朝型勤務、がんとの両立支援、日吉独身寮新設
全てにひも付く、伊藤忠流「企業戦略としての健康経営」とは
伊藤忠商事株式会社 人事・総務部長
垣見 俊之さん
総合商社の伊藤忠商事では、診療機能を備えた「健康管理室」の設置や、専属の保健婦や看護師が社員の健康をフォローする「国境なきコンシェルジュ制度」など、かねてより社員の健康管理に注力しています。また働き方改革にも力を入れており、20時以降の残業を原則禁止する「朝型勤務制度」は、大きな話題となりました。「健康経営銘柄」にも2年連続で選定され、注目を集める同社ですが、がんや長期疾病を患う社員の支援や健康経営も視野に入れた社員寮の開設など、ここへきて新たな取り組みも始めています。人事・総務部長の垣見俊之さんに、健康経営の方針や新しい施策の目的などをうかがいました。
- 垣見 俊之(かきみ・としゆき)さん
1990年慶応大学経済学部卒業後、伊藤忠商事入社と同時に人事部に配属。1995年10月から実務研修生として約1年半 ニューヨークに派遣。帰国後 人事考査・労務問題・職務給制度導入・組合対応等 人事制度全般を担当。2003年より、4年間伊藤忠米国会社のDirectorとして再度ニューヨークに駐在。HRデューデリや北米地域の人事戦略全般を担当すると共に経営企画も兼任。帰国後2008年4月より伊藤忠におけるグローバル人材戦略全般の構築・推進、又2011年4月からは本社のダイバーシティ推進も兼任。2012年4月より企画統轄室長として、人事・総務全般の戦略・企画立案を担当。2016年4月より現職。
導入から5年、朝型勤務を継続して促進する仕掛けとは
最初に、健康経営に取り組む意図をお聞かせください。
伊藤忠商事は、いわゆる5大商社の中でも極端に単体従業員数が少ない少数精鋭体制をとっています。そのため、限られた人材で生産性を高く保つことを前提とした経営を行っていく必要があります。
生産性を高めるためには、一人ひとりの力量やスキルを高めることはもちろん大切ですが、そもそも能力を最大限に生かすには、心身共に健康であることが重要であり、さらには伊藤忠で働く事に意義を感じ、主体的に会社や組織に貢献しようというエンゲージメントが高い状態であることが必要となってきます。つまり、社員の「能力」「健康力」「エンゲージメント」から成り立つ、いわゆる「伊藤忠生産性方程式」を高めることがポイントであり、この生産性方程式の基盤となる施策が「働き方改革」で、健康経営もその一環として位置づけているということです。
働き方改革といえば、伊藤忠は朝型勤務制度を導入していることでも知られています。
20時以降の残業を原則禁止とし、代わりに早朝勤務(5:00~8:00)を推奨する制度を、2013年10月に導入しました。「つき合い残業」や「ダラダラ残業」をはじめとする多残業体質から脱却し、効率的に働く事が狙いですが、社員の心身の向上や、健康状態の改善にも寄与しています。併せて、社内の会食や飲み会は「1次会のみ夜の10時まで」に終了するように呼びかける「110運動」も推進するなど、効率的に時間を活用する意識改革を行っています。
朝型勤務は、体内リズムを研修されている神戸大学大学院の塩谷英之教授にも医学的な見地からご意見をいただきましたが、朝早起きし、食事をしっかり取ることで、ドーパミンやセロトニンといったホルモンの分泌も増し、アクティブさやポジティブさが増すそうです。
朝型勤務制度を導入して5年近く経ちますが、継続するためにどのような工夫をされていますか。
朝型の生活を習慣化させる、仕掛けづくりに力をいれています。例えば、早く来た社員への軽食の無料配布。四季ごとのメニューや健康増進に配慮したメニューなど、毎週メニューを変えて、充実させています。
また、「伊藤忠朝活セミナー」を月に1度実施しています。脳科学者の茂木健一郎先生や、棋士の羽生善治さんなどの著名人を招いた講演は、最新トレンドや教養を深めることができると好評です。朝7時半からの開催ですが、東京本社だけでなく大阪にも中継し、多いときは500人近くが集まります。こうしたイベントをきっかけに、朝から脳を使うことがいかに効率的かということを実感できる仕組みにしています。
朝型勤務を徹底させるため、推進状況を評価制度にも反映しています。優良な組織を表彰する制度においては評価項目に「朝型推進度」を盛り込んでいますし、組織長の個人業績評価の際にも、「働き方改革推進」等を含めた「組織マネジメント」項目を目標として設定することを必須化しました。他にも、組織長研修を早朝に実施するなど、組織のリーダーが自ら朝型勤務に取り組むよう工夫を行っています。
制度を導入したことで、どのような効果が見られましたか。
