社員40名の中小企業が100を超える健康施策を展開
「人が辞めない組織」を目指した、浅野製版所の健康経営
新佐 絵吏さん(株式会社浅野製版所 事業開発部 部長 兼 健康経営推進チーム)
川瀬 和子さん(株式会社浅野製版所 事業開発部 事業開発課 課長 兼 健康経営推進チーム)
鈴木 道子さん(株式会社浅野製版所 事業開発部 事業開発課 主任 兼 健康経営推進チーム)
中小企業の健康経営は、「予算がない」「人手が足りない」「経営者の理解が得られない」などの理由から、後手に回りがちです。しかし、一人当たりの責務が大きく、離職が大きな戦力ダウンとなる中小企業こそ、働き手の健康は重要と言えます。東京・築地にある株式会社浅野製版所は社員40名の中小企業ですが、100以上の健康施策を実施。中小企業の健康経営のモデルケースとして、政府や行政からも一目置かれる存在です。かつてはほとんどの社員が100時間の時間外労働をしていたという状況を、どのように改善していったのでしょうか。また、数多くの健康施策をどう推進しているのでしょうか。取り組みの中心を担う、新佐絵吏さん、川瀬和子さん、鈴木道子さんに伺いました。
- 新佐 絵吏さん
- 株式会社浅野製版所 事業開発部 部長 兼 健康経営推進チーム
しんさ・えりさん/産業カウンセラー・健康経営エキスパートアドバイザー
医療ソフトウェア開発企業、公的研究機関を経て2012年人事労務担当者として入社。全社員面談を通じて社内の健康課題改善のための土壌づくりに取り組み、健康経営優良法人ブライト500、健康優良企業(金の認定)、えるぼしなど多数の認定を取得。経済産業省「健康投資の見える化」検討委員会企業委員(2019年9月~2020年6月)
- 川瀬 和子さん
- 株式会社浅野製版所 事業開発部 事業開発課 課長 兼 健康経営推進チーム
かわせ・かずこさん/健康経営エキスパートアドバイザー
2000年入社。制作部にてDTPオペレーター、フォトレタッチャーとして広告制作に従事。2021年より新商品開発チームを兼任しながら、健康づくり推進担当として健康経営推進に取り組む。2024年、事業開発部に配属となり、同部課長として、新規事業立ち上げに尽力中。
- 鈴木道子さん
- 株式会社浅野製版所 事業開発部 事業開発課 主任 兼 健康経営推進チーム
すずき・みちこさん/健康経営エキスパートアドバイザー
専修大学経営学部卒。2017年新卒で入社し、営業部にて法人営業を担当。若手社員の育成などを担う。営業部内の健康づくり推進担当を経て、2024年事業開発部に配属。法人営業と健康経営推進チームを兼任しながら、社内のさまざまな課題解決に取り組む。
入り口は過重労働の是正 「人が辞めない組織」をどうつくるか
健康経営に取り組む前の社員の皆さんの働き方は、どのような状態だったのでしょうか。
新佐:当社は1937年に創業し、80年以上の歴史がある企業です。社名のとおり印刷用製版から始まり、今ではデジタルサイネージや動画も含めた広告やプロモーションツールの制作を担っています。大手の新聞社や広告代理店などが主な取引先で、社員は40人ほどの中小企業です。
広告業界は、過重労働が起こりやすいことで知られています。真夜中に代理店からデータを受け取り、翌朝の印刷へ間に合うように調整作業を行うといったことが、ほんの数年前までまかり通っていました。当社も例にもれず、労基署に指導を受けるような過重労働が常態化していました。
川瀬:私は以前、制作部で画像のレタッチを担当していましたが、15年ほど前までは、泊まり込みの作業が当たり前でした。日付が変わってからが本番で、朝の6時に作業を終えると、始業時間の9時まで寝袋に潜って仮眠をとるのが日課。時間外労働がひと月当たり100時間を超えるのは当たり前でしたね。営業も制作も、すべての社員が残業漬けの状態でした。
鈴木:私は営業として、広告代理店やクライアントと、社内の制作との橋渡しをしています。2017年に入社したのですが、既に業務フローの改善や勤務体系の見直しが図られていて、徹夜や100時間以上の残業などの経験はありません。上司や先輩から当時の話を聞くこともありますが、まったく想像できないですね。
