私は30年間に渡って世界を飛び回ってきましたが、一番感じているのは、日本人が英語に弱いのは当然のこととして、意外にITにも弱いということです。そこで、2009年のアップル退任後に設立した会社では、この問題を解決したいと考え、三つの大きなストラテジーを掲げました。
一つ目は、「ハイタッチリーダーシップ」。これは、外資系で長年働いてきた私の経験の中でも強く残っているもので、コンピューターが人間よりも能力が高いために、ストレスやフラストレーションが蓄積されてしまう現象を背景に言われるようになりました。「ハイタッチ」にはいろいろな訳し方がありますが、私は「思いやり」や「気配り」と捉えています。日本人にしか出来ない思いやりや気配りを持つ私たちは、最も素晴らしい国にいるのではないかと思います。
二つ目は英語教育です。人は、相手の発音がおかしかったり、きちんと話せなかったりすると、二言三言聞いただけで「この人とはあまり深い会話ができないな」と構えてしまうものです。そこで私たちは、徹底的にネイティブに近い発音ができるように指導しています。
三つ目は、子どもたちに英語でITを教える学校を作る活動です。大人になってからでは遅い、という意識で取り組んでいます。
株価がたった10ドルだった時代のアップルに入った私は、変革のためにたくさんの努力を重ねましたが、本当に成功したと思えるまでに30ヵ月かかりました。また、スタート時には驚くことも多かった。例えば、当時の家電量販店では、一番奥の目立たない所がアップルの売り場でした。北海道から沖縄まで370もの量販店を視察しましたが、多くの店で「アップルは嫌いだ」という反応がありました。
当時のアップルの社内はと言うと、負け犬のようで、何をやってもダメ、あれをやってもダメ、どうせダメ、という雰囲気。私は入社間もない外様ですから、まずは3ヵ月間みんなの言い分を聞こうと、それだけを行いました。また、本当に量販店からみて儲からない商品なのかどうか、半年間考えました。
スティーブ・ジョブズはとてもいい男で、私に会う度に必ず言う言葉がありました。“What can I do for you――オマエのために今、俺は何ができるか”ということです。そう言われる度に私は「とにかく日本に来てくれ」と、彼に言いました。彼が来日すれば、風向きが変わる気がしたからです。また、日本がどうなっているのかを、感じて欲しいというのもありました。私が入社した翌年の2005年8月に、彼は日本に来てiTunesの日本版を発表してくれましたが、その後すぐに風向きが180度変わったことは、今でも忘れられません。
とはいえ、ライバルはあのSONYです。テレビもオーディオも販売していて、量販店への貢献度はアップルの何十倍もある。営業の人員だって、何十倍もいます。最初は、勝てる戦いではないと思いました。それでも、アップルには良い製品があり、周辺機器を含めて利益率は高いという計算式が頭の中にありました。すると、その年の12月から、売上げが毎週3倍のペースで伸びていったのです。「スティーブがとても喜んでいる」というメッセージが、私に届きました。今でも思い出すと、泣きそうになります。
アップルの社長を務めた5年半は、年間300日は仕事の夢を見ていました。とんでもない激務です。毎朝5時か6時に出社し、アメリカ人と戦い、トラブルが起こった経産省の方とも戦い、部下が出社したら、ハイタッチリーダーシップですから“Good morning”と満面の笑顔。B to Cの社員にはとてもやさしくて弱い人が多いので、笑顔はとても大事でした。
ここからは、私がアップル・ジャパンで始めた改革について、お話します。まずは社内からです。当時のアップルは元気がなく、負け癖がついていた。けれども、製品を愛している「いいヤツ」がいっぱいいました。愚直だけれど、製品の良さを伝える力がある。彼ら彼女らを、なんとか活かしたいと思いました。 そこで、外資系とはおよそ思えない「継続は力なり」と書かれた横断幕を、社長室の前に掲げました。「君たちがやってきたことは何も間違ってない、このまま続けよう、私は君たちをリスペクトしている」というメッセージを出し続けたのです。「私たちができることは、愛しているアップルの製品をどのように使って、人間の生活をどう変えたいか、それだけなんだ」と徹底して伝えました。
量販店からの信頼回復は、大きな問題でした。「アップルはもうからない。営業はロクに来ないし、iPodはMacに繋がないと動かない。とにかく嫌いだから会いたくない」といった状況ですから。「こんにちは、新しい社長さんですか。何しに来たんですか」と言われたほどです。そこで、「ようし、やってやろうじゃないか」と奮起し、400店舗近くの量販店を回り、まずは自分の足で稼ぐことから始めました。
