森永教授の「ウェルビーイング経営」研究室【第4回】
だまし絵にならないように
武蔵大学 経済学部 経営学科 教授
森永 雄太さん
日本企業において「ウェルビーイング経営」に取り組む動きが加速しています。ウェルビーイングとは、心身ともに良好な状態にあること。従業員が幸せな気持ちで前向きに働くことは、生産性の向上や優秀な人材の確保など、さまざまな効果につながると、多くの企業が期待しているのです。では、どのようにして実践していけばいいのでしょうか。武蔵大学 森永雄太教授が、いま企業が取り組むべき「ウェルビーイング経営」について語ります。
『上昇と下降』
『上昇と下降』という作品をご存じだろうか。マウリッツ・エッシャーの手によるいわゆる「だまし絵」で、無限にループする階段を上り下りする修道士が描かれている。この階段を物理的に作ることはできないが、だまし絵の世界の中にはこの無限ループが確かに存在するように見える。
私は経営学の世界にも似たようなところがあると感じている。マネジメントが常に何かと何かの間を行ったり来たりしているように思える時があるからだ。組織のハードな側面が重要視される時代がしばらく続くと、今度はソフトな側面が強調されるようになる。しばらくすると人事制度が強調されるようになり、またしばらくすると制度ではなくヒトのやりがいや気持ちが大事だという話になったりする。
果たしてマネジメントに到達すべき最終地点のようなものはあるのだろうか、と考え込んでしまうことがあるが、これも経営学がマネジメントの実践を研究対象とする応用学問領域であるがゆえであろう。今回からしばらくは、ウェルビーイング経営の「実践」に注目して研究動向を紹介してみたい。
ウェルビーイング経営の実践を考える上で重要な主体は、少なくとも三つある(図1)。第1の主体は人事部であり、経営学の中でいえば人的資源管理論の視点である。第2の主体は管理者であり、組織行動論を中心とする管理者行動研究やリーダーシップ研究が関連する。ここまでの二つが、いわば組織側の実践ということになるだろう。加えて第3の主体として、従業員が挙げられる。従業員ウェルビーイングは、従業員個人の振る舞いや考え方からも強く影響を受ける。それゆえ、セルフマネジメント論や自己調整にまつわる研究群も関連してくるだろう。
今回は三つの主体の中でもとりわけ人事部の視点、すなわち人的資源管理の研究の動向を紹介したい。
従業員ウェルビーイングをめぐる二つのパースペクティブ
21世紀の人的資源管理論の代表的なアプローチでは、組織戦略との結びつきを強めることで組織目標の達成に資する人的資源管理のありかたを追求してきたといえる。しかし、人的資源管理と組織目標の達成の関係において従業員ウェルビーイングがどのような役割を果たすのかについては、必ずしも明確な結論が出ているわけではないようだ。先行研究では、主に二つの異なるパースペクティブが提唱されている。
一つは、相互利益(Mutual gains)パースペクティブと呼ばれる。人的資源管理は組織目標の達成に必要な従業員行動を引き出す役割も果たすため、組織業績に結びつくとみなす。さらに従業員が、人的資源管理活動を従業員に配慮し支援するものであるととらえる場合には、従業員が組織に対するコミットメントや仕事に対する満足、信頼を感じるようになる、と考える。
この立場に立つ研究者の中で最も楽観的な見方をすれば、人的資源管理は従業員ウェルビーイングを高めることを通じて組織業績を達成することができる、とみなすことができる。
もう一方は矛盾した成果(Conflicting outcomes)パースペクティブと呼ばれる。人的資源管理は従業員ウェルビーイングに影響を与えないか、場合によっては負の影響を与えると想定する。このパースペクティブでは、従業員の幸福と組織の業績は、それぞれ別のHR施策によって実現されるものであり、優先する施策によっては組織業績とウェルビーイングの間にトレードオフを経験する可能性があると考える。あるいは、人事施策を充実させる中で、従業員が担当する仕事が強化されることになれば、従業員は強いストレスを感じるようになる、と考える。
この立場に立つ研究者の中で最も悲観的な見方をすれば、組織は従業員ウェルビーイングを犠牲にする人事施策を選択することによってこそ組織業績を達成するものである、という主張にたどり着くことになる。
ウェルビーイングのタイプによって関係は異なる
このような二つのパースペクティブが存在することを踏まえてVan De Voorde, K., Paauwe, J., & Van Veldhoven, M. (2012) は二つのパースペクティブのいずれの立場に立つのがより適切なのかを検討している。
