても参加してもらえなかったりするのは、よくあることです。
最近の研究では、施策の実践プロセスにおける従業員の認識や、施策を主導している主体がなぜこの施策に取り組んでいるのかという意図に関する従業員側の認識にも注目することが増えてきました(Wright & Nishii, 2013)。
現場から無視されないウェルビーイング施策へ
施策を上手に実践するにはどうすればよいのでしょうか。経営者がコミットする、というのが定番の答えでしょうが、それだけではありません。ここではBowen & Ostroff(2004)による「強い」人事システムという考え方を参考にして考えてみたいと思います。
「強い」を、誤解を恐れずに言いかえれば、多様な従業員が施策に対して同じように認知している状況といえるでしょうか。彼らは、人事システムの「強さ」は「弁別性」「一貫性」「合意性」の 3 要素から構成されると主張しています。
まず「弁別性」は、「分かりやすさ」といってもよいかもしれません。施策が目立っていて、かつ、かみ砕いて発信されている必要があります。組織がウェルビーイング推進施策を展開していたとして、誰にも知られていなかったり、人事の専門家にしか分からないような複雑な制度になっていたりしてはいけません。
次に「一貫性」は、施策に取り組むとよいことにつながる、と思わせる仕組みになっていること、やれそうだと感じさせる工夫がなされていること、その他の施策と一貫した(矛盾しない)形で位置付けられていることが重要だと考えられています。
最後の「合意性」では、主要な意思決定者間で意見が一致していることや、組織内で公正感が保たれていることの重要性が指摘されています。
私はウェルビーイング施策を強く実践する上での一番の課題はウェルビーイング施策が他のHRM施策との間に「一貫性」を保てないことにあると考えています。組織で実践されている多くのHRM施策は業績を高めることを重視しています。組織がウェルビーイング経営に取り組もうとして新たにウェルビーイング施策を導入する場合に、この取り組みがその他のHRM施策と一貫した取り組みだと認識されづらい、やや仲間外れの取り組みとみなされがちなのです。そのため、ウェルビーイング施策を組織に浸透させるには、施策間の「一貫性」を高めることが重要だと考えられます。
ウェルビーイング経営における横の糸、縦の糸
実際にどうすればよいのでしょうか。ここで一貫性を高めるヒントを、中島みゆきさんの「糸」という名曲に求めたいと思います。読者の中にも耳にしたことがある、という人も多いかもしれません。この曲は私たちに、すべての”布”にとって、縦糸と横糸とが組み合わさることが重要であるというとても大事なことを気付かせてくれます。
ウェルビーイング経営の実践においても、縦糸と横糸を上手に使って組織的に取り組むことが重要です。ただし組織においては、この二つの糸に関わる人々がそれぞれ意図を持っていることを忘れてはいけません。二つの糸の「意図」を一貫させていくことがポイントです。
ここでいう縦糸とは、組織の異なる階層に所属する人々をさします。経営陣から経営陣の意を汲んで施策を設計する人事部門(もしくはウェルビーイング経営を主導する部門)、そして現場での施策の推進役、そして最後が一人ひとりの従業員です。縦糸に関わるそれぞれの登場人物はそれぞれ職場で求められる役割を持っており、その役割に応じた意図を施策に持ち込みます。場合によってはコンフリクトにもつながります。施策を上手に実践するためには、この縦糸の意図に役割の違いを超えた一貫性を持たせていくことが重要になってきます。
縦糸の意図に一貫性を持たせる上で重要なのは、現場の推進役となる現場の「権限なきリーダー」です。ここで「権限なきリーダー」と呼んでいるのは、管理者のように公式な権限を与えられているわけではないけれど、従業員がウェルビーイングな状態で働けるような職場づくりを推進する役割を任う存在のことです。
例えばマルイグループでは、手あげ式で集まったグループ横断の公認プロジェクトメンバーが活動を推進するという体制をとっています(※1)。最近の若手社員の中には、社会課題に対する問題意識を強く持つなど、組織内外の社会課題を解決することに積極的に関わりたいという人も多くいます。こういった人材のパワーとアイディアを上手に吸い上げて実現していくと共に、経営陣の意図や主導部門の意図を伝達する機会を作ることで、階層を貫く意図の浸透が可能になるかもしれません。
一方で横糸の意図に一貫性を持たせていくことも重要です。ここでいう横糸とはウェルビーイングに関わるさまざまな関係部門です。健康経営においても、健康にかかわる取り組みや部門が分散して部分最適に陥っていることが課題とされてきました(Rosen, 1986)。ウェルビーイング経営においても、専門性の異なる各部門が意図を共有することは簡単ではありません。ともにウェルビーイングな状態を目指すといった場合にも、現実的には安全衛生的なアプローチと人材開発のアプローチでは重点ポイントが異なることが多いのも事実です。そんな中で一貫性を見出だし、育んでいくためには、まずは部門間のコラボレーションを積み重ねていくことが有効でしょう。
例えば、健康イベントを組織開発の一環として実施することができそうです。昨今では健康増進のための歩数イベントをチーム単位で実施する企業も増えてきました。このようなチーム単位で取り組む健康施策は、運用方法を工夫することで、健康行動を促したり、健康意識を高めたりするだけでなく、参加者の仕事における協力意欲や組織への愛着を高めることも分かっています(森永, 2019)。
また研修を他部門共同で実施していくことも考えられるでしょう。私が昨年度に作成した金融大手企業の研修は健康管理室主導で企画されたものでしたが、管理者向けであったことから人事部門にも関わってもらい、管理職研修との結びつきを意識する形で位置づけを修正し、オンデマンド教材を作成しました。
これらは小さな1歩かもしれませんが、部門間の目標をお互いに意識しながら、協働の場を作ることで、互いに共通言語を共有していくことができれば、少しずつ施策の一貫性を高めることにつながっていくと思われます。
施策をしっかりと社内に浸透させたい時に経営者のコミットメントは重要な要素です。しかしそれだけに頼ってもいられません。組織を織りなす二つの「糸」の「意図」にも目を向けてみてはいかがでしょうか。
(※1)マルイグループHP(人と社会のしあわせを共に創る「Well-being経営」 | 重点テーマ2 | サステナビリティ | 丸井グループ-maruigroup website- (0101maruigroup.co.jp 最終確認2022年9月21日)参考文献
- Bowen, D. E., & Ostroff, C. (2004). “Understanding HRM–firm performance linkages: The role of the “strength” of the HRM system”. Academy of management review, 29(2), 203-221.
- Rosen, R. H. (1986) Healthy companies: a human resources approach. New York: AMA.(宗像恒次監訳(1994)『ヘルシーカンパニー:人的資源の活用とストレス管理』産能大学出版部)
- 森永雄太(2019)『ウェルビーイング経営の考え方と進め方 健康経営の新展開』労働新聞社。
- Wright, P., & Nishii, L. H. (2013). Strategic HRM and organizational behavior: Integrating multiple levels of analysis, In D. Guest, J. Paauwe & P. Wright (Eds.),HRM and performance: Achievements and challenges: 97 –110. Wiley.
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森永 雄太
武蔵大学 経済学部 経営学科 教授
もりなが・ゆうた/兵庫県宝塚市生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。著書は『ウェルビーイング経営の考え方と進め方:健康経営の新展開』(労働新聞社、2019年)、『日本のキャリア研究―専門技能とキャリア・デザイン』(白桃書房、2013年,共著)など。これまで日本経営学会論文賞、日本労務学会研究奨励賞、経営行動科学学会大会優秀賞など学会での受賞の他、産学連携の研究会の副座長、HRサービスの開発監修等企業との連携も多い。