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森永教授の「ウェルビーイング経営」研究室【第3回】
良いことを上手にするのが、マネジメント

武蔵大学 経済学部 経営学科 教授

森永 雄太さん

森永教授の「ウェルビーイング経営」研究室

日本企業において「ウェルビーイング経営」に取り組む動きが加速しています。ウェルビーイングとは、心身ともに良好な状態にあること。従業員が幸せな気持ちで前向きに働くことは、生産性の向上や優秀な人材の確保など、さまざまな効果につながると、多くの企業が期待しているのです。では、どのようにして実践していけばいいのでしょうか。武蔵大学 森永雄太教授が、いま企業が取り組むべき「ウェルビーイング経営」について語ります。

小説家が描く「人」に学ぶ

5月の終わりごろに、とても気になる本を見つけました。海外でも広く知られる日本の小説家の一人、小川洋子さんの海外での朗読会の様子やインタビューを取りまとめた『小川洋子のつくり方』という書籍です。しかし、このような味のある書籍を学会前に読み始めるのはあまりにも無謀。そこで、6月の学会報告を終えたら読もうと心に決め、自室の本棚の中に封印しました。報告を終え、晴れて封印を解いたその本を、毎晩少しずつ読んでいます。

この書籍の中には、小川洋子さんが村上春樹さんに言及する部分がいくつかあります。村上作品との関係や印象について問われた小川さんは、人間の心を家に例えて捉えた上で、1階だけでなく地下2階、3階、と垂直方向に降りて描いていくこと、1階だけを書いただけではその人を書いたことにはならない、という村上さんの姿勢を尊敬していると答えていらっしゃいます。

残念なことに、小川さんの言及はほんの短いもので、その発言の背後にどのような立場や姿勢が込められているのか、詳しく言及されているわけではありません。しかし人を重層的に捉える村上さんと、その姿勢を尊敬する小川さんに私も強く共感しました。

良いことを上手に実現するための学問

ちょうどこのコラムでも、第2回となる前回の記事で従業員のウェルビーイングを2階建ての家に例えてご紹介したところでした。このような私の考えは、間違いなく私がトレーニングを受けてきた経営学から影響を受けています。そこで今回は、ウェルビーイング経営のもう一つのキーワードである経営(マネジメント)とはどのようなものかについて触れていきたいと思います。

経営学は、世の中でしばしば金もうけのための学問だとみなされます。しかし私は、経営学とは良いことを上手に実現する学問である、と教えられてきました。(例えば加護野忠男先生らによる『1からの経営学(第2版)』でもわかりやすく説明されています)。経営学を学んでいると、実際に利益を生み出す仕組みを解きほぐして理解したり、利益を生み出すための戦略や戦術について学んだりすることももちろんあるわけですが、それだけではない、というのです。

このような教育の影響を受けて私は、企業は利潤以外の組織成果も複数想定し(例えば従業員のウェルビーイングや社会のウェルビーイング)、その上でそれらを(どの程度かの割合の違いはあるにせよ)両立させようとする存在であり、そのような複数の組織成果を両立させようとする際に生じるさまざまなトレードオフを解消しようと奮闘する存在なのだ、と理解するようになりました。

矛盾やトレードオフを発展に変える

さらに、このようなトレードオフの解消に注目するのが、経営(マネジメント)学の本質なのだろうと考えています。伊丹敬之先生と加護野忠男先生がお書きになった『経営学入門』では、マネジメントを三つに分けて整理しています。図をご覧ください。

3種類のマネジメント

一つ目は環境のマネジメントで、競争戦略論のような製品市場における競争他者との関係性のマネジメントが該当します。加えて資本市場や労働市場において自社がどのようなスタンスをとるのかも、この種のマネジメントに当てはまります。

二つ目は、組織のマネジメントと呼ばれる組織内部のマネジメントです。ここでは、従業員同士の協働を促す仕組みづくりが重要視されます。私が専門とする経営管理論や組織行動論は基本的にはこの領域に含まれます。ここまでの整理は、ある意味王道的でスタンダードな捉え方といえます。しかし最後に、特徴的な三つ目のタイプのマネジメントとして、矛盾と発展のマネジメントが提唱されます。

