「ダイバーシティ開発」「キャリア自律」といった言葉は、理想の状態を想定した、こうある「べき」で語られることが多いが、本当にべき論が通じるような状況が「ダイバーシティ開発」や、「キャリア自律」に存在しているのだろうか。慶應義塾大学教授の花田光世氏は、これらの言葉を、「社員が苦しい環境の中で、自らの居場所をつくっていく厳しいプロセス」と表現。「企業は、社員が真剣にぶつかり合い、相互に啓発し成長するための支援を行うべき」と主張する。これから社員が真に元気になるために、人事が行うべき方策とは何なのだろうか。
従来のキャリアの考え方では、職歴、獲得スキル、報酬、責任の大きさといった「外的キャリア」と、仕事への向き合い方、仕事から何を獲得し、学んだかといった「内的キャリア」のバランスをどう取るかが重要だった。花田氏は、従来の人事部門の活動では社員の職務満足を第一に考え、その職務満足により、個人がキャリアデザインにコミットし、そのキャリアをさらにストレッチする担保となっていたと語る。
「個人としての成長を考えたとき、本当にこれからも職務満足だけでやる気を維持できるでしょうか。これから先、多くの社員にとって、職務満足を高めるような資格や職位の上昇、それに伴う賃金の上昇は望めなくなってきています。ですので、社員一人ひとりの能動的なキャリア形成について考えてください。例えばキャリアダウンになってしまった方、年齢を重ねて苦しい局面にある方に、そのとき影響を与えられるものとは何なのでしょうか」
では、内的キャリアの充実がそれに代わるだろうか。自己実現に近いような内容の仕事を企業が提供できるかというと、それは不可能に近い。なぜなら、その達成水準があまりに高いから。いい会社でいい上司、いい仕事でいい給与、今まではこれらが職務満足を高める一連の施策だったが、これからのキャリア自律の担保となるのか。
ここで2008年に、慶應義塾大学キャリア・リソース・ラボラトリとインテリジェンスが共同で行った、2700人の転職者を対象とした調査結果が紹介された。転職者に満足度を決める要因を質問したところ、高い給与や高い地位、希望通りの仕事よりも、「日々の活動で成長を感じることができたこと」「仕事を通して自分のチャンスが広がったこと」「さまざまな人と交流し相互に助け合い、新しい視点を学べたこと」という回答が上回ったという。
「これらの要因は転職者に限らず、組織の中で不安を感じて戸惑っている人たちのゴールとして非常に重要だと思います。成長のきっかけとしてのチャンスづくりが、個人視点のモチベーション開発につながるのではないでしょうか。これからの人事には、成長に向けて、個人の心が動くような支援を行うことが大変重要だと思います」
これまでは、年齢を重ねていくライフステージと、仕事を深めるキャリアステージが人事部門の努力により、ある程度同期化できていた。しかし、成果主義や流動性の進展によって難しくなっている。
「これからは人事部門ではなく、一般社員の自主的な努力により、連続的にこの同期をメンテナンスし続ける宿命があるでしょう。私はこの二つを同期させる作業を、ストレッチングと呼んでいますが、不安の中でキャリアを作ろうとする人たちにとって、これがもっとも現実的かつ日常的で、むしろ継続的なキャリア論ととらえていいと思います」
花田氏は、個人の視点に立ち、個人の成長・チャンスの広がり、新しいライフスタイルの構築をベースに、ストレッチングを目指すことを「ダイナミックプロセス型キャリア」と呼ぶ。一言でいえば、これからはポジティブに生きること、その生き様そのものがキャリアであり、その背景には、生涯にわたる学びと成長のプロセスが存在するということだ。
私たちのこれから先の人生には、あまりにもキャリアダウンの機会が多すぎると、花田氏は言う。給与ダウン、ポストオフ、身体機能の変化などがある中で、キャリアアップを前提とすることは非常に困難。だからこそ、個人は常に心を前向きに保たなければならない。
「キャリアに対する、能動的な活動のスタンスに必要なのは、一歩の踏み出しを重視することです。能動的、主体的にきっかけを作っていったときに、予期せぬ結果に対しても常に気持ちをオープンにしておく。偶発性も自ら起こしていくという立場であり、それはストレッチングでもあり、人生の節目づくりにもつながります。年代ごとに『こうあるべきだ』という考え方へ過度にもっていかず、一人ひとりの社員が年代による標準にとらわれず、自分らしさの発揮を志向することが重要であると考えています」
花田氏は、日常の業務を通じて自分の可能性を拡大していくことを「ジョブストレッチング」と呼び、その日常のとらわれから、自分自身を解放し、従来のやり方にこだわるず、新しい節目、チャレンジ目標を設定することを「バリューストレッチング」と呼ぶ。能動的、主体的に行動した結果、チャンスは生み出され、これを繰り返せば個々のキャリアが作られていく。「キャリア自律=ダイバーシティ」という考え方であり、皆が今までと違う、人とも違う自分らしい生き方をすることができるのだ。