現在、朝8時までに出社する従業員の割合は、全体の44%にまで達しています。それに伴って、導入前は3割以上いた20時以降の在館者が、約5%まで減少しましたし、22時以降の在館者はほぼゼロの状態が続いています。月平均の時間外勤務も、1割以上減りました。結果的に労働時間が削減されたことで、社員一人ひとりの健康増進にもつながっていると思います。
無料で提供している軽食を利用する社員も、初年度の倍近くに増えています。「コストがかかるのでは?」と聞かれることもありますが、そういうことはありません。朝8時前に仕事を開始した場合は深夜勤務と同じ割増賃金を支給していますが、それを足しても、導入前に発生していた残業手当より8%ほど削減できています。
さらにうれしいことに、組合アンケートでは90%以上の社員が朝型勤務制度に賛成している、という結果が出ています。また、会社に対するエンゲージメント調査においても、制度導入前と比較して約5%向上しており、社員の多くが取り組みを好意的に受け止めていることが分かります。
「健康力強化は経営戦略である」ことを明文化
健康経営の取り組みについて教えてください。
弊社では、2016年6月に「伊藤忠健康憲章」を制定しました。ここでは社員が自らの健康力に責任を持ち、それによって社員一人ひとりの生産性が上がり、企業価値向上につなげることです。こうした会社としての健康経営の趣旨と目的をはっきりと打ち出したことが、大きな特徴といえます。
具体策としては、従来から整備している体制ですが、海外赴任している社員でも社内の保健師、看護師がマンツーマンで個々の病状に応じて対応する「国境なきコンシェルジュ機能」や、「キャリアカウンセリング機能」の推進です。禁煙治療費の全額補助や生活習慣病予備軍対策などにも取り組んでいます。実は当初、社員からは「大きなお世話だ」といった声も聞かれました。禁煙やお酒の飲み方など、生活習慣にまで会社から口を出されることに抵抗を感じたようです。しかし「社員の健康力向上は、福利厚生政策ではなく企業価値向上のための経営戦略である」と明言し、それに合わせた施策を打ち出すことで、社員の意識も徐々に変わってきたように感じます。
施策内容は、働き方改革と合わせて「お客様目線・社員目線」をキーワードに、本来の目的である生産性向上、企業価値向上につながるかどうかを徹底的に分析して決めています。例えば、職場環境の整備という観点からは、夏の暑い時期に来社されるお客様が涼んだ後に打ち合わせができるよう、東京本社1階ロビーにクールダウンルーム(室内温度20度に設定)を設置し、多くの方にご利用いただいています。また、地下1階にも社員向けに同様のスペースを設置し、外回りから戻って来た社員が利用することで、席に着いたら素早く業務に集中できる環境を整えています。
また深夜便で海外から帰国もしくは出発する社員が、空港のシャワールームで順番待ちする必要のないよう、オフィスにシャワーラウンジを用意しています。クールダウンルームもシャワーラウンジも、社員がやりがいを感じながら仕事に打ち込めるように整備したものです。
健康経営、人材育成、コミュニケーション活性化 新設した社員寮のねらい
今年開設した若手社員向けの独身寮「日吉寮」も、企業戦略の一環だそうですね。
はい。社員寮は、縦と横、そして斜めのつながりを深める場だと考えています。当社では20年ほど前まで、福利厚生施策の一環として、東京/大阪に独身寮を所有していました。その後、共有部の少ない借り上げマンションに切り替えたのですが、寮生活で得られた人脈が、カンパニーの垣根を越えたビジネスにもつながっていると考えています。例えば、アフリカブロックの新規事業担当と通信事業担当がコラボレーションし、アフリカでの中古携帯電話の販売市場を開拓しました。二人の接点は社員寮で過ごした数年間だけ。その時の縁がなければ、スムーズな事業展開は容易ではなかったかもしれません。
こうしたコラボレーションをさらに促進するため、人的ネットワーク構築・組織力強化を図るのが、日吉寮開設の目的の一つです。今回新設した社員寮は、部屋は360室ほど。入社後4年以内の社員を対象としています。今年度は、旧4寮から約160人と、入社1年目で東京配属になった社員が入寮しました。新入社員が「入寮をしたい」と思えるような、さまざまな工夫を行い、今年度入寮した新入社員は98名。家庭の事情などでやむを得ないケースを除き、ほぼ全員が希望し入寮しました。
寮内は、社員同士が自然と交流できるよう、動線にも配慮しています。各部屋やランドリールーム、食堂、大浴場などに行くには、必ず各階に設置されている共用スペースを通るような仕組みです。
談話コーナーやバーコーナーなど、コミュニケーション活性化に向けて共有スペースが設計されている
