「個の時代」のための自由な組織
松井証券代表取締役社長
松井 道夫さん
「20世紀が『組織の時代』だったとすれば、21世紀は『個の時代』になるだろう」と松井証券の松井道夫社長は言います。退職金制度の廃止や年俸制の導入、「好き・嫌い」という感情を肯定した評価のあり方など、松井社長が打ち出す人事制度改革のアイディアは過激でユニーク。しかし、それらの改革の一つひとつには、「個の時代にふさわしい組織とは何か」を考え抜いた松井社長ならではの発想が貫かれています。「会社とはプロジェクトであり、そこで働く人たちはフリーランスの存在になっていく」と言い切る松井社長の組織論について、詳しくうかがいました。
まつい・みちお●1953年長野県生まれ。一橋大学経済学部卒業後、日本郵船に入社。同社に11年間勤務後、87年義父の経営する松井証券に入社し、95年4代目社長に就任。外交セールスの廃止、株式委託手数料の大幅引き下げ、インターネット取引特化など、大胆な経営改革で業界末席にいた地場証券を個人の株取引でトップクラスの存在に押し上げた。2001年東証一部上場。2004年3月、86年間住み慣れた東京・日本橋兜町から皇居半蔵門前に建つオフィスビルに移転、さまざまな人事制度改革も試みている。近著に『好き嫌いで人事』(日本実業出版社)。
20世紀は「組織の時代」、21世紀は「個の時代」
松井さんは日本郵船から松井証券に移って18年、外交セールスをやめてインターネット取引に特化したり、株式委託手数料を大幅に値下げしたり、ドラスチックな経営改革を繰り返してきました。最近では、年金制度を廃止したり、年俸制を導入したりするなど、社内の人事制度改革にも取り組まれています。
産業革命を超える波と言われる「情報化社会」の本質とはいったい何なのか。それが組織や商売の仕方をどう変えていくのか。僕は、社長になってからずっと、そうした大きな時代の流れをつかもうとしてきました。わかってきたのは、やはり、これからの組織は「個」というものを強烈に意識しないとやっていけなくなるだろうということです。「個」というのは、「人間のエゴ」と置き換えていいかもしれません。
20世紀が「組織の時代」だとしたら、21世紀は「個の時代」です。個人が組織にとらわれずに自由に活動して、その結果として商売が成り立ち、組織も成り立つという世界です。個人の数以上に会社が生まれては消えていく、組織の「多産多死」社会にもなるでしょう。『好き嫌いで人事』という本で書きたかったのは、そういう時代に会社というものはどうあるべきか、という自分なりの組織論です。もちろん、その本を書いた後でも明確な答えが出たわけではなく、今も松井証券で試行錯誤の連続ですが。
人事制度改革に関しては、まず、2002年3月末に退職金制度を廃止されました。
退職金制度が個人を会社に縛り付ける「奴隷装置」だと感じたからですよ。退職金というのは、若いうちはどんなに頑張って働いても、「まだまだ滅私奉公が足りないから、お金はあげない」と言うわけでしょう。退職するまで一つの会社で頑張ったら「今までのぶんをまとめて返してあげるよ」という制度なんです。これでは、個人が自分の人生を会社に丸ごと抱え込まれているのと同じじゃないですか。
もともと退職金制度は、高度経済成長期の恒常的な人手不足の中で、大企業が開発した「装置」ですね。社員の人生ごと会社が囲い込むこの制度で、日本企業の競争力が強くなった側面もあるでしょう。でも今となってはそのメリットより矛盾のほうが大きくなっている。個人が中心の社会になろうというのに、転職したり、定年前に退社したりしたら不利になるような「装置」など、少なくとも松井証券に残しておく必要はない。そう思ったんですね。
社内に反対の声はありませんでしたか。
なかったですね。退職金制度の廃止を決めた頃は社員の平均年齢が30歳代に若返っていましたから。これが、40代、50代の多い会社だったら大変だったかもしれませんが。
それに、松井証券は退職金制度を廃止したと言っても、そのぶんは給与に上乗せしているんです。コストカットのために実施したわけではないし、僕自身も退職金を放棄させられました(笑)。だから、僕はどんなに長い間社長をやっても退職金ゼロなんですよ。
「給料をもらって働く」から「働いて給料をもらう」へ