第2回の連載でもふれたが、経営学ではウェルビーイングを心理面のウェルビーイング、健康面のウェルビーイング、社会面のウェルビーイング、と多次元的に捉えることの重要性が認識され始めている。ここで取り上げるVan De Voordeらの研究でも、上記の分類を踏まえた上で、1995年から2010年までに発表された36件の定量的研究の結果をレビューしている。その結果、ウェルビーイングの次元によって適切なパースペクティブが異なるという興味深い主張を行っている。
まず心理面のウェルビーイングと社会面のウェルビーイングについては、従業員のウェルビーイングが、組織の業績と一致すると考える相互利益パースペクティブが適切であると結論付けている。具体的には、人的資源管理と心理面のウェルビーイングおよび、人的資源管理と組織業績は共に正の関係にあるという結果を示す調査結果が6割以上を占め、それらの調査結果からは、職務満足度や組織コミットメントが両者の関係を仲介するという関係性が読み取れると主張する。
さらに社会面のウェルビーイングについても、同様に6割近くが相互利益パースペクティブを支持する傾向を示していること、従業員間と従業員-雇用者間の関係を組み合わせた研究においては、多くが仲介効果を支持する傾向が見られたことを報告している。
一方、健康に関するウェルビーイングについては、人的資源管理が従業員の緊張のような健康面のウェルビーイングに悪影響を及ぼすという研究結果があることを紹介しながら、矛盾した成果パースペクティブで捉えることが適切であると主張している。
ただし、このような矛盾した成果パースペクティブを支持する研究においても、人的資源管理がウェルビーイングを犠牲にすることを通じて業績の向上がもたらされるという悲観的な仲介効果を支持するエビデンスまでは見いだされなかったことを同時に報告している。
まとめ
Van De Voorde, K., Paauwe, J., & Van Veldhoven, M. (2012)を注意深く読むと、ウェルビーイング経営の実践について人的資源管理論の立場から迫ろうとするする際の課題点が浮き彫りになってくる。
第1の問題点は、人的資源管理が健康面のウェルビーイングに与える影響を検討してきた研究が極めて限定的である、ということである。多くの研究は心理面のウェルビーイングに対する人的資源管理の影響に注目しているに過ぎない。
第2の、より重要な問題は、一連の研究で扱われる人事施策群の中に従業員の健康や安全にまつわる施策は含まれないのが一般的である、という点である。確かに人的資源管理論の教科書でも、従業員の健康や安全にかかわる施策を扱う章では、組織業績に影響を与える施策というよりも、その前提条件を満たす施策と位置づけられているようだ。
しかし従業員の健康や安全を扱う施策の中にも、より応用的な取り組みが増えてきていることを踏まえれば、組織成果を実現するための施策として一部の健康や安全の取り組みを位置づけなおすことが重要ではないだろうか。また、その場合にはその他の施策との適合性も求められるだろう。これら主張に関わる人的資源管理論の研究動向についても、また回を改めて紹介していきたいと思う。
参考文献- Van De Voorde, K., Paauwe, J., & Van Veldhoven, M. (2012). Employee well‐being and the HRM–organizational performance relationship: a review of quantitative studies. International Journal of Management Reviews, 14(4), 391-407.
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森永 雄太
武蔵大学 経済学部 経営学科 教授
もりなが・ゆうた/兵庫県宝塚市生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。著書は『ウェルビーイング経営の考え方と進め方:健康経営の新展開』(労働新聞社、2019年)、『日本のキャリア研究―専門技能とキャリア・デザイン』(白桃書房、2013年,共著)など。これまで日本経営学会論文賞、日本労務学会研究奨励賞、経営行動科学学会大会優秀賞など学会での受賞の他、産学連携の研究会の副座長、HRサービスの開発監修等企業との連携も多い。