また、寮生活は若手社員の教育の場としても活用しています。寮長は当社の社員OBで、寮生面談や日常の生活指導を行っています。今後は地域清掃活動など地元自治会をはじめとした地域への貢献活動や、、寮内での各種研修も計画しています。自主自立の観点からは、フロアごとに自治委員を設置し、3・4年目の社員が自治会長となって、自主的にイベントなども実施しています。
寮内には自家用発電機による72時間のバックアップ電源を確保し、当社基幹LAN線も敷設済みであることや、非常食も三日分備蓄済であり、自然災害時に東京本社に出社できなくなった場合などでも、サブオフィスとして臨時で仕事ができるBCP(Business Continuity Plan:事業継続計画)機能を持たせています。
日吉寮では、健康経営推進に向けて、どのような取り組みを行っていますか。
食堂には力を入れています。Leoc社に委託しており、管理栄養士が考案する朝食は和定食を中心に、野菜たっぷりのデリやコールドプレスジュースなど、ヘルシーなメニューが並びます。夕食はボリュームのあるものから、ご飯と小鉢を合わせても650kcal以内に収まるメニューまで、その日の体調に合わせて選べるのが特徴です。寮費とは別料金になりますが、1食400円程度で栄養バランスのとれた食事をとることが可能です。また、一部のスペースにシェアキッチンを設け、寮生同士で食事をつくることもできます。
食堂ではヘルシーなメニューを用意し、健康経営増進を後押し
運動面はフィットネスクラブを運営するセントラルスポーツと提携し、寮に隣接する店舗を、社員一人あたり月に3回まで無料で利用できるようにしています。4回目以降は1回につき1,080円で利用できるので、運動不足解消にも役立ちます。また、セントラルスポーツで導入しているハイスペックな体成分分析計を、寮内に設置しました。体組成のバランスや部位別の筋肉量を計測することが可能で、希望者は計測データをもとにパーソナルトレーニングプログラムの提案を受けられます。
施設内は喫煙所を除いて禁煙で、希望者には禁煙プログラムの支援も行っています。キュア・アップ社に委託し、スマートフォンアプリを使い、指導員のアドバイスやチャットによるフォローをしながら、6ヵ月間かけて禁煙をフォローしています。
入寮から半年ほどですが、寮生の様子はいかがですか。
コミュニケーションから生まれるビジネス上の効果は、まだ種まきの段階です。しかし徐々にではありますが、当初の目的通り社員同士の距離が以前よりも近くなっているように感じます。寮のある日吉町町内会やすぐ近くの慶応大学とも連携して、近隣のゴミ拾いのボランティアに参加するなど、地域社会にも関わっていく計画です。今後は寮の自治会を通じ、より深い地域貢献が可能になるでしょう。
個人的に改めて感じたのは、最近の若い世代の健康に対する意識の高さです。喫煙者は少なく、お酒もそれほど飲みません。日吉寮では生ビールを1杯100円(現在は250円)で提供していたのですが、平日は合計で10杯ほどしか出ないそうです。社員に理由を聞くと、「次の日も仕事があるから」とか「飲むことにあまり関心がない」と話します。この価格なら一人3~4杯飲んでもおかしくないと思っていたので、とても意外でした。その分、週末は結構飲んでいるようですが。
従来の商社マン像からは、かけ離れていますね。
かつては、2次会、3次会までは当たり前。深夜まで飲んで騒いで、二日酔いの頭を抱えながら出社するのが“商社マンの勲章”だった時代もありましたからね(笑)。若手社員のほうが、より意欲的に健康力向上に取り組んでいる印象を受けます。健康に気を遣う年代でもある50代以降のベテラン社員と若手が、間の世代をけん引する存在となっているのは確かです。
若手・中堅社員に向けた健康経営施策としては、どのようなことを行っていますか。
20~30代の一定基準以上の肥満度の社員を対象に、「スタイルアッププログラム」という生活習慣改善プロジェクトを実施しています。「Re:Body」というオンラインのヘルスマネジメントシステムを全社員に提供しているのですが、プログラム参加者にはそれに加えてウェアラブル端末と体組成計を配布し、さらに専門家の指導のもと、2ヵ月半かけて食事内容や運動状況を管理します。
学生時代に運動をしていた社員も多いので、20代社員の肥満の割合は全国平均を大幅に下回る水準です。しかし30代から全国平均を上回るようになり、40代、50代ではさらに悪化してしまっています。肥満は食生活の乱れや運動不足、不規則な生活など、生活習慣が影響していることが多く、若いうちから対策を講じておくことがポイントとなります。