労働環境の改善が、健康経営につながっていったのでしょうか。
新佐:そのとおりです。当時専務だった、浅野(光宏・現社長)の旗振りで、長時間労働是正に動き出したのが2007年頃。比較的労務管理自体はきちんと行われていましたが、私が人事として入社した2012年の時点ではオーバーワークの名残がまだありました。
過重労働による一番の問題は、社員が辞めてしまうことでした。当時の社員の平均年齢は32歳。長い歴史がある会社では、ありえない数字です。どうして若手がボリュームゾーンを占めるのかというと、30代の働き盛りを迎える頃に「定年まで働けるイメージが湧かない」と、辞めていくサイクルができてしまっていたからです。
川瀬:当時はとにかく仕事をこなすのに精いっぱいで、社員同士のコミュニケーションも希薄でした。誰かに仕事以外のことを相談したり、思ったことを話したりする余裕すらありません。私は就職氷河期世代なので、雇ってもらえて仕事があるだけでありがたいという思いもあり、「会社とはこういうものだ」考えている節がありました。ただ、年齢を重ねるにつれて、「体をもっと大切にしなければ」とは思っていましたね。
新佐:社員が30代を迎える頃に辞めていくという流れは、会社にとって大きな損失です。組織にノウハウが蓄積せず、いつまでも新人育成の負荷がかかりますから。私自身も入社1年目は人事として、社員の入社と退職の手続きばかりに追われ、不毛な時間を過ごしました。「どうにかして悪い循環を絶たなくては」と思案した結果、出てきたキーワードが「人が辞めない組織」だったのです。
社員同士が対話を通じて信頼を築き、将来の不安が払拭されるような環境でなければ、社員は新しいチャレンジに対して消極的になってしまいます。会社の持続可能性と発展を考えたとき、まずはこれまでの働き方を改める必要がありました。そこをクリアしたうえで、ようやく「人が辞めない組織」つまり健康経営を実現できます。
現在は、毎月のプレゼンティーイズム調査やストレスチェックの実施、健康セミナーやイベントの開催、オリジナルストレッチの制作、年2回のサンクスカードの配布、コミュニケーションスペースの整備など、100以上の健康施策に取り組んでいます。はじめは経営企画部で主導し、2021年には事業部の社員を交えたプロジェクトチームでの運営をスタートしました。
最初は働き方改革やワークライフバランス施策の一環だったこともあり、健康経営を特に意識したわけではありません。しかし、取り組みが健康経営優良法人の基準に多く当てはまることが分かり、2017年に健康企業宣言を発表しました。
浅野製版所の「健康経営」の取り組み現場社員の積極的な関わりが、経営視点の健康施策につながる
過重労働の是正では、業務フローの細やかな見直しや、デジタル化も行ったそうですね。
新佐:マンパワーに依存している頃は、ワーカホリック状態にある人たちの「自分たちが会社を支えている」という妙な自負を許しているところがありました。採用でも、100時間以上の残業でもへこたれずに、過酷な働き方ができる根性や体力があることが評価され、能力は二の次にされてしまう例も見られました。
こうした環境で、最も弊害を受けるのは女性です。いくら会社とマッチする人材でも、結婚や出産、育児といったライフステージの変化が、働くうえでのリスクとみなされてしまうからです。そこで、女性が働き続けられる環境を築くことが必要だと考えました。実現すれば、体に無理がきかなくなったベテラン世代でも、経験を生かした働き方ができるはずです。
全社員に仕事内容を詳しくヒアリングしたところ、ワーカホリックな社員は、業務の半分以上が顧客先などへの移動時間が占めていることが明らかになりました。納品だけなら他の社員でも構わないはずです。このように仕事を見直し、細かく切り出すことで、脱属人化や自動化を図りました。さらに、採用基準を見直すことで、女性社員の採用数が増えていきました。
現場の理解を得るのは、なかなか難しかったのではないでしょうか。
