「減塩」「果物の摂取」「食のリテラシー向上」……
従業員の「食生活」は職場環境によって良くも悪くもなる
女子栄養大学 副学長/教授
武見 ゆかりさん
健康的な食事の提供や栄養教育の推進は、企業の健康経営の一環として位置づけられ、企業の競争力を高めることにつながります。日本の栄養学教育を発展させ、健康な食事の提供という食環境整備の社会実装を進めてきた女子栄養大学副学長の武見ゆかりさんに、現代のビジネスパーソンは「食」に関してどのような課題を抱えているのか、企業は従業員に対し食事の面でどのような支援を行うことができるのかについてうかがいました。
- 武見 ゆかりさん
- 女子栄養大学 副学長/教授
たけみ・ゆかり/東京都出身。 慶應義塾大学文学部フランス文学専攻卒。 編集社勤務を経て、香川栄養専門学校栄養士科卒、女子栄養大学大学院栄養学研究科栄養学専攻修士課程修了後、女子栄養大学助手、専任講師、助教授を経て、2005年より女子栄養大学・大学院教授(食生態学研究室)、現在に至る。東京大学教育学部非常勤講師。
日本の栄養学教育に行動科学理論とモデルを導入
武見さんが栄養の分野に興味を持った背景についてお聞かせください。
もともと大学でフランス文学を専攻したこともあり、フランス語を使って情報を発信する仕事をしたいと考えて、編集社で海外旅行のガイドブックをつくる仕事をしていました。仕事をする中でフランス語が重宝されるジャンルが、食べ物とファッションだと気づき、専門性を高めるために栄養学を学び始めました。
勉強を始めると、人間が生きていく上で基本的なことや、知らなければ困ることが多くあることに気づき、栄養学について何も知らないことは問題だと感じました。私だけでなく、大学時代の友人や職場の同僚、上司も同じだったと思います。誰もが食に対して知識が浅く、何も知らないまま、日々の食生活を営んでいるのです。健康のために何をどのくらい食べるべきか、バランス良く食べることの意味、食品衛生の問題、食品のリスクなどについて基本的な知識をすべての人が持つべきだと思ったのです。
現在の武見さんの研究領域はどのようなものですか。
広い意味での栄養学です。具体的には、「栄養教育」と「栄養政策」の分野を研究領域としています。栄養教育は、もともとは「栄養指導」と言って、学術というより、やや経験則に基づく内容が中心でした。ここに行動科学の理論や方法論を取り入れながら栄養教育という一つの領域を築き上げてきました。
もう一方の栄養政策は、「公衆栄養学」の一部ともいえます。「公衆衛生学」の中「栄養」について研究している学問ですね。人々の健康増進に対して、栄養・食の面からアプローチしているのです。
例えば、2005年に厚生労働省と農林水産省が共同で策定した「食事バランスガイド」。コマ型のイラストをご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。私はこの策定にもかかわっています。また、健康増進法に基づく国民健康づくり運動「健康日本21」の策定と推進に関わり、その一環で食環境づくりに関する研究や実践も行っています。
武見さんは2024年3月に、日本における栄養学教育の発展と栄養政策への貢献、ならびにそれらの国際的発信が評価され、「第28回安藤百福賞」優秀賞を受賞されましたね。
ありがとうございます。「健康日本21(第三次)」の領域の一つに「栄養・食生活」があります。この領域での評価や目標設定などにもかかわっているのですが、「バランスの良い食事」「野菜・果物」「食塩摂取量」の目標を具体的に提示しているので、それを参考に、職場の皆さまの健康管理・栄養管理に役立ててほしいと思っています。
「食塩の過剰摂取」「果物や種実が足りない」。基本的なリテラシーが低い
現代の日本のビジネスパーソンは「食事」に関してどのような課題を抱えているのでしょうか。
食事に関する課題としては、食塩の過剰摂取が挙げられます。これは高血圧および心血管疾患の危険因子であり、日本人全体にとって最も重要な課題の一つです。また、果物や種実の摂取が少ないことも課題です。果物は食物繊維やカリウムが豊富。カリウムは体内のナトリウムの排出を促進する働きによって血圧を下げる効果があり、高血圧の予防に役立つとされています。野菜を食べることの重要性は多くの方が認識しているのですが、果物の重要性は見逃されがちです。野菜や果物を、日々の食事で適量に摂取することを推奨しています。
食や健康に関する基本的なリテラシーが低いことも大きな課題です。健康状態が悪くなって初めて栄養指導を受けるという事態を避けるためにも、個人の意欲向上を待つのではなく、地域や企業が一体となってビジネスパーソンの食事を支援していく必要があります。栄養学は実践の科学なので、日々の生活の中に取り入れてほしいと思っています。