営業担当には、どうしたら量販店がもうかるのか、事例も交えながら算数ばかりを教えました。また、各社の社長さんを集めては、「皆さんにだけにアップルの魅力をお伝えします」という主旨で、直接私が語りかける場も作りました。
もっと大事なのは売り場でした。量販店はフロア、コーナーごとに利益を管理しているところがほとんどです。当時、iPodは、フロアの一番奥のほこりのかかったような売り場で、Macの周辺機器として置いてあるだけ。なんとか「楽しい音楽の世界」として飾ってもらえないかと私は考えました。
まずは、興味を持っていただくために、一番華やかなオーディオコーナーに展示してもらおうと什器開発に予算を割きました。iPodが並んでいてワクワクするようなカッコいい棚を作るのです。社員との時間も、すべて店頭での教育に割り振りました。六本木にショールームを借りて、量販店の社長を呼んでアピールすることにも力を入れました。
もう一つやっかいだったのは、アップルの本社から信頼されていないこと。量販店がいくら乗り気になっても、供給不足で製品がなければ、あっという間に売り場を変えられてしまいます。
なんとしてもアメリカの信頼を得なければならないと考え、販売会議には毎週必ず出席しました。「今週何台売れた、来週何台いる」というレポーティングはファイナンス部門の仕事で、社長の仕事ではありません。しかし、「ケンジが言うのなら、絶対それだけの個数を送らせよう」という供給責任者との関係を作っていこうとしたのです。アメリカのファイナンスや需給管理の担当者たちに私の顔を覚えてもらい、信頼してもらえる良好な雰囲気を浸透させていきました。
アップルには、会社や学校への導入などの仕事もたくさんあります。有能な人には、より良い仕事をして欲しいと考え、ミドルマネジャーをそういう担当に配置転換しました。
当時は、営業に社内で競争する仕組みがなく、ボーナスの仕組みも大雑把なものだったので、売上げ目標を新たに作り、年間の表彰式を初めて開催。社員の家族の前で表彰されるような演出も取り入れました。
外資系企業にはオフィスに高いパーテーションがある会社が多いのですが、私は全て取り払いました。風通しをよくしようと考えたのです。アメリカの人事とは昇級の交渉もいろいろ重ねました。若くて優秀な人を昇進させて、週に3、4日は飲みに連れて行き「ハイタッチリーダーシップ」を刷り込み続ける日々を送ったものです。
愛社精神が強い社員でなければ、アップルのようにクセのある製品を売れません。最初は、人事部門の担当者に「冗談でしょう。年間に一人しか採ったことないですよ」と言われました。しかし、2年間準備をして、私が全ての会社説明会に顔を出し、全てのファイナルインタビューを1対1で行って、3年間で100人を採用。最後の年には1万人以上の応募者が集まるようになり、本当に素敵な人ばかりが入ってくる会社になりました。学生の就職先人気ランキングでも、かなり上位に入ったと思います。
iPodでなんとか売上首位を取ったと言っても、SONYという強敵がいましたから、全く油断できませんでした。iPodが売れても、Macのシェアはまだまだ低い。そのうえ、iPhoneがいよいよ登場することになったのです。当時はまだ社員にも伝えていませんでしたが、iPadが登場することも決まっていました。そのための準備は、全て今まで通りではありません。“The only constant is change”が、まさに会社の中で毎日起こっている状況です。
そこで私は、会社の横断幕を「継続は力なり」から「破天荒たれ」に変えました。100人の新入社員に対しては、何が起こっても戦えるようにと、B to Bの営業でも耐えられるような合宿も実施しました。とにかくthinkできる社員を作らなければと、徹底して取り組みました。
一人では、誰も成長できません。だからこそ「ハイタッチリーダーシップ」を浸透させなければならないのです。自分で考えることができ、お互いに助け合って、みんなの業績をみんなの成功として感じられる――そんな人間を育てていくことが、私がアップルに残してきた業績ではないかと思っています。
【協賛】 リ・カレント株式会社
人材のリーダーシップとフォロワーシップの強化を行い、チームワークを開発することを通して、「協働」と「共育」の組織文化をつくり、「感謝と笑顔」に満ち溢れた社会の実現に貢献します。