2004年4月には、新入社員も含めて社員全員を対象に年俸制を導入されています。
年俸制を導入して、これからそのいい面と悪い面の両方が出てくるでしょう。それは仕方がない。これからの時代に必要なのは、「お金をもらって働く」人ではなく、「働いてお金をもらう」人です。
社員の給料を誰が払っているのか。社長や会社が払っているのではありません。お客さんが払っているんです。会社の利益というのは、その会社に対するお客さんの評価であって、社員一人ひとりの給与をどうするかというのは、お客さんからいただいた利益をどう配分するかという問題です。利益がゼロであれば、配分もゼロになる。「給料をもらって働く」人は、世間相場とかベアという基準でお金をもらいますが、「働いて給料をもらう」人は、自分の会社の利益が基準になります。後者の場合の人事評価制度というのは、その会社の利益の配分を社員みんなが納得できるように行うための仕掛けに過ぎません。
新入社員の年俸について言えば、今は松井証券に入った後の評価で決めていきますが、僕は、入社時で能力に応じて3倍くらいの差をつけたっていいんじゃないかと思っているんですね。もちろん人の能力なんて一緒に働いてみなければわからないし、学歴や面接試験だけで判断できないことは承知のうえです。けれどプロ野球の世界では、「こいつは入団1年目からがんがん打ってくれそうだな」と思えば、球団は他の新人に比べて高い年俸を払うじゃないですか。それと同じで、新入社員でも「こいつはできそうだ」と思ったら、月給50万円出して仕事を任せてもいい。そのかわり、期待どおりに働いてくれなかったら、翌年は月給40万円にするとか、年俸を下げます。プロスポーツでは当たり前のことを、松井証券でやりたいと思っているんです。
その年俸を決めるために、社員ひとりに複数の人が面接をすると。その際の評価基準が「好き嫌い」というのがユニークです。
「好き嫌い」と言っても、僕個人の「好き・嫌い」ではありません。松井証券という組織全体が判断する「好き嫌い」という意味ですよ。能力とか実力にはどうにも数値化できないものが含まれているし、人が人を評価するために100パーセント客観的な仕組みというものもあり得ない。だったらむしろ、複数の人間の感性に頼ったほうがいい。面接で複数の人の目から見て高い評価が得られない人というのは、いま一緒に働いている仲間からも共感が得られないでしょう。仲間から共感を得られなければ、高い年俸をもらうようなリーダーとしての責務を果たすことは難しい。僕が「好き嫌い」という感情を否定しないのは、そういう理由からです。
ただし、面接して評価を行うにあたっては必ず、その社員が「前年よりいい」のか「前年より悪い」のかをはっきりさせるようにしました。前年と同じ、「現状維持」というB評価をなくしたのです。人と人で評価を行うとき、「評価する側」はB評価をつけたくなる。B評価に文句を言う「評価される側」はあまりいないし、そのほうが「評価する側」も気楽だからですね。「人が人を評価する」ということは本来、「神への冒涜」とも言える行為です。それくらい難しいことをするのだから、「評価する側」にはそれだけのストレスを感じて欲しい。
「好き嫌い」の評価は一歩間違えば醜悪な結果を生む可能性もあるとわかっています。結局、社員を信じていなければ導入できない。誰かが誰かを評価した、それが本当に正しいかどうかというのは、絵画の価値を判断するくらい難しいものですよ。ある程度の値段はつけられるけど、観賞する一人ひとりがその絵から受ける「感動」というものは測れない。人事評価でも、目には見えないその社員の「人間力」を正しく評価することなんてできません。
『好き嫌いで人事』には「社員研修・社員教育は要らない」とも書かれています。
社員が会社のカルチャーになじんだり、染まったりするための研修や教育は要らないということです。会社は「生き物」ですよ。今日の会社と明日の会社は違う。経営者が変われば全く異質にもなる。研修とか教育に大金をかけて社員をある時点の会社のカルチャーに染め上げても無駄ですね。