プログラムへの参加は任意ですが、「太り過ぎを何とかしなければ」と頭では分かっていてもなかなか行動に移せない社員にとって、いいきっかけとなっているようです。また、1回につき100人程度の社員が参加するので、一緒に食事制限や運動を行う仲間の存在が励みになるといいます。プログラム終了時には修了証を贈呈し、目標到達度に合わせて上位の社員にはインセンティブを用意しています。第2回までは男性社員を対象に参加者を募集していましたが、第3回からは女性の参加枠も設けており、とても好評です。
「がんに負けるな」 社長からのメッセージ
がん治療と仕事の両立支援にも、力を入れていらっしゃいますね。
2017年7月、弊社イントラネットで、「がんに負けるな」というメッセージを社長の岡藤(正広氏、現・代表取締役会長CEO)から発信されました。きっかけは、岡藤の元に届いた、1通のメールです。プレジデント社の「日本一幸せな会社ランキング」で伊藤忠商事が2位になったことを知り、がんで闘病中の社員から送られたものです。
「私にとって、伊藤忠は日本で一番いい会社です」と、そのメールには書かれていました。会社からの手厚いサポートもあり、仕事から長く離れることになっても仲間たちは忙しい合間をぬってお見舞いに来てくれる。彼らの「いつでも戻って来い」というメッセージは、がんと闘う私にとって本当に心強いものだ、と。
間もなく、その社員は帰らぬ人となりました。岡藤は故人の残してくれた、「日本で一番いい会社」という言葉に恥じないよう、がんを患う社員への一層の支援と真に「日本一の会社」にする事を決意し、メッセージとして発信しました。
今やがんは、日本人の二人に一人がかかる病気といわれます。本人に限らず、家族や同僚ががんになることもあるでしょう。ですから社員ががんになったとき、「あなたの居場所はここだよ」と、組織みんなで家族のように支え合う仕組みをつくることが重要なのです。支え合うことのできる組織風土は、がんになった社員を勇気づけるのみならず、組織の力を高めることにもつながると考えています。
具体的にはどのような支援を行っているのでしょうか。
現在は大きく「予防」「治療」「共生」の三つに分け、それぞれに複数の支援策を設けています。「予防」と「治療」の大きな特徴は、国立がん研究センターと連携し、「がん特化検診」を義務づけ、がんと診断された場合も最先端治療へ即時につなぐ体制を構築したこと。
加えてがん先進医療を受ける場合には、かかる費用を全額負担しています。高度先進医療は健康保険適用外ですし、1回につき数百万円かかることも珍しくありません。不安をできるだけ取り除き、治療に専念できるよう、こうした制度を設けています。
さらに、「共生」にも力を入れています。治療と仕事の両立を問題なく行えるよう、各ディビジョンカンパニーに両立支援コーディネーターを配置。それぞれのカンパニーの特性を理解したうえでのサポートが可能です。組織長には「両立支援ハンドブック」用意し、両立に対する理解を促しています。また2018年度からは個人の評価にも、「がんと仕事の両立支援」に関する目標を設定するようにしました。
仕事で発揮している能力を闘病・両立にも活かしていくことが、社員個人にとっても、会社にとっても最善の結果をもたらすものという考えのもと、組織全員で支える業務と同様に、「仕事との両立」を「業務」として会社が全面的に支援することを示したものです。
取り組みはまだ始まったばかりですし、おそらく社員の中には、キャリアへの影響を恐れてがんであることを言い出せずに苦しんでいる人もいるかもしれません。しかし、まずは会社としてがんの予防に努めること、治療と仕事の両立を全力でバックアップする姿勢を見せることが大切だと認識しています。
「何がしたいのか」を明確にし、施策を継続させる
今後はどのような取り組みをお考えですか。
全ての施策に言えることですが、まずは趣旨に則った制度運用の徹底と定着を図ることを第一優先で進めていきたいと考えています。いろいろな施策を進めれば良いというものでもなく、健康経営全体の中で何を優先的に行うかという事が重要です。そうでないと「何がしたいのか」が社員に伝わらず、次第に尻すぼみになってしまいます。
また、健康経営を含めた働き方改革を行う中では、継続も重要です。いろいろな企業と情報交換すると、「うまくいかないから止めた」「途中であきらめた」という声をよく聞きます。その理由は二つあって、施策そのものが目的とマッチしていない場合と、継続のための工夫を行っていない場合です。どういう目的で健康経営を実践しているのか、何のために施策を取り入れているのかを整理できていなければ、健康経営は定着しません。
「働き方改革」は、「生き方改革」とも言われます。社員本人が意識を変え、自身で人生をデザインする必要があると感じています。それを認識せずに働き方だけを変えようとしても、社員からは「大きなお世話だ」という反応になり定着はしません。会社としての取り組みの姿勢や本気度をしっかりと示し、従業員一人ひとりの人生を支援することが重要です。