ビジネスパーソンが長期的に活躍するための一つの簡単な方法として、「主食と主菜と副菜の三つがそろう食事を1日2食以上摂ろう」とお伝えしています。これでおおよその栄養バランスがとれるはずです。また、ビジネスパーソンは食事の時間が不規則になりがちです。食事をとる時間が栄養や健康に影響を与えることは、時間栄養学の研究成果で明らかになってきました。
食事をとるタイミングによって、栄養の吸収しやすさや効果が異なる
時間栄養学とはどういうものですか。
時間栄養学は、「いつ食べるか?」に着目した栄養学です。体内時計の研究から生まれたもので、食事をとるタイミングによって栄養素の利用や効果が異なることがわかっています。体内時計は「時計遺伝子」と呼ばれる特定の遺伝子群によって制御されます。時計遺伝子は、脳にある中枢の時計遺伝子だけでなく、全身に末梢時計遺伝子として存在していることが明らかになっています。朝食は、内臓の時計遺伝子に刺激を与え、中枢の時計遺伝子と同調して体内時計をリセットする役割を果たしています。単にエネルギーを補給するだけでなく、生体リズムを整えるという重要な意味も持っているのです。
残業などで、夕食の時間が夜遅くになりそうなときは、「分食」をお勧めします。夕方に軽くおにぎりやバナナといった糖質系のもの少し食べておいて、帰宅後に主菜と副菜を食べるようにするのです。そうすることで、血糖値の上昇が抑制されます。
牛乳や乳製品、果物は毎日摂取することが推奨されていますが、日本の伝統的な食事ではあまり料理に使われていない食材です。これらの食材は、仕事中の間食として摂取することで、効率的に日々の食事に取り入れることができます。大人の場合、必要な栄養素を摂取する目的であれば、基本的には1日3食の食事で十分ですが、間食に牛乳・乳製品や果物をとると、栄養バランスを整える上で役に立ちます。
社員食堂やスマートミールで、行動変容に結びつく食環境をつくる
「食事」の面で企業が従業員を支援できることとして、どのようなことがありますか。
栄養に配慮した食事や食品が自然に選べる、あるいは選びやすい職場環境をつくることも、企業ができる支援の一つでしょう。
環境を変えれば食事内容も変わります。これは「食環境づくり」と呼ばれるものですが、社員食堂を持つ企業であれば、社員食堂のメニューを変えることで、従業員が摂取する栄養素も変えられます。従業員は、社員食堂で出される、栄養面を考慮した定食を食べるだけで一定量の野菜がとれ、食塩も控えめにできる。少なくとも1日のうちの1食はバランスのとれた食事ができるでしょう。
厚生労働省の「生活習慣病予防その他の健康増進を目的として提供する食事の目安」に基づいた食事として「スマートミール®(略称 スマミル)」と呼ばれるものがあります。一食の中で主食・主菜・副菜がそろい、野菜多めで食塩のとり過ぎにも配慮された食事のことです。スマートミールの認証制度では、基準を満たす店舗や事業所を認証しています。社員食堂がない場合、スマートミールとして認証されたお弁当を注文弁当として選べるようにすることも、従業員支援の一つになるのではないでしょうか。
オフィス内の自動販売機で選べる飲み物の種類の割合を変えるだけでも、従業員の日常的な飲み物の選択習慣が変わります。糖分の多いジュースばかり並んでいる自動販売機では、ジュースを買わざるを得ません。しかし、お茶やお水が並んでいれば、その中から飲み物を選ぶようになります。これは、医療施設内のコンビニエンスストアで行った実験の結果で立証されています。飲料コーナーの商品構成として、もともと加糖飲料のほうが無糖飲料よりも割合が高かったのですが、その割合を逆転させたところ、無糖飲料の売り上げが有意に増加しました(※1)。
※1 川畑 輝子, 武見 ゆかり, 林 芙美, 中村 正和, 山田 隆司「医療施設内コンビニエンスストアにおけるナッジを活用した食環境整備の試み」(フードシステム研究第 27 巻4号 2021. 3)
企業は、栄養教育や健康教育で、従業員の食・栄養のリテラシーを高めることと同時に、自然と行動変容に結びつくような食環境づくりを行うことが大切です。健康的な選択肢を増やすことで、食事の面からビジネスパーソンの健康を支援できるでしょう。
食べ物や飲み物以外で食事や栄養面の支援をすることはできるのでしょうか。
従業員に対して、健康経営のアプリケーションを提供したり、直接栄養指導を行ったりすることも有効です。セミナーや配信動画などを通じて、従業員へ食に関する知識を提供することもできるでしょう。ウェブサイトで情報を提供したり、特定の情報を見ることを義務づける仕組みをつくったりすることも有効です。ただし、これらを利用するのは通常、関心の高い人に限られ、効果は限定的です。
食や栄養に関する情報を提供する場所は、食べ物と情報が一体化するところが最も適しています。例えば、社員食堂。提供される食事がどのような目的を持って提供されているのか、何に注意して食事をするべきかなどの情報を掲示すれば、従業員に興味を持って見てもらえます。
情報の伝え方にも工夫が必要だということですね。