人が能動的に前向きに生きるときに、人間力・キャリアコンピタンシーとして何が重要か。花田氏は、どのような状況にあっても、自分をさらに継続的に高め、一歩踏み出す力として以下の6点を上げる。(1)能動的対処 (2)周囲への配慮と関わりあいと信頼を獲得 (3)オープンマインド (4)リスクテークとタフネス (5)自己を知り、自己動機付けを行い、継続的に自己成長を図る (6)Integrity(高潔さ)とセルフコントロール
「皆さんにも『ああいう生き方がしたいな』と思える、ベンチマークとなるような人が誰かいらっしゃいますね。そういう人がどういう働き方をしているかを、考えてみてください」
花田氏は、キャリア構築に成功した人、「難しいことは抜きにしてあいつは仕事ができるな」という人にある行動特性を上げる。
「人事はこれまで、職務満足を達成する人を支援してきました。しかし、現状を見れば、生き生きと毎日を生きている、モチベーションを自分で開発できている、そういう人を目指すように支援する時期にきているのではないでしょうか」
キャリア自律は、キャリアアップや自己実現とは違う。不安や悩みがあってもそれにめげずに自分の成長に向き合い、一歩を踏み出す、自分に厳しく向き合うプロセスだ。花田氏は「人事の一部の方から、企業がキャリア自律なんて導入するわけがないと言われますが、では、何が新たな人事のステップなのかと問いたい」と語る。これまで人事は成果主義のなかで、一部のエリートばかりを相手にしてきた。Bクラス社員や若手社員には、非常に厳しい資産価値の発揮、成果を求める動きをしてきた。しかし、ライフステージとキャリアステージの崩壊に対しては、フォローができていない。
「現場では、一人ひとりの社員が自律的、能動的に厳しい環境のなかでキャリアを一生懸命つくる努力をしています。そんな現状がありながら、企業が社員のキャリア自律を支援しないと言い切れるでしょうか。個の支援を真剣に考えるべきです。そうしないと、企業は内部崩壊してしまう危険性があります」
花田氏は、これまで企業は社員に対し、上へ上へと登らせる「登山の論理」を使ってきたが、これからは、自ら能動的に自分の人生を歩む「ハイキングの論理」へ変わるべきと語る。
「今までの人的資産管理は上位から2:6:2でしたが、これが今後2:4:4から1:1:8と変わっていきます。上はごく一部となり、下が膨らむのです。企業が個の支援を放棄すれば、従来組織を支えてきた中間層がやる気を失って流動化し、内部崩壊につながる恐れがあります」
一般的にダイバーシティは、多様性を担保にして受け入れ、その権利を守る「インクルージョン型(共生型)」で考えられるが、花田氏は「インティグレーション型(個人の成長への統合型)」とも融合すべきだと語る。
「多様性と厳しく向き合って、そこから自分が変わっていく。そこでの学びが成長のきっかけとなり、個人が変わる。ですから私は、組織的な視点で見れば、ダイバーシティ&インクルージョンであっても、個人の視点から見たときには、ダイバーシティ&インティグレーションではないかと思います。個人の成長にダイバーシティは深く係わるのです。ですから、インクルージョンとインティグレーションをどう融合させていくかが、ダイバーシティの大事な本質だと思うのです」
花田氏は、多様性との出会いで個人の成長を促す運動を「ダイバーシティ開発」と呼ぶ。これまでの組織開発は、金太郎アメのような一体感を醸成してきたが、これからは多様な考え方や価値観とのぶつかり合いを通して個人の成長を促し、新たな変革を生み出す風土づくりが求められる。このような価値観をどのように組織の変化、成長に結びつけるかが、人事の大事な役割となる。
花田氏は「最後に、人が元気になることに関して、一言申し上げたい」と語り始めた。「私たちの今の生き方は、本当に『元気』を生み出す方向に動いているでしょうか。むしろ現実は不安を拡大し、不安を中心テーマとし、不安によりそうことを重要としているのではないでしょうか。そして元気・健康に関しては水準を高く設定してしまい、到達しにくくしてしまっているように思えます。私たちは、心も体も健康という状態の水準を高く設定してしまい、不健康な人たちの層を拡大していないでしょうか。それが受身的な人たちから活用されてしまっていませんか。こういう現実を、考えなければならないと思います。不安をチェックする仕組みは作ったけれど、不安に向き合おうとする強い気持ちをどのように持たせるかという支援のメカニズムは、十分に作りこめていない。このことを十分に自覚すべきです。人が悩みを抱えながらも、前向きに一歩を踏み出すことに関して、人事、組織、教育の面から支援の仕組みをしっかりと作っていく。これこそが、今後私たちが目指していくべき方向だと思います」