三つ目のマネジメントは、企業内で生じる矛盾(トレードオフといってもよいでしょう)を発展の機会と変えていくためのさまざまなマネジメントです。これはさまざまな場面で生じます。例えば、環境のマネジメントと組織のマネジメントの間には、しばしばジレンマやトレードオフが存在します。組織外部の環境が変化する中で、それに適合しようと組織内部の変革を進めようとした場合に、組織の人材からの非難や不満の声があがる、というようなケースが当てはまります。

また、組織のマネジメントの中でも、トレードオフは生じます。例えば職場で面白みのある業務をある人が独占してしまえば、その他の人のやる気ややりがいが低下することがあります。分業を前提とする組織のマネジメントでは、従業員間の協働に際して生じるトレードオフの解消こそが本質的な課題と考えられています。

さらに組織のマネジメントにおいては、対象とする経営資源である「ヒト」そのものが複雑で矛盾をはらんだ存在です。それゆえのトレードオフのようなことも生じます。誰かと一緒にいたいけれども、一人でいたい、というのがヒトなのです。そのため、あるマネジメント手法が一度成功したとしても、いつもその手法が有効であるとは限らず、タイミングや状況によっては裏目に出ることがある、というのもマネジメントの実際です。経営学においても、「人(ヒト)」はやはり重層的に捉えられていないと不十分な部分が残ります。そしてそれゆえ、マネジメントには、矛盾の解消がつきものなのです。

ウェルビーイングのトレードオフに向き合う

経営(マネジメント)が上記のような性質を持つものだとすると、ウェルビーイング経営も当然のことながら、さまざまな矛盾やトレードオフの解消を強調する部分に本質をはらむマネジメントだといえます。

例えば従業員のウェルビーイングだけを追求すると、短期的な組織目標が実現できなくなるケースがあるかもしれませんし、ある人のウェルビーイングな状態が周囲のそれとは異なるかもしれません。また、従業員が健康であれば自動的に仕事に前向きになるものだ、という仮定はやや楽観的過ぎますが、一方で、現段階でやる気満々で働いているからといって、無茶苦茶な生活習慣を続けることを肯定してよいわけでもないでしょう。

経済産業省によれば、健康経営(※1)も従業員などの健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することと説明しています。私は、健康経営はウェルビーイング経営へと定義を拡張して捉えるべきだと考えていますが、その際にいかなる意味で「経営的な視点」を取り入れるのかには注意が必要です。決して、費用対効果を考慮するというような意味にとどまらずに、矛盾とトレードオフの解消にも目を向けることが重要だと考えています。

まとめ

ウェルビーイング経営は、見かけほどお気楽な概念ではありません。ウェルビーイング経営を厳しい経営環境の中で実践していくためには、ウェルビーイングを重視することの重要性や有効性を強調するだけでなく、ウェルビーイングを重視することで生じるジレンマや副作用に注目し、能動的に解消していくことが重要です。

皆さまの中には、このようなアプローチは「なんだかウェルビーイング経営っぽくないな」と感じる人もいるかもしれせんが、私には、とてもしっくり来ています。良いと思うことを、なんとか、やりくりしながら上手に実現するのが、マネジメントだからです。

※1 健康経営は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。

参考文献
  • 伊丹敬之・加護野忠男 (2003) 『ゼミナール経営学入門 (第3版)』日本経済新聞社
  • 加護野忠男・吉村典久 (2012) 『1からの経営学(第2版)』碩学社
  • 田畑書店編集部編 (2021)『小川洋子のつくり方』田畑書店
森永 雄太(武蔵大学 経済学部 経営学科 教授)
森永 雄太
武蔵大学 経済学部 経営学科 教授

もりなが・ゆうた/兵庫県宝塚市生まれ。神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了。博士(経営学)。著書は『ウェルビーイング経営の考え方と進め方:健康経営の新展開』(労働新聞社、2019年)、『日本のキャリア研究―専門技能とキャリア・デザイン』(白桃書房、2013年,共著)など。これまで日本経営学会論文賞、日本労務学会研究奨励賞、経営行動科学学会大会優秀賞など学会での受賞の他、産学連携の研究会の副座長、HRサービスの開発監修等企業との連携も多い。


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