新佐:確かに健康企業宣言を出すまでの5年間は、各部署の管理職との調整に気を配りました。いくら人事側で「こうしたほうがいい」と言っても、現場が受け入れてくれなければ組織は変わりません。現状を変えるにはまず、現場で働く人を知ることが大事です。そのため、毎年全社員と面談し、関係を築くことを大切にしています。
現場の社員が健康経営に直接関わることで、どのような効果が期待できるのでしょうか。
新佐:感度の高い社員がいると、企画を任せられることは大きいですね。「こんなことをやりたい」と、アイデアがどんどん湧き出てきます。常に健康情報にアンテナを張っている社員も多く、近隣の病院で行われる健康セミナーには、いつも誰かが参加しています。
川瀬:今日も社員同士で、「社内の更年期対策」の話をしていました。健康が組織の共通言語になっていて、1日に一度は誰かと健康に関する取り組みのアイデアについて話します。仕事でのコミュニケーションの質も、格段に上がりました。
鈴木:川瀬と私はつい先日、健康経営アドバイザーの上位資格である健康経営エキスパートアドバイザーの資格を取得しました。取得するためには健康にかかわる国の政策や組織運営についても学ぶので、営業の数字の見え方が変わりましたね。事業者目線で組織や事業を捉えられるようになり、自身の成長を感じます。
新佐:社内にはエキスパートの有資格者が5名います。それぞれのセクションに1名はいるので、労働安全衛生や労務のことをゼロから説明しなくても話が通じるので助かっています。また、健康に関する施策を、コストと効果を意識しながら企画してくれています。
福利厚生の活用にヒント
現場の社員の積極的な関与は、10年前には想像できていたのでしょうか。
新佐:はじめから社員の健康意識が高かったわけではありませんが、制度を推進するうえで困ったと感じたことはほとんどありません。経営企画部からの依頼は各部門の管理職がきちんと情報を共有してくれます。たとえば健康診断や特定保健指導は、強く言わなくても毎回100%の社員が受診しています。
これまでも深夜残業のときに夜食が支給されたり、社内行事の際にプレゼントを用意したりと、もともと福利厚生は充実していました。これらを健康にかかわるものに変えていくだけでも、社員の意識が随分変わりました。ただし、体操のように主体性や習慣性が問われるものは、上からやれと言われても継続にはつながりにくいですね。みんなで誘い合って参加できるような、ボトムアップの働きかけが重要だと思います。
社員が自身の健康や食生活、運動習慣に目を向けられるようになったのは、働き方が変わって余裕が生まれたからです。さらに、健康になることに積極的な社員が組織にいるので、すそ野が広がっているというのが今の段階です。
川瀬:働き詰めだった頃は、終業後にウォーキングをしようなどと考えたこともありませんでしたが、今はスニーカーをはいて出社し、いつでも歩けるようにしています。ウォーキングがきっかけで新たな取引先ができるなど、仕事の面でもポジティブに作用していますね。17時に退社したら、夜はゆっくりとご飯を食べて、趣味や勉強の時間ももてるなど、プライベートの充実度はかつてと比べて雲泥の差があります。
新佐:継続的な意識づけができたことで、社員は心身に不調をきたしたときに「どうしたら働き続けられるか」と、相談してくれるようになりました。退職とは別の選択肢を模索できるようになったのです。
病気の治療だけでなく、育児や介護など仕事と家庭の両立に取り組む社員も増えました。現場でもどうしたら本人の希望を叶えられるかと、部署間で相談しながら労働時間を調整する関係性が築けています。
川瀬:「社員ができる限り長く、活躍できるように支援する」と、会社が明言したことによる安心感は計り知れません。何かあったときには会社に相談できるとわかっていれば、思いきって仕事に打ち込めます。
取り組みの早い段階から、社外に向けての広報も活発に行っていますね。
新佐:発信の目的は外部へのアピールだけでなく、「社内認知の強化」のためでもあります。組織の中にいると、施策自体が特別なものではなくなります。たとえば鈴木の場合、新卒で入社して以来、毎日のように健康に関する話題に触れてきました。すると、働くうえでのヘルスマネジメントは当然のものだと捉えるでしょう。しかし、他の会社と比べると、当社は相当珍しいはずです。