ただし、仕事をするための教育というか、実務の教育は必要ですよ。僕は、社員が証券アナリストの試験を受けたいとか、国内の大学のMBA(経営学修士)を取りたいというなら、そのための経済支援は惜しみません。松井証券には、証券アナリストの試験に合格した社員が16人います。証券業務の外務員試験というのがありますが、札幌のオペレーションセンターにいる派遣社員のほとんどがそれを受けて合格しています。そのための研修はいくらでもします。
ビジネスの主導権は「企業」から「お客さん」へ移った
「競争に勝つためには、一体感が必要だ」という声もあります。これまでのお話のように「個」を重視して会社組織をつくった場合、一体感は生まれますか。
一体感の必要性を否定しているつもりはありません。むしろ重要だと思っています。僕のイメージの中では、21世紀の組織は米陸軍の特殊部隊「グリーン・ベレー」のようにならないといけない。20人ぐらいの少数精鋭の部隊がつぎつぎに高度な作戦を遂行していく。高度な作戦をミスなく行うには、お互いの信頼関係がなくてはいけないでしょう。一人でもミスをしたら、部隊全員が巻き込まれて命を落とす危険もありますから、お互いに相手が今、何を考えているのかを理解しようとするし、体調がいいのか悪いのか、何に悩んでいるのかということまで共有したうえで行動する。個人は自由でも、情報を共有し合うことは必要だということです。
戦場での「命の危険」に相当するのは、ビジネスでは「明日、会社が潰れてしまうかもしれない」という危機感でしょうか。
そう。これからの時代、ビジネスのやり方によってはお客さんからビタ一文もらえないという事態も起こりうる。僕はそう思いますね。商売はすごくシビアな世界になっていくでしょう。商売のうえでの競争というのは、もっともっと厳しくなっていく。
「個」の時代には、「企業の都合」ではなく、「お客さんの都合」で社会が動きます。お客さんは自分勝手なので、供給サイド=企業の都合なんておかましなしに、そのときどきで自分にとっていちばん都合のいい商品やサービスを選ぶ。過去の成功に浸っているだけの企業、お客さんの意向を無視して価格を決めているような企業は、必ず捨てられる。企業は、今日が良くても、明日になればサヨナラかもれないし、膨大な利益をあげているビジネスがあっという間に赤字になるかもしれない。1990年代に入ってから、ビジネスの世界の主導権は、すでに企業からお客さんへ移っているんですよ。
それ以前の、供給サイドが中心の世界、企業が主導権を握っていた時代はマイルドでした。100人中51人が勝者で、49人が敗者という世界ですよ。しかし今は、今日勝った1人が明日は敗者に転落するかもしれません。少数精鋭でフットワーク軽く、つぎつぎに高度な作戦を繰り出す、そんなグリーン・ベレーのような組織をつくって「顧客中心主義」を貫かないと、企業はいつか見放される。それは確信を持っていえますね。
証券会社なのに営業マンによる外交セールスをやめたのも、やはりお客さんの意向を汲んでのことですか。
そうです。お客さんは営業マンのセールスをうるさがっていたんです。それなのに営業マンのコストは馬鹿にならない。自分が迷惑している営業マンのコストを、喜んで負担するお客さんなんて、いないですよ。
営業マンを廃止してコールセンターによる取引を始め、その後コールセンターも廃止して、インターネット取引一本に絞りました。松井さんが社長になって、松井証券は「顧客中心主義」で驚異的な成功を収めてきました。
でもね、2000年頃から「大企業病」の臭いを感じるようになったんですよ。
どういうことでしょうか。
最初に「大企業病」を患ったのは僕自身ですけどね(笑)。「組織はアタマから腐る」と言うでしょう。僕は松井証券の前は大きな会社にいたから、その要素を持っていたんですね。会社の成長とは組織を大きくすることだと、そんな勘違いをし始めました。小さな会社なのに大企業のまねをして、毎年20人ぐらい新卒を採用したりしていた。
でも、ある時、社内で管理職の様子を見ていたら、みんな丸の内や大手町の大企業の管理職が言うようなセリフを言っていたんですね。自分たちの下に部下がたくさん増えて、それが快感だという意識、「課長になりたい」「部長になりたい」という意識もモロに出ている。これはまずいと。僕は僕で勘違いをして、彼らは彼らで出世というのを部下が増えることだと勘違いしている、と気がついた。考えてみてください。利益が同じのままで人が増えるということは、自分の取りぶんは減るわけですよ。「働いて給料をもらう」社員だったら、人を増やすことを喜ぶのではなく、人を雇う代わりに自分の給料を倍にせよと要求するはずなんです。