会社内で影響力のある人が従業員に伝えることも重要です。社長など経営陣のトップ層がその役割を果たせるのではないでしょうか。ただし、その人たちがまず、食や栄養に関するリテラシーを身につけている必要があります。自分自身が大切だと思っていることを話さなければ伝わりません。食生活は一生続くものであり、職場で習得した知識やスキルは定年後も一生役立つという認識を共有することが大切です。
従業員が入社してすぐの研修で、トップ層が日常の生活習慣としての食事の大切さについて話す機会を設けることをお勧めします。従業員は、社会人になって新しい生活を始めるときに、会社の研修で自分が毎日食べる食事について考えることになれば、聞く耳を持つのではないでしょうか。
従業員の食事への配慮が、人材採用の成功確率を上げる
企業が従業員の食生活に配慮することには、どのようなメリットがありますか。
従業員の健康維持、満足度の向上、生産性の向上のほかに、人材採用にも良い影響を与えるといわれています。社員食堂やお弁当などで、従業員の健康に配慮したおいしい食事を用意している会社であれば、長期間健康的に働けると感じられるでしょう。これは従業員の福利厚生と健康経営の両方につながり、会社の評価を高めます。
健康経営の観点からも、食事だけでなく、従業員の生活全体に配慮することが大切です。自分が働く会社が従業員を大切にしていると感じたら、ほかの人にも自分の会社を推奨するでしょう。「うちの会社はいい会社ですよ」「従業員が健康に働けるように考えてくれていますよ」と従業員が言えるような環境をつくることが大切で、その一つの要素が食事だと言えます。食事は健康のためだけでなく、楽しみでもありますから。
食生活は極めて個人的なものです。しかし、1日の約3分の1を会社で過ごすわけなので、会社での食事と栄養管理は重要なのです。
従業員の食生活を改善するための職場環境を整える
従業員を「食事」の側面から支援している企業の取り組みとしてはどのようなものがありますか。
アルマイト・めっきなど表面処理事業を手掛ける株式会社田島製作所では、オフィスで朝食を提供しています。これは、主に夏場に熱中症や夏バテなどで体調不良を訴えるスタッフが増える原因の一つに朝食離れがあると判断したことに起因します。「朝食を作る時間も買う時間もない。それよりも寝ていたい」と考える若い従業員に少しでも朝食を食べる習慣をつけてもらおうと、日替わりのおにぎり、 野菜が多く入ったみそ汁、ゆで卵、漬物、果物、野菜ジュースなど、栄養バランスを考えた朝食を無料で提供しています。
建設・鉱山機械メーカーのコマツ(株式会社小松製作所)には、大規模な生産系事業場のすべてに社員食堂があり、独自の「KOMATSUヘルシー食堂チェックリスト」を開発して、社員食堂の改善を行いました。2020年度には本社健康管理部門が、(1)開発したチェックリストの使用と改善を奨励、(2)事業場の人事部門長へ食堂改善の目的と意義について説明、(3)スマートミール認証取得の支援を行っています。
食品加工や物流を手掛ける株式会社ニチレイは、デジタルヘルスと冷凍健康管理食を掛け合わせた生活習慣改善サポートプログラムを行っています。特定保健指導対象から外れ、フォローが手薄になっている従業員を対象に、食習慣改善スマホアプリで食事写真の投稿、管理栄養士によるマンツーマン栄養指導、簡易血糖検査機器による血糖値の測定、カロリーや塩分に配慮した自社製品と冷凍もち玄米ごはんの提供などを通じて、健康づくりを支援しています(※2)。
※2 これらの企業事例はいずれも以下のWebサイトに掲載されている。
厚生労働省『第 10 回 健康寿命をのばそう!アワード』「生活習慣病予防分野 受賞プロジェクト事例のご紹介」
最後に、企業で健康経営に携わる人事担当者や経営者の皆さまへメッセージをお願いします。
「これさえ食べれば健康になる。仕事の生産性が上がる」といった、都合のいい話はありません。しかし、ここまでお話ししてきたように、適切な「食事のとり方」はあるのです。従業員が適切な「食事のとり方」ができるように環境を整えることは、経営者の責務といっても良いと思っています。職場の環境によって、従業員の食生活が良くも悪くもなるのです。企業によって事情があるとは思いますが、できることから一つずつ始めていただきたい。
個人でできる健康管理として、お勧めしているのは、「体重測定」です。現代の栄養学では、食べた量と消費エネルギーバランスを体重で確認するのが基本です。体重の増減を見るのではなく、食事量とエネルギー消費のバランスを確認するためにも、体重を量る習慣を持っていただきたい。シニア世代のフレイル(加齢により心身が衰えた状態)問題にも体重管理は有効です。若者や現役世代は肥満やメタボが問題ですが、シニア世代になるとむしろ低栄養が問題になります。食事に注意し、生涯を通じて適正体重を維持するためにも、体重計に乗る習慣を身につけることは、ビジネスパーソンにとって大切な健康管理の方法の一つです。