メディアに取り上げられたり、外部で私が講演したりすることで、社員は当社の取り組みが当たり前ではないのだと認識できます。また、高く評価されていることを知れば、「こんなに面倒見のいい会社で働いているんだ」と、従業員エンゲージメントの向上にもつながります。
実際に社内の機運が変わったのは、メディアで取り上げられるようになった頃からです。私たちが本格的に着手したタイミングと、産業界で健康経営が注目され始めたタイミングが重なりました。当時、中小企業の取り組みは事例が少なく、取材や視察の申し込みをたくさんいただいたことは、非常にラッキーだったと思います。
ホームページで取り組みを紹介しているのも、「社内認知の強化」が目的の一つです。社員が当社のホームページを閲覧するとき、その理由は転職を考えているからかもしれません。転職先として検討している会社のページと比べたとき、当社の独自性と手厚さを実感し、転職を思い留まることもあると考えています。
会社を「来るのがイヤではない場所」にすることに意義がある
他の企業と連携して健康経営を推進していますね。
新佐:「ブライト500」という、中小企業の健康経営優良法人で上位500位以内に認定された4社で結成しました。規模の小さな会社の多くは、健康経営推進の予算が潤沢とはいえません。そこで4社で連携し、一つの会社で行うには難しい健康テーマについて、共同で取り組みました。
たとえば喫煙や女性の健康は、対象者が限られます。事業の性質上、どうしても女性比率が少なくなる会社もあるでしょう。しかし4社で人的資源を活用し合えば、内容を充実させることができます。また、役割を分担できるので、あきらめていたテーマにも取り組めます。
もう一つの効果は、健康経営推進者や経営者同士のネットワークづくりです。一緒に準備を進め、学び合うことで、自社の取り組みを客観的に知ることができ、悩みを共有できます。共感し合える関係は心強いですね。
健康経営について、今後の展開を教えてください。
新佐:私たちの取り組みは、社員の働き方や健康状態の改善にとどまりません。ポスターや推進ツールなどの制作実績が、新たに市場価値を生み出しつつありますし、健康経営推進企業であることが、新たにお取引させていただくきっかけになる機会も増えています。
今年の1月に、組織体制を変更しました。事業開発部という、新規事業開発と健康経営促進を担う部署を新たに立ち上げたのです。
変更によって社内の女性管理職比率が71%にまで引き上がるなど、ダイバーシティ推進にもつながっています。過重労働の是正に端を発した健康経営ですが、あらゆる取り組みが、実は女性活躍やワークライフバランス、SDGsなど他の経営課題とも深く結びついています。健康な働き方を目指す取り組みが、サステナブル経営戦略そのものであることを、あらためて実感しているところです。
鈴木:私は健康経営に携わることで、営業と組織づくりの2軸でキャリアを築けるようになりました。今は「管理職もいいな」と、思い始めているところです。入社時から人を大切にする会社という印象がありましたが、働きがいのある職場なのは間違いありません。
川瀬:私は今回、推進リーダーの立場で新規事業の立ち上げを任されています。「きちんと事業化しなければ」と、背筋の伸びる思いです。事業を立ち上げた暁には、印刷製版事業に並ぶ、浅野製版所の新たな柱へと育てたいという思いがあります。
新佐:健康経営を進めていると、「社員を健康にしてあげたい」「すべての社員が会社に来るのが楽しい状態にしたい」と考えがちです。しかし、人の一生には波があります。仕事にのめり込む時期もあれば、プライベートを充実させたいと思う時期もあります。タイミングは人それぞれです。
目指すべきは「会社が一番」と考える社員を増やすことではなく、まずは「会社に来ることがイヤではない」職場環境を築くことではないでしょうか。健康経営は、事業を継続していくため、“様々な事情を抱えた社員が長く働き続けられる組織”の土台をなす取り組みだと、あらためて感じています。