「大企業病」に気がついて、2004年の3月に86年間住み慣れた日本橋兜町から皇居半蔵門前に建つ今のオフィスビルに移転して、さまざまな人事制度改革も実施してきたというわけですか。
そうです。「これ以上組織は大きくしない」という僕なりの宣言です。1年前にここへ移った時、社員は170人いましたが、今は140人。30人のクビを切ったのではありません。僕がうるさいことを言って改革をしていったら、それに合わないという人が出ていっちゃったんです。
91年頃から営業マンの外交セールスをやめて支店を閉鎖し、コールセンターに絞り込んだ時も、当時、120人いた社員のうち、3分の2が辞めていきました。こんな馬鹿な跡取りが社長になるような証券会社は潰れると思ったのでしょう。でも僕はその時、松井証券の営業マンを否定したわけじゃない。彼らは、一生懸命やっていました。だけど、自分たちはこんな一生懸命頑張っているのになぜ営業をやめるなんて理解できないなどと考えるのは間違いなんです。考えて欲しいのは、お客さんは営業マンの一生懸命さにいくら払ってくれますかということです。「個」の時代、お客さんの論理が何より優先する世界では、根本的な発想の転換が迫られる。そうしないと、松井証券は社員ではなくお客さんに見放されてしまいますから。
「捨てる」決断は成功し、「加える」決断はすべて失敗した
さまざまな経営改革と人事制度改革を実施されてきましたが、振り返って「失敗した」という決断はありますか。
山ほどありますよ。すぐ思い出すのは、まだ社長になる前、都内に「株取引は最大の娯楽だ」というコンセプトの支店を出したんです。ゆっくりとコーヒーを飲みながら株取引を楽しむサロン。そういう雰囲気のある、ちょっとソフィスティケートな店にしました。ところがお客さんはそんな雰囲気の株屋なんて望んでいなかった。3年ほど続けたけど、ほとんど利益も出せないまま、結局開店と閉店の費用で5億円ぐらいの損を出しました。
山ほどの失敗と数少ない成功を振り返ると、「捨てる」という決断をしたことが成功していますね。営業マンのセールスを捨ててコールセンターをやった。さらに、そのコールセンターも捨ててインターネットに特化した。「捨てる」リスクを取らず、新しいものを「加える」だけの決断は、全部、失敗しました。結局、成功に導いてくれたのは「足し算」ではなく、「引き算」なんですよ。何かを「捨てる」勇気を持たずに成功することなど、ありませんね。
個の時代に向けて、松井証券は規模の成長を求めない、ということですが、では会社の成長の物差しになるものとは何ですか。
僕は、会社が成長することじたい、全く必要ないと思っています。会社は生き物。誰かがある時点で「この指止まれ」をやる。それを「面白い」と思った人たちが集まって、サービスなどを提供する。そして、そのサービスがお客さんかに不要となったら、その集団は消えてもいいし、再編して別の集団になってもいい。だから個人が会社に縛られる必要も、会社が成長していく必要もないんですよ。だって、お客さんにとってサービスを提供するその会社が大きいか小さいかなんて関係ないことで、その時点においてどんなサービスをいくらで提供してくれるのか、ということのほうが大事なんですから。会社のウチでもソトでも、あくまで中心にあるのは「個人」。個人(構成要素)が変われば、企業も変わる。もっと言えば、企業そのものがプロジェクトであって、そこで働く人は全員、これからフリーランスの存在になるだろうと思いますね。
僕は今、松井証券の社長をやっていて、利益を出していますけど、いつかきっと、僕自身が時代と合わなくなる時が来ますよ。それはなるべく遠い将来であって欲しいですが、間違いなくやって来る。その時になったら僕は社長を辞めるし、僕が辞めたら、松井証券は組織も何も全く新しいものに変わるかもしれない。でもね、それでいいと思っているんです。
取材は8月12日、東京・麹町の松井証券にて
(取材・構成=村山弘美、写真=中岡秀人)
さまざまなジャンルのオピニオンリーダーが続々登場。それぞれの観点から、人事・人材開発に関する最新の知見をお話しいただきます。